チョコミントパンケーキとチョコミント蒸しケーキ後日談2020/07/07

月齢6.9 撮影2020/06/28 20:41
久しぶりの投稿です。体調不良、気分不良など色々ありまして。
食欲もあまり無く、せっかく作ってもそのまま冷蔵庫保管になったりして。

月の写真をずっと撮りたかったのですが、まあ梅雨だから仕方ないのですが6月9日以降ずっと月が見られず、6月28日にやっと月齢6.9の半月を見ることが出来ました。薄い雲が掛かっていて、あまり鮮明ではありませんが。

さて、6月16日投稿の「チョコミントパンケーキ」と「チョコミント蒸しケーキ」に関する後日談です。
実は、15日深夜つまり16日未明に投稿してから2日後、スーパーに買い物に行きましたら、な、なんと、チョコミントパンケーキとチョコミント蒸しケーキが、仲良く並んで陳列され、売られていたのです\(◎o◎)/!びっくり!!
も、も、もしかして、スーパー関係者のどなたかが私のブログ見たんでしょうか?
まさかねえ、たんなる偶然ですよね?
2つ並んで売られれば、私のように慌てて間違える人はいませんね。
めでたし、めでたし。

今朝の収穫と豪雨に思う2020/07/08

ベゴニアと今朝の収穫
依然として大雨雷洪水注意報発令中だった。
ニュースを見ると九州各地の水害で辛くなるので、まだ体調は悪かったが、雨の止み間に青ジソを収穫することにした。虫に食べられる前に。

私は子供の頃から低気圧に弱い。一昨日だったか、大雨警報と竜巻注意情報が出された日の朝、起床時から具合が悪かったが、要介護5の母が入所中のグループホームよりタオルケット等の要請があり、幸い午後から日差しもあったので、新しいタオルケットは吸湿性が良くないので洗濯し、十分に乾かなかった部分はドライヤーで乾かして、夕方に持って行き、くたくたに疲れ頭痛も酷くなって、夜遅くまで食事も入浴も出来ずに横になっていた。
それ以来、体調が整わず、花や木や野菜の手入れがほぼできない。
もともと4月以降体調を崩しているのだ。コロナ禍もあって。

まだ母が比較的元気だった平成13年4月に、私は家の東側に小さな畑を作った。コチコチに踏み固められた砂利だらけの場所をスコップで掘り返し、父がコンクリートを張った部分も取り除き、溝を掘ってコンクリートブロックを並べ、1ヶ月近くもかかってコツコツと手作りした半坪程の小さな、畑とは呼べないほどの畑。そして、軒下のプランタースタンドや犬走などに並べたプランター。それらが私のミニ農園。

勝手口から外に出ると、滴る木の葉に触れて肩が濡れる。零れ種からどんどん増えるベゴニアが、雨に洗われ美しい。
雨の間に虫に食べられたのでは?と心配していた青ジソは無事だった。ピンと勢いがあり、手で摘むと、とても爽やかな良い香りが広がる。けれど、日照不足のせいか昨年に比べて葉が薄く柔らかい。
ついでに、赤くなったミニトマトが少しあったので収穫したが、やはり日照不足のせいか、熟すのが遅い。

早く梅雨明けして欲しい。
けれど、すぐにまた台風の季節となる。日本は災害列島。
しばらく雨は要りません。地震起きないで。台風も列島を避けて下さいと祈るばかりだ。

水害に合われた方々は、命のあった方々は何よりだが、一瞬にして全てを泥水に奪われた喪失感は如何ばかりかと思う。
仕事の機械や車、家財道具や思い出の品々、丹精込めた花や木や野菜。ニュースによると、目の前で家族が流されてしまった方もおられるという。

私自身の今の生活は、幸せには遠いけれど、それでも、住む家があり、食べ物も衣類もあり、庭に出れば花や木や野菜に癒されることができる。このささやかな幸せに今は感謝しよう。災害が起きれば、一瞬にして失ってしまうかもしれない儚い幸せだけれども。

今朝の収穫で冷や汁を作り、おいしく頂いた。

祝!村民になれました!2020/07/08

月齢9.9 2020年7月1日17:28 月の下を飛行機が通り過ぎて行った。
どこの村かというと「にほんブログ村」ですよ。
けれど、そのために、昨夜はとうとう夜明かししてしまったのです。
間違いのもとは、夕食後にパソコンを開いてしまったこと。歯も磨かず、入浴もしていなかったというのに。

最初にしたのは、「みんなの趣味の園芸」のチェック。
次にしたのは、しばらく休止してしまったこのブログの新しい記事の投稿。とりあえず、前々回の投稿の後日談を書かなければいけないと思ったので。
そして、昨日書きたかったけれど書けていなかった記事を投稿する前に、「にほんブログ村」の登録をすることにしたのです。

「にほんブログ村」のことは何年も前から知っていたけれど、私が書いているブログサービスが、実は全然メジャーではなかったことを知って、しばらく悩んでしまったのです。お引越しすべきなのかどうか。
他の色々なブログサービスについて検索したり、実際にブログを見てみたりで何日もが過ぎてしまいました。決断に時間がかかる上に、考えないといけないことを、つい後回しにしてしまいがちです。

体調が悪かったのも本当で、ちょっと無理をしてしまったのと、二次障害もあって、食料の買い出しに行くのにも勇気と思い切りが必要だったし、料理するつもりで冷凍庫からチルドに移した食材を痛ませてしまったし、頑張って調理しても食べる気になれずに結局冷蔵庫保管となって、日にちが経ちすぎて食べるのを躊躇……。
体は動かなかったし、頭痛はしたし、眠いし、あまり考える事も出来なかったけれど、パソコンを開くくらいはできたので。

ブログのお引越しはせずに「にほんブログ村」に登録することにしました。
今のブログサービスは、デザインも良いし、操作も難しくないし、邪魔な広告に占有されないのが凄く良い。

