台風に思う2020/09/24

台風12号は、24日15時に関東の東で温帯低気圧に変わったとのこと。
温帯低気圧に変わったからと言って油断はできませんが、ともかくも、昨年に大変な被害を受けてまだブルーシートのままの家屋も多い千葉県に再び大きな被害が出ることは避けられるようで、本当に安心しました。
前線で繋がった別の低気圧により九州は大雨の真っ最中ですが、明朝には晴れる予報です。

九州では、先日の台風10号で大変な被害がありました。最大915ヘクトパスカルに発達して九州に接近し、特別警報級の超巨大台風になるとの予報で、衛星写真ではくっきりと大きな目のある雲の渦が画面を覆いつくすほどで、昨年9月22日に竜巻が起こった台風17号と進路も似ていたので、一人で台風対策をして一人で過ごすしかない私は、外回りを対策した後で早々に南側の窓は全てシャッターを閉めたけれど、台風10号は東風が長時間続く予報なのに東側にはシャッターが無くて、本当に怖くて、眠ることも出来ないくらいでした。
もしも昨年の千葉での被害のように、屋根が壊れたりしたらどうしよう。雨が家の中に流れ込んでも、私は途方に暮れて何も出来ないのではないかと。

そんなに怖いなら避難所に行けば?と思われるかもしれません。
私の場合、避難所には行けません。
子供の頃から、修学旅行など集団では眠れなかったし、大人になっても、職場のキャンプでバンガローやログハウスに皆で泊まったり、職場の小旅行で一部屋で数人で寝たりすると、ほぼ一睡も出来ないのです。枕が変わると寝られないとかいうレベルではなく、他人の気配で眠れないのです。静かな一人部屋でないと。

それに、台風の最中に自宅を離れていると、自宅で被害が起きていないか心配でたまらなくて落ち着いていられません。自宅に帰ったら凄い被害を受けているかもしれないという不安を抱えて過ごすよりも、被害が起きるならその場にいる方がマシに思えるのです。
勤務していても、消防車の音を聞くと、留守中に自宅が火事になっているのではないかと不安になりました。
出張などで自宅を数日離れると、帰宅途中、自宅が目に入るまで不安で堪りませんでした。

高機能自閉症(病名としてはアスペルガー症候群らしい)などの自閉症スペクトラム症候群では、不安や恐怖を健常者よりも強く感じるそうです。
その上私は子供の頃から超繊細(五感全て感覚過敏だけれど、五感だけでなく気配にも過敏でした)だから、仕方ないのでしょう。
避難所など集団で過ごすことは、大変な苦痛とストレスになり、子供の頃からよく腹痛や頭痛になったし、とても耐えられないのです。

台風10号では、近所の頑丈な避難所は開設後すぐに定員に達して満員になったと、登録している市の災害情報メールで連絡があり、近くの別の避難所になっている公民館よりもうちの家の方が頑丈だから、よほどの事が無い限り、自宅を離れる選択はありませんでした。

不幸中の幸いで、台風9号が海面をかき混ぜて海水温が下がったために、予想ほどには発達しなかったけれど、超巨大台風であることには変わりなく、昨年のような竜巻は起きなかったけれど、9月5日からの2日間以上に渡って猛烈な東風が吹き荒れ、庭の植栽のほとんどが大変な塩害を受けて、ほぼすべての葉が茶色くかさかさになって落ちてしまい、見るも無残な姿になってしまって、愕然としました。
一歩戸外に出ると、すえたような不快な臭いでいっぱいで、何だろうと思ったら、塩害による枯葉の臭いでした。

昨年の台風17号に伴う竜巻は、台風最接近までは1日くらいあって風雨が激しくなる前に置きました。9月22日朝、時計を見ると8時半、まだ雨風は無かったけれど、そろそろシャッターを閉めようとカーテンを開けて窓の外を見たその瞬間、木の葉や何かの破片が混じった猛烈な東風が真横に走ったのです。不意を突かれて私はそのまま固まってしまいました。ガラス窓越しの眼前で、頑丈なカーポートの屋根がガタガタガタガタと波のようにうねり、今にも壊れて飛ばされそうでした。すぐに竜巻だと分かりました。
この地域は過去に何度も竜巻の被害を受けていて、実は17号の前に接近した台風の対策を外でしていた夕方にも、規模は比較にならないほど弱かったけれど、ほぼ同じような東からの突風が数分間続いたのです。あれも弱い竜巻だったのかもしれないと思いました。