「にほんブログ村」登録は思っていたより手間が掛かってしまいましたが、村長様よりメールが届いて、
「わあ、村民になれたんだあ!」と、かなり気分が上がりました。
でも、ここからが長い長い道のりだったのです。
私の利用するブログサービスがメジャーではなかった為に、バナーやブログパーツの貼り付け方法が全く分からず、ヘルプを見ても該当せず、試行錯誤、試行錯誤、試行錯誤……。
バナーを記事本文に入れてしまうと、表示したときに崩れてしまったし、ブログパーツを張り付けられる場所もなく、Ping送信の設定も出来ず……(T_T)

今朝、もう空が明るくなって漸く、メッセージツールを使ってバナーとブログパーツを張り付けることができ、新しい記事を投稿して手動でPing送信することができました。

ああ、こんなことで、この年になって徹夜してしまうなんて、バカな私。
集中すると、他の事には一切注意が向かなくなり、眠かろうが空腹になろうが、途中で止めることがほぼ出来ず、そもそも、集中のあまり、眠いとか空腹とか、全く感じなくなってしまうのです。我に返った時には手遅れ。自閉症スペクトラムの特性でもあるらしいのですが。私はオンラインゲームなんて絶対にするわけにはいきません。きっと衰弱死します。死んでも誰にも見つけてもらえません。

何はともあれ、素人の私のブログが、ちょっとだけ玄人っぽくなって、めでたし、めでたし。
読んでくださった方、ありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。

私がブログを始めた理由2020/07/09

月齢9.9 2020年7月1日19:33 自宅2階ベランダより。
初投稿は先月10日だったので、ブログを始めてほぼ1ヶ月。
今回は、私がなぜブログを始めようと思ったのか、その経緯について書きたいと思います。

パワハラと過重労働に耐えきれずに退職し、しばらくして父親が急死し、一人になった母親を放っておけないので実家に戻り、そしたら母親にも既に認知症の兆候があり、初めは私も臨時で働きながらだったけれど、それが不可能になって仕事を辞め、母親の気持ちを傷付けずに在宅介護サービスにつなげるまでに半年かかりました。
介護サービスを受けられるようになったからと言って、解決できる問題はわずかでした。認知症は進行し、私は自分の生活なんてほぼ無い状態となりました。
そうした中で、NHKの発達障害に関する番組を見て、「まさに私自身の事だ!」と思ったけれど、夜間も、何度も目を覚ます母に対応しなければならずに寝る間もなく、母親の介護だけで精一杯でした。

色々ありましたが、昨年11月、要介護5となった母が漸くグループホームに入所できました。介護費用はそれまでの約2倍となったので、私も働くことを考えましたが、介護をしていたとはいえ仕事はブランクがあり、海外では親の介護がキャリアとして認められる国もあるけれど、年齢的にも体力的にも再就職は難しいはずで、障害者雇用枠なら何とか救っていただけるのではないかと思いました。
それに、母親の介護をしていれば、その関係者と会って話をしたり事務手続きをしたりなどありましたが、施設探しの末にいくつもの契約を終えて抜け殻状態となった私に待っていたのは、ただ孤独だけでした。
多忙な姉は用事が無くなると訪ねてこなくなり、独身の私にはママ友などの地域の繋がりも無く、まだ老人クラブの年齢でもないので、一日中誰とも会話の無い状態となりました。

一人でいることを寂しいとは思わないけれど、世界から忘れ去られた孤独でした。

私のことを忘れた母は、私が居なくなっても、選び抜いたグループホームで幸せに暮らしていける。
長年教員として勤めた私は、かつては教育現場に様々な貢献もし、多くの生徒達に頼りにされた時期もあったけれど、すでに昔のこと。沢山の手紙をくれた生徒達も皆大人になり、結婚し、子供を育て、幸せに暮らしている。
私が生きていても死んでしまっても、もう誰も困りはしない。

息をするのも苦しい毎日が続き、ふとした事で涙がこぼれ、止められなかった……。

約20年ぶりに精神科受診予約の電話をしたとき、まさに、すがる思いでした。
そして、それを受け止めてくれたと感じられたのは、たった1つの病院だけでした。

「高機能自閉症」と診断され、「精神障碍者福祉手帳3級」となったわけですが、「障害者就業・生活支援センター」の職員からさえも理解されませんでした。
私に向けられた信じがたい言葉。
「障害があるからと言って、何でも考慮されるわけではない。個室くらいなら用意できるだろうけれど、それ以外は無いと思って欲しい。それに、能力があっても休む人より、能力が無くても休まない人の方がいい」
私はショックで何も言えませんでした。障害があれば怠慢が許されると私が考えているかのような口ぶり。私は無断欠勤なんてしたことは無いし、それに、今元気な人だって、いつ病気になったり事故に遭ったりして仕事を休むか、そんなことは誰にも分からないのに。

2年前には、母の介護で相談に乗ってくれるはずの「地域包括支援センター」から相談拒否に合っていました。
「ネット上にある情報以外に、提供できる情報はありません。それに、結局は決めるのは家族ですから、自分たちで施設を見学して決めてください」
「困ったら、まずは地域包括支援センターに相談」と書かれていた言葉は嘘だったの?
心が千切れ、何日も寝込みました。

法律や制度は整っているはずなのに、現実には指の隙間から砂のようにこぼれ落ち、見過ごされてしまっています。
世の中の誤解や無理解やいろいろな問題をブログで解決できるとは思わないけれど、少しでも多くの人に知ってもらえたら……。
そう思って、ブログを始めることにしました。

いざブログを始めようとすると、すっかりパソコン事情に疎くなっていました。なにしろ、パソコンを開くこともままならずに1ヶ月以上メールチェックさえ出来なかったりする日々が何年も続いたので。
それに、要領よく同時並行的に作業をこなせないので、とても時間がかかってしまい、他の事が出来なくなってしまいます。寝ること食べる事さえおろそかになってしまって。
前途多難。

頭の中には、伝えたいこと、知って欲しいこと、沢山あり過ぎで、どうやって記事にしていったらよいのやら……。うまく書いていける自信はないけれど、極力冷静な視点で、感情のおもむくままではなく、事実をできる限り正確に、書いていこうと思っています。
一人でも多くの方が読んでくださって、介護の現実や、自閉症スペクトラム障害のことを知っていただけたら嬉しいです。

豪雨災害に認知症の母を想う2020/07/10

柏葉紫陽花(スノーフレーク) もうすぐ花の季節も終わる
今朝目覚めると、天気予報とは違って雨がやみ、わずかに薄日が差していた。
チベット高気圧と太平洋高気圧に挟まれた梅雨前線は、もう7日間も停滞しているらしい。そのせいで「令和2年7月豪雨」は、九州のみならず列島全域へと被害を拡大させつつあるようだ。

被災地のニュースを見ると、本当に辛くなる。浸水した施設で亡くなった高齢者の方々、一度は避難しながら家に戻り、奥様が息子さんの骨壺を抱いて亡くなられていたというニュース。胸が締め付けられる。
そして、施設の高齢者が自衛隊員に抱きかかえられて無事に救出されたというニュース。見るたびに涙があふれ出る。私には、自衛隊員に抱きかかえられた白髪の高齢者が、どうしても自分の母親と重なってしまうのだ。

もう8年程も前になるが、母に認知症の兆候があることはすぐに気付いた。
かつて高等学校教諭だった私は、家庭用ノートパソコンが普及し始めたWindows3.1の頃には生活情報化設置準備のために3か月間の内地留学を命じられ、新学科設置の責任を果たすとすぐに異動を命じられて、次には介護福祉士養成のための福祉学科で生徒に指導するために医科大学での2週間の集中講義等を受け、生徒の実習先である老人介護施設等へも頻繁に訪問していた。
教育委員会や学校の都合で、私自身には何の打診もなく、パソコン、次には福祉と、時代のニーズにそった教科を担当することになってしまい、苦労の連続ではあったが、全て自分の役にも立ち、幸運だったとも言える。そのおかげでパソコンが扱え、高齢者の病気や介護保険制度に関する知識もあったのだから。

母は、特定検診でコレステロール値が高めだと言われただけで食欲を無くしてしまうほどだった。母の心を傷付けずに在宅介護サービスに繋げるには半年を要した。母は予想通り要介護1で、膝関節変形症などの薬のほか認知症の進行を遅らせる薬も処方されるようになったが、やがて要介護2となり、生活の全てに見守りと援助が必要となった。
母はデイケアでの入浴を嫌がったので、私が汗だくになって入浴させ、私自身の入浴は母が寝入ってから5分ほどで済ませた。母がいつ目を覚ましてトイレを探すか分からなかったからだ。
二年目には薬の副作用で内臓も弱り、救急搬送を依頼して2か月も入院生活を余儀なくされ、私は毎日面会に行って、病院では不十分だった歯磨き目薬などのケアをした。
退院後は、せん妄や徘徊などの症状も現れず、再びデイケアにも通えるようになったが、安心も束の間、認知症は進行して要介護3となり、体調も再び悪化した。
体調が悪いと、デイケアもショートステイも断られる。私は24時間付ききりとなった。母がデイケアに行っていた頃は、迎えが来て送り出し、送られて帰宅するまでの6時間に家事を済ませ買い物に行き足りない睡眠を昼寝で補うことも出来たが、それも出来なくなった。
昼は転倒しないように気を配り、トイレを探す素振りを見せれば連れて行き、好物の柔らかく食べやすい食事を用意し、夜間は数時間ごとに目を覚ます母に対応し、トイレに連れて行き、汚したパジャマを着替えさせ、トイレを掃除し、漸く眠っても、すぐに目を覚まし、部屋の明かりが気に入らないと言い、消すと今度は暗いと言い、寝てくれなかった。一晩に8回もトイレに連れて行った。母は私を起こさない。起こすことを思いつけない。だから私が気配で察し、「お母さん、どうしたの?トイレ?」と声を掛けるのだ。母自身が悪いわけではなく全ては認知症のせい。私は決して母を責めはしなかった。
私自身は眠る時間もなく限界になっていた。寝てくれない母を残して寝室の戸を閉め、真夜中の廊下で泣き叫んだ。それから涙を拭き、寝室に戻って母に添い寝し、肩に手を置いて優しく子守唄を歌った。

地域の病院は当てにならず、隣の市にある認知症指定病院の予約を取って受診し、2回目の受診を待たずに、止まらない下痢や嘔吐のために母は入院することになった。
全ての薬を中止して経過観察をすること3ヶ月、母の体調は良くなったが、認知症は更に進行した。勧められるまま、同じ敷地内にある介護老人保健施設に入所した。
けれど、私はあの時の選択を後悔している。
病院や姉の反対を押し切っても、母を連れ帰り、あの時に小規模多機能型居宅介護を選択すべきだったと。

カンファレンスで聞く説明とは裏腹に、体力も弱って表情も虚ろになっていくように見えた母。面会に行くと、汚れた服を着ていることも多く、私が着替えさせたり、着替えを頼んだりした。適切なトイレ誘導がされず、汚れたままの紙オムツが何時間もそのままだったりしたようだった。ズボンの洗濯物が半端なかった。時には1週間で16枚も。

地域包括支援センターに相談の電話をするも相談自体を拒否され、しばらくは私自身に様々な病気が表れて動けなかったが、事態は深刻さを増し、私は自力で母のための施設を探した。地域包括支援センターが提供してくれない資料をインターネットでダウンロードし、その資料を基に条件に合いそうな施設を丹念にネットで検索して探し出し、詳細情報をプリントアウトして電話でアポを取り、見学に行った。介護体制や職員の人柄は勿論大事だったが、それらがどんなに良かったとしても、私には外せない条件があった。

高齢者施設は、ハザードマップ浸水域にあることも珍しくないのだ。土地代が安く、利用料を押えられるからだ。そして、見学に行ってみると、浸水域であるにも関わらず、かさ上げ等の対策はおろか、水害時の避難先など対応が未定という施設さえあった。
自力での避難が不可能な母のケアをお願いする施設は、ハザードマップ浸水域ではなく、万一の時には垂直避難が可能なこと、それは私の中で絶対条件だった。

事情により1か月の間で4回も施設が変わるという事態になってしまったが、幸いにして、全ての条件を満たすグループホームが見つかり、奇跡的なタイミングで待機者のキャンセルがあって、早くても3か月待ちと言われるのに見学した当日に入所が決まって、母は今、そのホームで笑顔で暮らしている。