数分後にはぴたりと静かになり、近所の人達が道に出てきたので、私も外に出て「今の竜巻でしたよね」と話に加わりました。日頃そんなに親しくはしていないけれど、近所付き合いは大事だから。見上げると自宅2階の屋根近くの電線には、どこからか飛んできた天津すだれが引っかかっていて、九電に電話しても繋がりませんでした。隣の奥さんが「うちの後ろの社宅アパートは窓ガラスが割れている」と教えてくれて、見ると3階の窓ガラスが割れていた。うちの斜め前の2階建ての家は屋根瓦が何枚か割れていたし、公民館横の2階建て民家は瓦がごっそり飛んでいたし、公民館向かいの2階建て民家も瓦が飛んでいました。
うちでは、ワイヤーで固定していた郵便受けが曲がっていました。カーポートの自家用車のすぐそばには瓦やコンクリートの破片が落ちていて、車に傷が無かったのは奇跡でした。玄関前や2階ベランダや色々な場所に、瓦やコンクリートやガラスの破片が散らばっていて、網戸に破れも見つかったので、瓦が割れた場所があるのではないかと心配しましたが、自宅の壁や瓦はどうやら無事なようでした。
電線に引っかかっていた天津すだれは、その後の強風で庭に落ちてきました。

台風が接近すると、毎年思い出すことがあります。
私が高校3年生の時だったと思うので、もう40年も昔の事です。
今でこそ、台風が接近すると小中学校や高等学校は休校や自宅待機が前日から発表されるけれど、20年くらい前までは、台風でも学業や仕事が優先されていた気がします。

昭和55年ころの9月だったと思います。
台風が接近していて、月曜日に朝起きると猛烈な風雨で、高校からは休校の連絡は無く、父が電話してくれたけれど、休校の予定は無いということでした。仕方なく、私は体育ジャージーに着替えて雨カッパを着て、学校にロッカーが無かったのでパンパンに膨れた重い鞄を青いビニルゴミ袋に入れて自転車に括り付け、制服やお弁当や辞書を入れた重いスポーツバッグも青いゴミ袋に入れて自転車のカゴに入れ、暴風雨の中、日頃でも片道1時間近くもかかる大橋を2つ超えた10km先の高校に向かいました。

ところが、ようやく学校に到着すると、入り口は締まっていて「台風により休校となりました」との黒マジック手書き縦書きの貼り紙。仕方なく、暴風雨の中、2つの大橋を超えて自宅に戻ったのです。

私はその後に高等学校教諭になって自らそういう事態に対応してきたので、その時の学校の対応が私には許せないのです。
たとえ休校が未定であったとしても、未成年である生徒の安全が一番大事であり、「休校になるかはまだ分からないけれど、しばらくは自宅で待機していなさい」と伝えるべきだったと思うのです。
私の両親にしても、「欠席や遅刻になってもいいから、風雨が弱くなるまで登校は止めなさい」と言ってくれるべきでした。両親は、とにかく遅刻や欠席を嫌いました。

翌朝登校すると、学校の窓ガラスが割れていました。新設されたばかりの新しくて頑丈な学校で窓ガラスにも金網が入っていたのに。
当時の校長の決断力の無さ、電話に出た事務職員の融通の利かなさ、担任の生徒への愛情の薄さを感じずにいられず、腹立たしささえ感じてしまうのです。

私が教員になった頃は、台風接近時には前日に休校を決めるか、当日の早朝に緊急連絡網で生徒に休校を連絡するなどの対応が取られるようになっていたけれど、職員は出勤もしくは有給休暇である年次休暇を取るようになっていました。学校が休校になっても、会議や研修などの出張は延期や中止にはならないから、私は、暴風雨でも、豪雪でも、遠く離れた県庁所在地まで自家用車で出張しました。私の住む県は、残念ながら公共の交通機関が不便で、電車を使おうとすると、自宅から駅までと、駅から出張先までをタクシーに乗るしかないので、自家用車を使うしかないわけです。
人権教育の九州大会が本県であった時には、会場の駐車場は他県からの参加者のみ利用可能で、本県参加者は会場から遠い駐車場を使ってそこから歩かなければならず、私は他県から引っ越ししてきて自家用車が県外ナンバーだったので、悪いとは思ったけれど、とにかく物凄い暴風雨だったので会場駐車場を使わせてもらいました。
出張を終えて翌日学校に出勤すると、通学路の電柱が根元から倒れていて、それほど凄い台風だったのでした。

今は、大きな台風が接近して危険が予測できる時には、小中学校や高等学校の休校や自宅待機はもちろん、公共交通機関も事前に運休を発表したりするし、企業や事業者にも従業員を無理に出勤させないようにとニュースで伝えられたりします。勉学より仕事より人命が大事だという意識が広がってきたのは本当に良いことだと思います。

大雨が、ますます激しくなってきました。
自宅付近は、山からも河川からも離れているので、土砂災害や洪水被害の心配はないけれど、台風10号で地盤が緩んでいる地域や雨水が溜まりやすい低地、河川の近くに住む人はさぞかし不安でしょう。それとも、長年住んでいると慣れてしまって不安など感じないという人も多い?
どうかくれぐれも、危険に鈍感にならず、少しでも危険があれば命を最優先して欲しいです。
台風10号による崖崩れに4人が巻き込まれ、しかも、そのうちの2人が、外国からの技能実習生であることが、私はとても辛いのです。

苦しくても生きるしかないから2020/09/23

ずっとブロブを書けませんでした。
ブログだけではなく、パソコンをほぼ開けませんでした。
父のファミリーヒストリーを書くまではと、何とか8月15日までは頑張って書いたけれど、実は生きる気力さえ失っていました。

私は、昨年12月半ばから、銀行などでの事務的な会話と母の介護施設との連絡以外は、ほぼ会話が無い生活です。
どうか想像してください。
朝から晩まで、大晦日も、お正月も、お彼岸も、誕生日も、お盆も、巨大台風接近時も、家で一人ぼっちで誰とも会話の無い毎日。
それが、もう9か月以上。
自ら望んでそうなったわけではありません。

高機能自閉症や五感全ての感覚過敏などの診断を受け、障害者手帳を交付されたけれど、障害者就業・生活支援センターに相談しても心無い対応をされ、地域包括支援センターは母の事で相談を拒否された体験から信頼できず、市の障害福祉課に相談しても何も変わりませんでした。
地域社会との繋がりも最低限しかなく、近隣に親しい友人も居ないから、訪問者も電話もありません。
数日前、電話が鳴ったと思ったら、世論調査の自動通話でした。
ブロブを始めて想いを伝えれば、誰かが共感してくれて、何か変わるかもしれないと願ったけれど、世の中はそう甘くは無いのですね。

仕事をしていた頃は、真面目な性格ゆえに無理をしても全力を尽くし、超繊細ゆえに自分よりも相手を優先し、長年のキャリアにより仕事のスキルも高かったので成果も上げ、信頼もされ、退職時には惜しまれもしたけれど、母の介護のために退職すると、当然のことながら元同僚達は新しい人間関係に忙しいから、退職した元同僚の事など次第に忘れていきます。
子供の頃から苛めや仲間外れにされ、もともと人付き合いが苦手な私は、コロナ禍によって、社会との接点をほぼ無くしました。

昨年までは、日差しの弱くなった夕方に庭の手入れをしたり、買い物を楽しむことで、気晴らしができました。
けれど、今年は梅雨が2か月も続き、毎日雨が降り続いて庭の手入れも殆どできず、コロナ禍で不要不急の外出が制限されて、買い物も混まない時間帯の食料品の買い出ししか行けず、自粛を求められたからではなく怖いから外出できませんでした。

毎日、家でただTVを見るしかないけれど、そのTVは、不意に流れるCMさえもが、コロナ禍で離れていても繋がろうと絆を強調し、ニュースさえもが、会えなくてもビデオ通話で繋がる家族や恋人達を紹介し、私は見るたびに涙があふれた。
繋がれる家族も恋人も友人も居ない人は、きっと私以外にも居るはず。そんな人達の事は誰も気にしていないのですね。

外出制限が緩和されても、一人ぼっちの私は、どこかに遊びに行くこともできません。会話も無く、笑うこともなく、少しの食事をしてシャワーを浴びて寝るだけの毎日。
仕事をしていた頃から、苦しくて退職したかったから、退職しても年金受給までは自力で生きていけるように、爪に火を点すような節約生活をして、現在、無職ながら衣食住はつつましくもまだ困っていない。
コロナ禍で仕事を失い衣食住にも困っている人達を思えば、それ以上を望むのは贅沢だと思われるかもしれない。
私は学生時代、食べ物を買うお金が無く、やむなく過酷なアルバイトの掛け持ちをして単位を落とし、無保険で病院にも行けなかったから、お金が無い苦労は知っています。
けれど、世界中の誰からも顧みられない孤独は、家族や友人に支えられている人にはきっと分からない。
名前を呼ぶ相手も、呼んでくれる相手も居ない孤独を、誰か分かってくれますか?