私は、本当は支援を受けながら在宅で母の介護をしたかった。もう一度、母に自宅での日々を思い出してほしかった。私を思い出し、笑顔で名前を呼んでほしかった。
けれど、私はそれらを諦める決断をした。

母を自宅に連れ帰った数日間、気分が良ければ手を引いてトイレに誘導でき、美味しそうに食事をし、ちぐはぐな言葉に相槌を打っていると笑顔があふれ、時折は話がかみ合って、また笑顔となった。けれど、母の気が向かなければ、着替えもトイレ誘導も出来ず、母に辛い思いをさせるだけだった。紙オムツが汚れても分からずに交換を嫌がる母を、私では幸せにしてあげられなかった。
母の幸せは、自宅や私を思い出すことではない。毎日を笑顔で穏やかに暮らせることなのだ。

「いくら支援を受けても、要介護5のお母さんを在宅で一人で介護するのは無理ですよ。要介護3でもです。うちでは3人がかりですよ」
そう話す担当の介護士の前で、私は涙をこらえることができなかった。
介護のプロでさえ3人で行う介護が、少しばかり知識と技術があるだけの私一人に出来るわけがなかった。

水害の中、自衛隊員に抱きかかえられて無事に救助される白髪の高齢者。
私は、自分で介護することの叶わない母を想う。
私自身の体調悪化とコロナ禍で、半年も会うことが出来なかった母。先日、要請のあったタオルケット等を持って行った際に、食堂でTVを見ている母を、離れた戸口から眺めた。見違えるように快活になり、隣の席の入所者と笑いあっていた。
以前よりスムーズに介護出来るようになったと聞いた。
再び私の名前を呼んでくれることがあるだろうか。

半夏生が過ぎ、雨の七夕も過ぎて、今日、庭でニイニイゼミの初鳴きを聞いた。しばらくして止んだと思ったら、再び雨が降り出した。

大雨と、無職と、明日くれピアス!(^^)!2020/07/11

アスクレピアス・クラサヴィカ(Asclepias curassavica)
前線と低気圧の影響で記録的な豪雨が続いている九州。
わずか1週間で平年の年間降水量の半分にも迫っている所もあるらしい。被害も日々拡大していて、コロナ禍のためにボランティアを広範囲に募ることも出来ず、被災者の方々が大変な苦労されていると思うと、自宅でのんびりしている自分が申し訳ない。

私の住む地域も、気象情報では豪雨が予想されていたのだけれど、幸運にも雨雲がそれることが多く、時折は土砂降りとなるが、止み間もけっこうある。
父が亡くなって実家に戻ってから、父の残した多数の植栽の手入れをしなくてはならなくなり、ついでにミニトマトや青ジソ、オカワカメなどの野菜や、数種類の柑橘類、癒しを与えてくれる花やハーブなど植えているのだが、こう雨ばかりだと、ちょっとくらいの止み間があっても、庭仕事をするのは難しい。

実家に戻ったと書いたけれど、厳密には戻ったというのは少し違う。私の両親は、私が生まれて以降でも6回転居していて、私が高校卒業後に自宅を離れた以降でも2回転居しているので、地域に知り合いもおらず、自治会活動には参加しているが友人が出来るわけでもなく、近所の人と挨拶くらいの会話はするけれど、話し相手もいない。
パワハラや過重労度に耐えきれずに退職し、その後数年は臨時の仕事をしたけれど、母の介護のために更新はせず、その後は、介護以外の社会との接点を失ってしまい、さらにコロナ禍も影響して、障碍者雇用枠も困難な状況。
なので部屋でパソコンに向かうくらいしか出来ない。

パソコンに向かえるだけマシになったのだ。
5月までは、パソコンに向かうことさえ出来なかった。気分が良い時には、夕方に庭に出て庭の手入れをすることもあったが、体は動かせても頭は働けていなかった。考える事を拒否していたかもしれない。
日中に外に出られないので、TVを見ていると、「お家にいよう、会えないときも、家族と電話で話そう」と呼び掛けられる。「距離を取ろう、みんな誰かの大切な人」そして、離れた家族がスマホのTV電話やパソコンのリモートで、幸せそうに会話する映像が流れる。
私は、自分が孤独であることを、何度も何度も思い知らされ、自然に涙がこぼれた。
頭が痛くてお腹が痛くて体がだるくて、息をするのも苦しかった。

そんな私を救ってくれるきっかけになったのは、メールアドレス変更の連絡を他県に住む友人に送ったことだった。
昨年に漸くスマホデビューしたのだが、迷惑メール対策を「強」にしていたにもかかわらず、迷惑メールに悩まされていた。メールアドレスを変えるしかなく、連絡が取れなくなると困る友人にそのことをメールしたのだ。
安否確認と用件のみの簡単なメールだったのだが、友人が長めの返信をくれたので、私もまた返した。ただそれだけのこと。顔を見たわけでも声を聞いたわけでもない。
その翌日、1ヶ月以上も続いていた体調不良が消えていた。
私は気づいた。顔が見えなくても、声が聴けなくても、たとえ文字だけでも、確かに「繋がり」なのだと。

私はブログを始めようと決め、「みんなの趣味の園芸」への写真や記録の投稿を6年ぶりくらいに再開した。
「みんなの趣味の園芸」には園芸相談のコーナーが新設されていて、質問をすると全国の園芸好きから答えが返ってくる。
私は、まだハーブが種でしか手に入らなかった30余年前からハーブ栽培を始め、薔薇や観葉植物をアパートで育て、実家の庭の植栽の手入れのために否が応でも調べて実践するしかなったので、多少の知識と経験があり、答えを投稿できることもあった。すると、またそれに対してコメントを貰うこともあり、ある意味エキサイティングな体験だった。

私も質問をしてみることにした。
「丁度この時期咲いている写真の植物の名前を教えてください。
かなり以前から、いつの間にか庭のあちこちで勝手に咲くようになった花で、雑草かと思いましたが、オレンジ色の丸い蕾に黄色い花が可愛く、花の後は綿毛のある大きめの種ができるので、うちの庭にも風で種が飛んできたのだろうと思います。
何年か前、訪問先でTVを見ていたらBSプレミアム「植物男子ベランダー」で、主人公と園芸仲間の二人で難しい花の名前をどれだけ知っているか競う場面で出てきたのですが、失念してしまい、ネットで検索しましたが分かりません。
ご存じの方がおられましたが、どうぞよろしくお願い致します。」