私は、たった一人で生きているとは思っていません。要介護5の母がお世話になっているグループホームには本当に感謝しているし、コロナ禍でもスーパーのレジに立ってくれている方々や、電気や水道を管理してくれている方々や、食料を生産・流通してくださっている方々がいなければ、私は生きてはいけない。

ただ、生きていても少しの楽しみも無いのです。若い頃は、将来に夢をもって頑張ることができたけれど、もう、生きることに何の喜びも希望も見いだせないのです。
9か月間、誰も訪ねてこないということは、私が孤独死しても何ヶ月も発見されないということ。私が死んだら、家も家財道具も思い出の品々も全てこの世に必要のない物になってしまうから、生前整理をして、死ぬときには全てを処分しておきたいと願うけれど、それは無理な話で、誰かに託すしかないけれど、「〇君(姉の息子)はやってくれるかなあ」と以前姉に話したら、息子も娘も孫もいる楽観的な姉は、「死んだ後の事は死んだ後にどうにかなるよ」としか答えてくれませんでした。
一人だと心配だよね、大丈夫だよ、〇君はちゃんとやってくれるよと、答えてほしかった。
だから、今は、安心して死ねないから、細々とでも生きるしかない。
世界最高齢の120歳まで元気でいれば、私の死後の始末を誰かが世話してくれて、私も安心して死ねるかもしれない。
  
昨日、母のグループホームに行ってきました。
要介護認定の更新書類に署名捺印する為です。
インフルエンザ予防接種も毎年10月初めにはしていたので、政府からも高齢者は早めの接種を勧められているし、電話で聞いてみたら、まだ分からないとの回答だったけれど、去年の書類しかないけれど同じだと思うからと言われ、そちらにも署名して帰りました。

本当は、面会も条件付きで解除されたので、母に会って抱きしめてあげたかったけれど、身体接触はできないし、私は想いがあふれて涙がぽろぽろ溢れて止められなかったので、面会は断念しました。
認知症の進んだ母は、1年以上前から、私の事が分かりません。だから、電話やビデオ通話も無理だけれど、名前が分からなくても、娘と分からなくても、心の奥底のどこかでは、会えばきっと感じてくれると思うのだけれど。

ちなみに、私自身は、母と同居し始めた年の10月に母と一緒にインフルエンザ予防接種を受けたら、副反応で発熱して10日程寝込む羽目になりました。職場でインフルエンザが大流行しても、私自身は一度もインフルエンザに罹ったことはないので、もう二度と予防接種は受けないつもりだし、近い将来にコロナウイルスのワクチンが完成しても、ワクチン接種は受けないつもりです。
私には橋本病や好酸球性副鼻腔炎(喘息併発)などがあり、子供の頃から肺炎や気管支炎に何度も罹っているので、もし新型コロナウイルスに感染したら重症化リスクが高いけれど、多くの医薬品に酷い副反応を起こしてしまう私なので、そのリスクの方が怖いから。

新型コロナウイルスさえ無ければ、世界中が今よりずっと幸せだったはずなのに。
けれど、時間を巻き戻すことはできない。感染が少し落ち着いたとしても、もうコロナ以前には戻れない。少しでも油断すれば、再び感染は広がり、多くの人が苦しみ、多くの人が命を落としてしまうから。

コロナ対応で多忙な姉からは、連絡しても連絡しても何日も返信が無く、私はますます鬱に拍車がかかって、コロナのせいと分かっていても苦しくて、眠くても眠れず、食事もとれず、腹痛も続いていたいたけれど、やっと昨日の夜、短いけれど返信が来たので、それで良しとします。

このブログを読んでくださった方、短くても良いので、どなたかコメントをもらえないでしょうか。
長文の、こんな暗い内容では、誰も読んではくれないでしょうか。

ファミリーヒストリー12020/08/15

お盆のお膳
今日はお盆で終戦記念日なので、父の生い立ちについて書こうと思う。

父は、私が子供の頃、昔の話をよくしていた。説教臭い話し方だったので、私はあまり好きはなかったのだが、父自身が幼い頃から苦労したらしいことは、当時小学生だった私にも分かった。

父の口癖は、「定年退職したら自伝を書く」だった。自伝に書いて残したい事がたくさんあるようだった。けれど、53歳で早期退職した後、父は一向に自伝を書く気配はなく、私のお古のワープロを上げたけれど、少し練習しただけだった。
父は、自伝を書くとあれほど言っていたのに、ついに自伝を書くことなく、80歳でこの世を去った。なので、私が代わりに書こうと思う。書付などは全くないので、私の記憶だけが頼りだが、父から聞いた話は、ほぼ覚えている。

私が生まれた頃には、既に母方の祖父母は亡くなっていた。
父方の祖父母は存命だったが、私が5歳の時に祖父は亡くなった。祖父が亡くなる前に2回会った記憶がある。頭は丸刈りで、優しい目をした祖父だった。
葬儀の後、私達家族は住んでいたアパートを引き払い、一人になった祖母と約1年間一緒に住んだ。けれど、父と祖母は折り合いが悪く、孫である私にも、祖母は辛く当たった。たった5歳か6歳の悪気も何もない子供に。

祖母は、次男である父よりも長男を頼りにし、他県に就職した三男と一緒に住みたがった。それで、私が小学校に入学する直前、私達家族は祖母の家を出たのだ。
祖父が亡くなって早朝に起こされた時からの祖母の家での約1年間を、私は詳細に覚えている。それについては、またの機会に書くと思う。

祖母と折り合いが悪いのに、何故父は、実家に戻ったのか。
もちろん、仲が悪くても、息子にとって母親はやはり大事な存在だったのだろう。
それに、父は実家について、あの家はお父さんが建てたのだと、よく話していた。空襲で焼け出された後に、父が自らお金を出し、自ら壁を塗って建てた、兄も弟も何もしていないと。

父の実家は、農家でも商家でもましてや武家でもなく、おそらくは小作だったのだろうと思う。自宅敷地内に小学校低学年用プールくらいの広さの畑があり、他に、1㎞弱離れた所にもテニスコートくらいの広さの畑があった。
玄関わきの6畳ほどの土間で、醤油などを売ったりもしたらしいが、祖父は専売公社に勤めていた。今の日本たばこ産業だ。

祖父の父親、つまり私から言えば曽祖父になるが、実家に子どもが居なかったために、よその土地から養子に入ったという。けれど、昔の事で手続きとかきちんとされなかったようで、養子に入る前の生家の名字をそのまま名乗ったため、元々の実家の名字ではなく、曽祖父の実家の名字が今に受け継がれている。

曽祖父の名前は知らないが、祖父の名前は金〇郎という。名前に金が付くのは、子供が将来経済的に困らないようにと言う親の願いらしいから、曽祖父は、子供を愛する良き父親だったのだろう。
けれど、曽祖父は、1904年に始まる日露戦争に出征してしまう。出征直前に撮ったと思われるセピア色に褪せた写真を、私は幼い頃に祖母の家で見た記憶がある。軍服姿に鉄砲を持った曽祖父と少年の祖父の写真だ。祖父の軍服らしい姿の写真もあったから、もしかしたら、祖父自身も日中戦争に行ったかもしれない。

日露戦争に行った曽祖父は戦死した。その知らせに、祖父は家の中で転げまわって泣いたのだと父から聞いた。
そして、生活は極貧となった。

祖父が年頃となって結婚をしたが、当時は珍しくもなかった結婚式当日に初めて花婿花嫁が顔を合わせるというパターン。結婚式は現代のような式場ではもちろんなくて、実家で行われたのだが、結婚式が終わったとたんに、襖(ふすま)も障子も全部取り外されて無くなったという。襖も障子も、近所や親せきからの借り物だったのだ。それくらい生活に困窮していた。

そんな家に知らずに嫁いできた祖母の驚きや落胆、苦労は計り知れないが、そんな家に生まれた父もまた苦労を強いられた。

父を含めて子供が7人。当時としては子沢山な方ではない(母方は13人と聞いたので)と思うが、祖母は、幼い弟や妹は空腹を我慢できないからと、年長の子供には薄いお粥しか与えなかったらしい。薄いお粥を食べ、習字の練習に使った新聞紙に梅干し1つ入れた握り飯を包んで弁当にした。
けれど、育ち盛りの父には、薄いお粥の朝食では我慢が出来ず、尋常小学校に行くとすぐに、墨で真っ黒になった握り飯を食べてしまったのだという。もう昼ご飯はない。父はよく山学校に行ったそうだ。今でいうサボリだが、腕力に恵まれていた父は、時には他の裕福な家の生徒から弁当をせしめることもあったらしく、ガキ大将的位置にあったのかもしれない。
父は走るのは早かったそうだが、徒競走で走るのが面倒で(空腹だったからかもしれない)他の生徒に「お前、代わりに走れ」と押し付けたりもしたらしい。

父は勉強が良くできて、特に国衙が得意だったらしい。私が小学校低学年の頃、「読み声カード」と言って国語の本を音読して親から丸印をもらう宿題があったのだが、私が読んだ後、よくお手本だと言って父が読むのを聞かされた。きっと、父は向学心があったと思う。
けれど、家が貧しかったから、自分より勉強のできない生徒たちが尋常小学校卒業後に旧制中学校などに進学するのに、父は諦めるしかなかった。