すると、驚くことに僅か6分後から回答があった。
「アスクレピアスですかね」
「キョウチクトウ科のトウワタですよ」
「アスクレピアスですね」
「アスクレピアス(トウワタ)ですね」

実は、私には読み書き障害もあり、カタカナ、数字、アルファベッドが苦手で、音符も5歳から音楽教育を受けたのにドレミと下から数えないと読めない。英語のスペルには苦労したし、漢字に変換できないカタカナ名も覚えにくい。
夾竹桃は知っているし、唐綿も覚えられるけれど、「アスクレピアス」はなかなか覚えられない。

「アスクレピアス」を検索すると、「アスクレピアス・クラサヴィカ(Asclepias curassavica)」と「アスクレピアス・ツベロサ(Asclepias tuberosa)」があり、うちの庭にあるのは前者だった。

なんとか覚えたい……と思っていたら、閃いた!(^^)!
「明日くれピアス(耳飾り) 倉錆か」
おう!これならバッチリ。小さい蕾や花はピアスにも見えるし、倉は錆びたら困る。

それにしても、こう雨続きだと、心まで錆びてしまいそうだ。

マダガスカルジャスミンと連日の憂鬱な雨2020/07/11

マダガスカルジャスミン 2020年7月11日撮影
7月2日以降ずっと雨が続いている。

私は月を見るのが好きなのに、6月以降で月が見られたのは、6月6~9日、28日、7月1日の6日間のみ。梅雨とは言え、雨多すぎ。お月様、見たい。

雨の止み間にミニ農園の収穫や写真撮影をしていると、すぐにまた雨が降ってきて濡れてしまう。今日も雨の止み間に庭に出て、紫陽花もすっかり色あせてきたから早く剪定したいなあと思いながら写真を撮っていたら、すぐにまた雨が……(T_T)

カメラに雨は大敵。昨年スマホデビューして、それは防水だけれど、デジカメの方が場面に応じて綺麗に撮れるから。私がスマホに慣れていないだけかも。

慌てて玄関先に戻ったら、マダガスカルジャスミンが美しい白い花を咲かせていた。

このマダガスカルジャスミン、10年以上前の退職祝いで、数種類の鉢植えがセットされたカゴをもらったうちの1つで、鉢増し植替え差し芽をしながら大事に室内の窓辺で育てていたけれど、4年程前にカーテンを全て紫外線カット率80%以上のUVカーテンに変えたら、花が咲かなくなり、テラスと玄関の間なら屋根も大きくて霜も当たらないと思い、地植えにした。
以来、夏にはパッションフルーツのグリーンカーテンの一部に伸びて、沢山の花を咲かせてくれる。私的には、パッションフルーツより好き。
もちろん、パッションフルーツも好きなんだけれど。

最近、ブログを書くとどうしても長くなってしまい、ほぼ徹夜が続いてしまって、すっかり体調を崩して買い物にも行けない状態になってしまった。
なので、今日は簡単に。

物事に集中してしまって途中で止められないのは、自閉症スペクトラム障害にはありがちらしいけれど、なんとか管理できるようにならなければ。
私の数々の止められないエピソードについては、またの機会に。
それではm(__)m

不本意にもひきこもり状態2020/07/12

梅雨に濡れた柏葉紫陽花(スノーフレーク) 花の時期ももうすぐ終わる
今朝、データ放送で気象情報とニュースを確認するためにTVをつけると、NHKでひきこもり特集のPR番組をやっていた。日本全体で推計100万人のひきこもりが居るのだという。
その100万人の中に、私も入っているのかもしれない。
深刻な8050問題。
私も母は90歳だが、私の場合は、ひきこもって母の庇護下になったわけではなく、母の認知症により介護離職を余儀なくされ、介護以外の社会との接点を失ってしまった。
一度失ってしまった接点を再び取り戻すのは難しい。ひきこもりであっても無くても。

もし社会支援が十分に機能していれば、私は離職する必要は無かったと思う。けれど、日本の介護保険制度は、同居家族がいる場合、補助的な役割しか担ってもらえない。だから、私のように他に家族が居なければ離職せざるをえなくなる。同居家族が居る場合、ホームヘルプサービスも利用できないと言われた。

私は離職前の仕事の関係で介護やそれにかかわる制度の知識が多少はあったけれど、だからと言って、自分の親の介護を一人で担うというのは、並大抵のことではない。
デイケアに通うとしても、送り出すまでには大変な見守りや支援が必要であり、送り出した後に全ての用事や自身の休養を済ませなければならない。送迎されて帰宅する時間には自宅で待機していないと、見守りが必要な母を一人ぼっちにしてしまうことになる。
デイケアは時間の融通が全く利かない。6時間の間にできることは限られている。

6時間もあれば何でもできるでしょ?

6時間は自由時間ではない。母が居る時には出来ない全てのことをしなければならない。洗濯、掃除、買い物、調理の下準備、庭の手入れ、睡眠不足を補う昼寝……。
だから、自分の時間は一切持てなくなる。
2等チョコレート半年分という懸賞に当選し、喜んだのも束の間、不本意にも1等の体験チケット。都市部在住なら自宅に来てくれる体験もあったが、私の住む地域は陸の孤島。電車や車で数時間かけて出かける体験しか選べなかった。他人に譲渡は出来ないので、全くの無駄になった。

母の体調が悪いと、デイケアの利用は断られる。朝送り出しても、体調が悪くなったと電話があれば迎えに行かなければならない。
ショートステイの利用は、1か月前からの予約制で、緊急時には全く役に立たない。予約していても、下痢があるだけで利用を断られる。
それに、母は、ショートステイを嫌がった。寂しかったらしかった。そのことを伝えると、一度はとても母を気遣って声掛けや働きかけをしてくれ、その日は母も帰宅時に楽しかったと話してくれたが、その一度だけで、次には暗い顔で帰宅した。
ショートステイの施設に迎えに行った際、とても寂しそうな不安げな表情を浮かべていた。
進行した認知症の母には、私に用事があっても事情を理解することは出来ない。そんな母は、なぜ見知らぬ場所で見知らぬ人に囲まれて丸1日以上を過ごさなければいけないのか、罰のように感じられたに違いなかった。