父は、東京芝浦電気に就職した。つまり、今の東芝のことか。
東芝の寮で、父は好男子として有名で、当時の写真は無いが、後の22歳頃の写真を見ると、欲目ではなく石原裕次郎よりずっとハンサムだ。父は高齢になっても端正な容貌だった。時代が違えば、映画俳優やジャニーズのようなアイドル歌手にだってなれたかもしれないが、父はしがない工員で、実家に仕送りをせねばならなかった。

そして、太平洋戦争が勃発する。
父は、1945年3月10日の東京大空襲を生き延びた。焼け野原となった街の中を、黒焦げになった死体や、川べりに折り重なった死体に恐怖しながら逃げ延びたのだという。満16歳だった。
そして、同年6月29日、東京で焼け出されて帰郷した父は、郷里で再び大空襲に遭う。

父は16歳だったが、祖父は人が良くて度々騙される人で、だから次男である父が、家を守らなければと必死になったらしかった。
ただ、哀しいかな、そんな父の想いは家族には伝わらなかったらしく、気難しいと疎まれたようだった。
ただ、父の兄弟の中で、唯一父だけが祖父の名前に似ている。祖父は、父が生まれた時から何か特別な思いを持っていたのではないかという気がする。

そののち、父は自力で夜間高校に行き、今や世界的になっている日本有数のA会社に就職した。
夜間高校と聞いたとき、幼かった私は、お湯を沸かすヤカンしか思いつけず、何のことか分からなかったのだが、父は幼い子供に分かるように噛み砕いて話す人ではなく、私もまた、父の話の途中で口をはさむなんて出来なかった。

ちなみに、父は会社でのポストは平に近いままだった。その理由等々父の話はまだ続きがあるが、ひとまずはここまで。

今日もへとへと2020/08/12

強い日差しの中で益々元気なハイビスカス・レッドスター
今日も猛暑でした。
昨日は久しぶりの外出で、墓参りもして疲れたので、寝る前に湯船にお湯を張って体をゆっくりと沈めたのに、なかなか寝付けず、朝も8時前には目が覚めてしまったぁ(T_T)
塩鮭を焼いて、味噌汁を作って、青空が広がっていたので洗濯をたくさんしました。

洗濯物を干した後、少しリビングで冷房で涼んだ後、東の窓から日差しが入らなくなった昼頃に、今日は海風があったのでエアコンを切って窓を全開に。けれど、視覚過敏のため窓からの拡散光が眩しくてリビングに居られなかったので、障子を半分閉めて薄暗くした西の和室入り口にバスタオルを敷いて横になったら、睡眠不足もあってか、暑いのに死んだように眠ってしまっていました。

目が覚めた後、水分補給をして冷凍室の蒸しパンを出して食べ、強い日差しで早くも乾いた洗濯物を取り込んでから、夕方には萎んでしまうハイビスカスの写真を撮ろうと、長袖のUVパーカーを着てフードを被って庭に出ると、写真を数枚撮っただけで汗がダラダラ。
TVのニュースで、都会の人達が猛暑の中で帽子も被らず日傘もささずにビルの谷間の歩道を歩いているのを見るけれど、よく平気でいられるなあと、いつも感心します。33度ちょっとでも熱中症になりそうなのに、38度なんて死んでしまいます。

夕食は焼きナスも焼いていたから和食を食べたかったけれど、強力粉とドライイースト菌とピザ用チーズが賞味期限を過ぎてしまっているので、早く使い切ろうと、ピザを作ることにしました。
夕方4時半にイースト菌を日なたで発酵させ、その間にウエットシートで床掃除をし、野菜の値段が高いので、青汁用ケール粉末を入れてピザ生地をこね、トマトケチャップと冷凍しているピザ用チーズと青ピーマン赤ピーマンを載せ、グリルで焼いている間に庭の花や野菜にホースで水をやり、汗がダラダラ流れるので顔を洗って水分補給をしてピザを食べ、その勢いのまま、4ヶ月ぶりくらいに1階と2階の和室に掃除機を掛けました。

2階の洗濯物取り入れ→イースト菌予備発酵→2階床掃除→水分補給&ピザ生地作りと発酵→1階床掃除→水分補給&ピザを作ってグリルで焼く→庭の水まき→水分補給&ピザ食べる→2階6畳和室に掃除機→水洗顔&水分補給→1階8畳和室4畳広縁に掃除機→水洗顔&水分補給。
私の場合、勢いでやらないと、途中で休んでしまったら、もう動けなくなってしまうので。服もタオルもびしょびしょで、へとへとに疲れました。

掃除機は、当時世界最軽量でハウスダストを感知すると赤いランプが点灯するパナソニックのもの。普通なら、ゆっくり何往復かすると赤いランプは消えるのに、長く掃除機をかけていなかったからか、なかなか赤いランプが消えず、でも、汗がダラダラと滴り落ちるので、あまり丁寧には掃除できなかったけれど、これで、リビングのフローリングの上も、2階6畳和室の畳の上も、気持ちよく横になれます。