介護は辛くない、心がけ次第で楽しく介護できる、そんな世間の風潮が、私は嫌だ。
親の介護なんて、当たり前のことでしょ?
今は昔の大家族とは違う。加えて、近隣の関りも薄い。
認知症が進行した親を子供が一人で介護することは、通常の社会支援があっても、そんなに甘くはない。しかも、十分な社会支援が受けられるかどうかは、地域やケアマネージャーにもよる。苦しんでいる介護者家族が、声を上げにくくなるような事態にしてはならない。

母の体調が悪化して入院するしかなくなり、その後は病院と姉の勧めで母は介護老人保健施設に入ったので、私の介護生活は、週に数回の洗濯物処理と面会、定期的に行われるカンファレンスのみとなった。
けれど、私は自分の体調不良に目をつぶって介護していたためか、次々に病気に襲われた。
一人暮らしのため、体調が悪くても、掃除、洗濯、買い物、食事の準備……全て自分でやるしかない。訪ねてくる人もほぼ居ない。会話は24時間全くない。
このままでは、私自身が認知症まっしぐら。

母が自宅に居る時には、TVは母の好きな演歌番組とサスペンス劇場しか見られず、それらが放送されない時間帯には録画して対応していたが、私自身は演歌もサスペンス劇場も興味は無い。ニュースや情報番組のほか、笑ったりツッコミを入れられる番組を見た。クイズ番組も、たまに見るドラマも、ツッコミどころ満載だ。普段は独り言なんか言わないけれど、あえてTVに向かって声に出してツッコミを入れ、せめてもの会話の代わりにした。ほかにも、「凄いねえ」「可愛いねえ」「辛いよねえ」等々とにかく声に出す。

そんな努力のおかげなのか、あるいは、現役の頃よりは低下しているのか、それは分からないけれど、精神科での発達障害診断時に行った知能検査では、私はIQが高いと言われた。全体では上位6%で、最も高い言語的知能指数は132とのことだった。
初対面の臨床心理士の前で、廊下のざわめきも聞こえる個室で、鉛筆を持つ手が震えてしばらくは名前も書けない状態だったので、もしかしたら、別の環境ならもっと上だったかもしれない。

IQは別にしても、私には現役時の実績があるし、今でも仕事に対する能力には自信がある。パワハラや過重労働で一度は退職を余儀なくされたが、自閉症スペクトラム障害によりストレスを受けやすく、怠慢ではなく体調不良になりやすいのだという事さえ理解してもらえるならば、人付き合いは苦手だが、普通の正社員と同等かそれ以上の貢献ができる。
けれど、「障害者就業・生活支援センター」で勧められたのは、福祉作業所だった。
福祉作業所が悪いと言うつもりはない。そこに通う多くの方々が、喜びや生きがい、誇りをもって作業に励んでおられるだろう。
けれど、少なくとも私にとっては、ベストな選択とは言い難い。

私が福祉作業所を勧められた理由は、ブランクがあるから。
海外では、親の介護もキャリアとして認められるどころか、職業として報酬を得られる国もある。日本はなんと遅れているのだろう。親の介護のために不本意にも離職するしかなかった年配の子供は、もう社会の軌道に戻ることは不可能に近いということなのか。

「障害があるからと言って、何でも考慮されるわけではない。個室くらいなら用意できるだろうけれど、それ以外は無いと思って欲しい。それに、能力があっても休む人より、能力が無くても休まない人の方がいい」
障害者就業・生活支援センター職員のこの発言は、どう考えても問題だと思う。
障害者雇用枠で企業が望んでいるのは、どうやら、安い賃金で従順に単純作業をしっかりこなしてくれる労働力のようだ。自閉症スペクトラム障害が今もまだ理解されていないからなのだろう。自閉症スペクトラム障害者の多くが高い能力を持っているというのに。

政府が、ひきこもり問題や労働者不足の問題に真に取り組むつもりがあるのなら、能力がありながら活躍の場を失っている日本中の多くの無職者に目を向け、公的支援団体や企業に対して理解を深める施策を怠るべきではない。
それは、個人のQOL(生活の質)を高めるだけに留まらない。
労働により社会との接点を取り戻せば購買意欲も増し、消費拡大に繋がり、社会の活性化にも一役買える。労働人口が増えれば国や自治体の税収も増える。

推計100万人のひきこもり者は、適切な支援と理解があれば、社会貢献もできる。
これを見過ごすことは、大きな社会損失でもある。
そのことを忘れてほしくない。

蚊に刺され今朝の収穫いただきます。2020/07/12

今朝の収穫 オカワカメ、青ジソ、青ネギ、ミニトマト
今朝はどんよりと曇ってはいたけれど、雨は止んでいた。
朝ご飯の味噌汁を作るのに、勝手口からミニ農園へ。

ほぼひきこもり生活かつ一人暮らしなので、食生活が乱れていると思われるかもしれないが、以前にも書いた通り、私の食生活は一汁三菜に近い素食の和食が中心。
晴れれば日光を利用してイースト菌を発酵させピザを作ってグリルで焼く(ピザ窯欲しいが住宅街ゆえ難しい)し、昔は凝った洋食も作ったが、年齢とともに和食が一番好きになった。
食間に食べるのは素炒りナッツ塩分無しと、ハイカカオチョコレート(カカオ80%前後の物)で、他の菓子類は殆ど食べないし、食後には必ずキシリトールガムを噛む。

外出することは少ないけれど、自宅では何度も階段を往復するし、ここ数日はしていないけれどスクワットやY字バランスもするし、庭の手入れは重労働。
なので、私はスリムだ。
高校卒業時と体重体形ともにあまり変わらないし、生活習慣病も無い。