今夜はペルセウス座流星群が見られるらしいけれど、うちの近所は防犯灯があちこち在って明るいので、残念ながら毎年殆ど見られません。
その上、最近は昼間晴れていても夜になると雲が薄く広がって月も見えないくらいで、今夜も、日中はあんなに青空だったのに、薄い雲が広がって、明るくて大きな星が2つ見えるだけ。しばらく前には、西之島の噴煙の影響でPM2.5の濃度が上がって濃霧注意報が出されたくらいなので、まだその影響があるのかも。
高校生の頃だったか、当時の自宅の庭からペルセウス座流星群を見たことがあって、十数個の流星を見たのを思い出します。

どこかの高原にでも誰かと出かけて、降るような流星群を見て見たいなあ。

残暑と外出と香港2020/08/11

市役所駐車場近くの公園にあった大木の木の実。ラクウショウ(楽羽松)?
連日の猛暑。
8月7日から立秋と言っても、現実には残暑厳しく、梅雨が長かった今年はまだ体が暑さに順応しきれていないから大変。
毎日たくさん汗をかいて暑熱馴化(しょねつじゅんか)はしているつもりだけれど、大学生の頃から私は暑さに弱いのです。

母の介護のためにリビングに置いたベッドがあるので、真夏の間は、寝る前にリビングに冷房を入れ、入浴後にそのままリビングのベッドで寝て、普通は朝9時頃には冷房を停止して、内部クリーン運転になって、家中の窓を開けて風を入れると、東からの海風で割と涼しく過ごせるのですが、今朝は、8時に目が覚めて温度を確認すると、
「お部屋の温度27度、外の温度37度です」
えっ、37度?
部屋に置いてある温度計では、実際の室温は28度ちょっと。外の温度は、エアコンの室外機を東向きに設置してあるので、朝から強い日差しが差し込む影響もあるのでしょうけれど、37度というのは初めて。空を見ると青空ではなく雲が広がっていて、温室効果も働いたのでしょうか。風も殆どありません。

今朝は燃えるゴミの収集日で、この季節はゴミを溜めると腐ったり虫が湧いたりするので、ゴミは少なかったけれど、外のバケツに抜いた雑草を入れてあるので、それと一緒に指定ゴミ袋に入れ、収集場所に持って行きましたが、冷房は、設定温度を28度にして点けたままにしておきました。
汗びっしょりでゴミ出しから帰宅後、顔を洗い、再度エアコンの温度を確認すると、
「お部屋の温度26度、外の温度34度です」
ヘンなの。設定温度は27度から28度に上げたのに。温度計を見ると、実際の室温は28度ちょっとなのに。

ほぼ無風で、試しに窓を開けると熱風が入るので、窓は締め切ってリビングの冷房を入れたまま過ごすことにしました。
マイナンバーカードとマイナポイント申請のために市役所に行くことと、お盆が近いので墓参りに行くこと、この2つの用事を、今日は済ませたいと思っていたのですが、暑くて体がだるくて眠くて、昼過ぎには気象情報で地域の最高気温が34.1度に。
冷房を切ると熱中症になりそうなので、設定温度を29度に上げてエアコン継続。室温は温度計でも29度になりましたが、他の部屋は窓を全て開け放していても33度くらいになっていたので、リビングに戻ると、29度でも涼しかったです。
とても出かけられそうにないと思ったのですが、夕方3時過ぎに、少し暑さが和らいだので、雲は無くなり日差しは強かったけれど、出かける事にしました。
エアコンは切って、水分補給用に梅酢入りの薄いスポーツドリンクを作って。

市役所までは3.3㎞。
マイナンバーカードは、以前に申請しようかと思った時、暗証番号を4つも設定しないといけなくて、覚えられないし、とても管理できないと思って断念したのですが、今日、市役所で訊いたら、確かに4つだけれど、3つは同じにすることを勧めているとのこと。そして、申請時にではなくて、約2ヶ月後にカードを取りに行った時でいいとのこと。
マイナポイントは、予算が決まっているので、先着順で受け取れないかもしれないとのこと。そのことはニュースで知っていたけれど、民間のキャンペーンならともかく、税金を使っての政府のキャンペーンで、申請期間内に申請するのに先着順といのはオカシイよね。

市役所の帰りに墓参りに行きました。駐車場が無い墓地で、路上駐車するしかなく、お盆に入ってしまうと墓地前の道路が一杯になってしまうので、いつもお盆の前に行きます。今日は車は1台しか停まっていなくて、他は徒歩や自転車の近所の人だけだったので助かりました。昼過ぎまで曇っていたおかげで、いつも夕方まで暑い墓地なのに、この時期としては暑くなくて助かりました。