最近は食欲も購買意欲もあまりなく、買い物も以前にもまして行かなくなったが、あまり手は掛けていないながらミニ農園があるので、日常の食材はけっこう賄える。
春先に芽が出てしまったジャガイモを植え付け、梅雨入り前に男爵やメークインを収穫し、物置に保管してある。ジャガイモを掘った後には、同じく芽が出てきた里芋を植え付け、コンポストの堆肥で元気に生育中。

オカワカメは一枚一枚の葉っぱがとても大きくなっていたけれど、蔓伸び放題でゴーヤーや地面から勝手に生えてきたヤマイモと絡まり合っている。何とかしなければ。
晴れが何日かでも続いてビショビショジメジメが解消されないかなあ。"(-""-)"
雨続きで蚊が多量発生しているらしく、わずかな時間に8か所以上も刺されてしまい、早々に退散。勝手口から侵入もされてしまった。
梅雨は嫌だ。(T_T)

スーパーの小葱の根元からプランター栽培している青ネギも収穫。
オカワカメと青ネギは冷凍庫のマイタケと一緒に味噌汁に。
豆腐は切らしているので、買い置きの常温保存可能成分無調整豆乳を投入。
収穫した青ジソは、冷凍庫に眠っている刺身用サーモンに野菜室の大根と一緒に添えたいけれど、6月以降サラダも含めて生ものを食べる気になれない。
冷製パスタにしようか。

若い頃に職場の先輩に教わった、夏バテでも美味しく食べられるおススメ冷製パスタを紹介。
茹でたパスタ(うどんや素麺でも可)を水切りして皿に盛り、その上に汁気を切ったおろし大根、ツナ缶、青ジソ千切りを順に載せ、最後に麺つゆかポン酢醤油か青ジソドレッシングなどお好みの物をかけて出来上がり。
トマトを添えれば赤青白と見た目もアップ。栄養バランスもアップ。
お試しあれ。(^_-)-☆

障害者手帳は役に立つか?2020/07/13

障害者手帳とヘルプマーク
私は子供の頃から生き辛さを感じ、苛めや仲間外れにも遭い、小学生の頃から人生を悲観していた。
学業成績が良かったからか「がり勉、がり勉」と言われたが、がり勉はしていなかった。
方言を話さないことで気取っていると思われていた気もするが、方言は話さないのではなく、理解は出来るが話せない。

学童絵画展や版画展では入選や特選にもなり、読書感想文コンクールは中学で市のコンクール入選、高校では県の二席になった。
中学の弁論大会では文章が上手かった為に毎年クラスの代表に選ばれ、発表する声が小さくて票を得られなかったが、初めてマイクの使用が認められた3年時には全校1位になった。
夏休みの宿題で手芸の着せ替え人形を作ると、数学教師から「生まれた子供にあげたいから千円で売って!」と言われた。
体育は苦手だったが、その他の大半のことは人並み以上にできた。
けれど、人生は全く楽しくなかった。

一番つらかった中学2年の頃、修学旅行の翌日から突然クラスの女子全員に無視されるようになり、クラス担任は、ただ「貴方が置かれている現状は知っているけれど、どこかにきっと貴方を分かってくれる人がいるから」と言っただけで、私の話を聞いたり寄り添ったりは一切なかった。ほぼ放置され、取られた対策は、3年時のクラス替えで、2年時の同級生が2人しかいなかった事か。一応は教員間で話し合いが持たれたのかもしれない。

小学校から高校までの9年間、信頼でき、寄り添ってくれた先生はいなかった。いじめや不登校などが問題となるずっと以前のことで、先生達も対応が分からなかったかもしれない。親にも話せず、自分は何故こうなのかと、自身を責めるしかなかった。
大学に入っても、女子学生とはあまり話が合わなかった。むしろ、男子学生とのほうが宇宙やSFの話で盛り上がった。

奨学金を得るために教育学部に行ったが、教員採用試験にはなかなか合格できず、私学で非常勤講師をしていた際には、採用試験当日の課外授業を押し付けられるという妨害もあった。
大学の指導教官の紹介で他県の私学の採用試験を受け、そこでも、生徒たちは慕ってくれたが苦難の連続。県の採用試験に合格して高等学校教諭になってからも、苦難の連続。好意を寄せる人が現れても、「(月)さんは真面目だから自分には合わない」と断られた。

私は、極若い頃には失敗も多かったが、失敗に学び、経験を積み、責任の重い多くの仕事をこなした。付箋に処理すべき仕事を書いて机の目の前に並べ、済ませると剥ぎ取って、分刻みのスケジュールもこなした。傍目にはキャリアウーマンに見えたかもしれない。
目の前の事だけで精一杯なだけだったのだけれど。

パワハラや過重労働に耐えきれずに退職し、その後、請われるままに長期出張代替や産休代替、病休代替と、各地各校で講師をした。それに対応できる知識と技術と資格があった。
そして、認知症となった母の介護の為、慰留を断って仕事を辞めた。
仕事を辞めたとたん、それまで親しくしていたつもりの人間関係は一切失われた。

私は何に為に生まれてきたのか。母親の介護をする為なのか。

要介護5となった母が漸くグループホームに落ち着くことが出来、私は発達障害の診断を受けるために精神科を受診した。

障害者と呼ばれたいわけでは断じてない。
私は色々なことが、周囲の人と同等かそれ以上にできる。けれど、生まれながらにして、健常者と呼ばれる絶対多数の人達とは違っているらしいと、大人になって分かるようになっていた。それを障害と呼ぶのかどうかは別にして。

大人の発達障害を診てくれる病院は少なく、私が受診した精神科の担当医も、発達障害の専門医ではなく、認知症の専門医のようだった。けれど、その先生は、私の話をしっかりと聞いてくれ、こうも言ってくれた。

病気ではなく生まれつきのものだから、薬で治すことは出来ないし、Tさんの場合は高いIQによって自分なりの工夫や対処が出来ているから、治療の必要もないと思うし、そもそも障害と言うより特性だと僕は思っています。特性が理解されずに職場で困難があるときは、僕が直接話をしてもいいですよ。

実は、この時初めて、私は自分のIQが高いことを知らされた。驚きはしたが、言われてみれば納得も出来た。

私は、自分の能力を生かして仕事をしたかった。
教員はつぶしが利かないと言われるが、私には大学の頃から採用試験合格までの間に様々な種類の職業経験があった。理不尽な目にもあったし、あまりにも効率の悪い仕事の進め方に辟易したこともあった。口出しできない立場であることが歯がゆかった。私はちゃんと場をわきまえた言動ができる。理性で抑えることが出来る。それもまたストレスにはなるけれど。

私は、一時期、産休代替で通信制高校に勤めたことがある。そこでは、現役時代の私について伝わっており、私が遠慮していると、教頭も教務主任も、思ったことを言ってくれてよいと言ってくれた。
「高校教頭会で(月)さんのことを話したら、全員が知っていたよ。凄いね。みんな、いい人に来てもらったねって言ってたよ」
私は、退職する前、将来の指導主事候補だと言われたことがあった。もちろん、指導主事なんてハードな仕事は私には無理だけれど。

私の能力を買い、体調不良にも理解を示してくれたその通信制高校は、私にとって人生で一番の働き甲斐のある職場だった。
会議に出された文書案を、私は瞬時に的確で分かりやすく修正することが出来た。
生徒から提出される毎月のレポートに不正があることを直感で見抜き、数時間でネット上にある証拠を見つけ出すことができた。直感は100%当たり、全ての証拠を見つけ出した。不正が暴かれると知って生徒達は不正をしなくなった。
別に不正を暴くことに情熱を傾けたわけではない。大半の生徒達が時間をやりくりしながら自力で頑張っている中で、安易にコピー&ペーストで単位を得ようとしていることは、その生徒本人の将来の為にも見過ごせない事だった。
私が最も情熱を傾けたのは、生徒たちのレポートを丹念に添削し、それぞれの生徒に応じたコメントを書くことだった。時には欄に書ききれずに裏側にまで書いた。通信制ゆえに顔を合わせる回数も限られていたが、頑張る生徒は愛おしかったし、悩みを持つ生徒は応援したかった。私の出来うる限りの応援をコメントに込めた。

翌年のレポート課題作製は、産休代替で翌年は居ない身分では手出しは出来ないので現状のままで、と断ったのだが、改善してくれていいというので、漏れていた重要項目を加え、回答しやすく採点しやすく個人を把握しやすく、且つ不正ができない形に変えた。
産休の先生が復帰されて後、私のもとに電話があった。買い物先で偶然生徒の母親に会い、その時に、レポートのコメントで興味や関心が増し、レポート課題に意欲的になったと、お礼を言われたのだという。
「ご連絡いただいて有難うございます。お役に立てたなら嬉しいです」
そう答えながら、もしかしたら復帰したこの先生のハードルを上げてしまったのかなと申し訳なく思った。

40歳代までは体力的な無理も出来なくはなかったが、見た目は若いと言われても、50歳代になると本当に無理が利かなくなった。
子供の頃から疲れやすく、体調不良で休まざるを得ないこともあるが、怠慢ではないとちゃんと理解してもらえるなら、五感全ての感覚過敏を、大げさではないのだと理解してもらえるなら、聴覚情報処理障害を分かってくれるなら、もう一度仕事をしたい。

私は障害者雇用枠でなら再就職が可能ではないかと思い、障害者手帳を申請した。
けれど、そう簡単ではなかった。
企業は、障害者雇用枠に高い能力など求めていなかった。求めているのは、低賃金で従順にコツコツ働く労働力。加えて、コロナ禍で多くの労働者が雇用を打ち切られ、新たに採用される望みは薄かった。

障害者手帳を取得はしたけれど、申請料\7.000と申請に要した時間と労力とガソリン代、全て無駄になった。

障害者手帳を受け取りに市役所に行った際、「受けられる支援についての文書はありませんか」と震える声で尋ね、渡されたのは、支援団体の一覧表のみだった。
帰宅して手帳に挟まれた「障害者手帳のしおり」を読んだが、同じ一覧表の縮小版と手続き上のことが記されているくらいだった。
絶対に他にも何かあるはず。精神科の担当医は、交通費が半額免除になると言っていたし、お世話になっている自動車販売店の担当者によると、自動車税減免もあるらしい。

私はパソコンを開き、市役所のホームページを丹念に調べ、「障がい福祉ガイドブック」を見つけ出し、きちんと読むために全28ページをダウンロードしてプリントアウトした。
そして、精神手帳3級では、ほぼ何も無いことが分かった。
自動車税も対象外。携帯電話の減免も安いプランを利用しているために対象外。市内バスのみ50%割引だったが、バス停が遠い上に運行回数も少なく、ほぼ利用しない。
唯一見つけられたのは、NHK受信料の減免だった。
再就職が望めなくても、なんとかこれで申請料\7.000を補填できる。

それにしても、なぜ市役所障害福祉課の職員は、このガイドブックについて一切教えてくれなかったのか。事務手続きで仕事が増えるから?
私は、落ち着いていられずに、震える声で電話をして市役所に出向き、手続きを済ませた。
しばらく前に、受理した旨の文書がNHKより届いた。

繰り返しになるが、私は障害者と呼ばれたいわけではない。
発達障害は、障害ではないと思う。
精神科の担当医が言ったように、生まれながらの特性なのだ。そんなものは、発達障害でなくても十人十色だ。
穏やかな人もいれば、怒りっぽい人もいる。几帳面な人もいれば雑な人もいる。空気読み過ぎの人もいれば全く意に介さない人もいる。優しい人もいれば平気で人を傷つける人もいる。
人によって視力に違いがあるように、感じ方考え方も様々のはず。

私には発達障害や感覚過敏のほかに、生まれ持った病気や正常ではない部分がいくつもある。自己免疫疾患も2つある。
私は思うのだ。100点満点の五体満足で生まれてくる事のほうが難しいのではないかと。
知られていないだけで、本当は、誰しもが何らかの障害を持っているのではないかと。

障害者手帳を取得したことによるメリットは、今の所、NHK受信料減免以外に全くない。

ただ、診断によって自分の状態を客観的に詳しく把握できたことは良かったと思っている。
精神科の担当医もあまり詳しくはなく、自分で調べることで分かった事が多かったが、自分と照らし合わせて納得できることも多かった。
詳しくは、また今後に書こうと思う。