本日の走行距離11㎞。久しぶりの外出。
こまめに水分補給をしたためか汗びっしょりで、帰宅後すぐに顔を洗い、洗眼液で目も洗い、うがいをして、着替えると、お肌はさらさらに。
あれっ、もしかしてサラサラ過ぎる?
市役所でも、墓地でも、汗がダラダラと止まらなかった。ちゃんと水分補給はしていたけれど、熱中症になりかけている?
ほんのり湿っているはずの脇の下も、案の定サラサラ。これはいけません。水分補給、水分補給。
水分補給ばかりで、食欲が出ないのが困ります。
お菓子もアイスもずうっと食べていませんよ。食べたいと思わないから。ご飯にキュウリや大根のぬか漬けが美味しい。

でも、現代の日本に生まれたことは幸せですね。
少なくとも、ブログやツイッターに政府を批判する内容を書いたって逮捕されたりしない。自由と民主主義のもと、政治運動や活動を行う権利も保証されている。
香港のこと、私には何も出来なくて辛いです。
周庭さんと民主活動家やメディア関係の方々が、一日も早く釈放され、香港国家安全維持法が撤回されますように。
世界各国で目立つようになった強権体制や独裁政権。これに異議を唱えることは、決して内政干渉ではない!!!

追記:
周庭(アグネス・チョウ)氏が11日深夜(日本時間12日未明)に保釈され、蘋果日報の創業者、黎智英(ジミー・ライ)氏も近く保釈される見通しとのこと。ただ、保釈金(日本円でおよそ270万円余)を払っての一時的なもので、パスポートは没収され、今後も捜査は続くらしい。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/

ハート💚ハート2020/08/10

勝手に生えてきたヤマノイモの花~ハート形の葉っぱにハート形の虫食い穴を発見し、可愛いので撮影した
しばらくブログの更新をしなかったのは、気分と体調が良くなかったからで、今日も良くなくて、買い物にも行けませんでした。
食事も最低限しかできていません。
床掃除をしなくては、と思うのですが出来ません。
入浴は、夏で汗をかくので、寝る前になってさっと済ませますが、ブログを書く気力までは無いのです。

それに、一人暮らしで家族が無く他人との交流も全く無いから、ニュースで見たことや過去の随想くらいしか書けないし。

今日ブログを書く気になったのは写真を撮ったから。

台風5号接近で、昨日午後から強風と雨でした。
今朝、雨が止んでいたので、勝手口からちょろっと外に出てみました。このところカンカン照りの猛暑が続いていて、動かない体に鞭打って夕方ホースで水をやっても、翌日にはすぐにからからに乾いて、ミニ畑の里芋の葉っぱもうなだれていたけれど、久しぶりの雨で元気になっていました。
ゴーヤーとオカワカメのツルに、庭の隅に勝手に生えてきたヤマノイモが巻き付いて、しばらく前から白い小さい花がたくさん咲いています。庭の砂利の中なので肥料をやっていないし最近まで雨ばかりで日照不足だし、ひょろひょろして花も弱々しいですが、なかなか綺麗でかわいいので、写真に撮っておこうとしたら、ヤマノイモのハート型の葉っぱにハート型の虫食い穴が見つかったのです。

家族が居たら、「ねえ、見て見て♪」って、たわいもない会話をするのでしょうね。
親しい友人がいたら電話して、「何よ、そんな事で電話してきたの?」って呆れられるのでしょうね?

ハート型の穴と一緒にヤマノイモの丸い小さな花の写真を撮りました。強風に揺られ、雨もザっと降ってきたので、あまりきちんと撮れませんでしたが。

昔の随想を書くと、とてもとても長くなってしまって、多分誰も読まないだろうし、このブログを続けても意味があるかなぁと思ってしまうこの頃なのです。

感覚過敏はつらいよ2020/08/05

触覚過敏でタグや縫い目も辛い
紹介にもあるように、私は五感全てが感覚過敏。
記憶をたどると、私は物心ついた幼時の頃から、既に感覚過敏があったようなのだが、感覚過敏というものについて初めて知ったのは、2017年5月21日日曜日に放送されたNHKスペシャル「発達障害~解明される未知の世界~」を見た時だった。
それまでは、どうやら自分は他の人より聴覚や嗅覚が敏感なようだ、くらいには思っていたけれど、それらが感覚過敏と呼ばれるものだとは知らなかった。

以前、特別支援学校で講師をしていた時、他の職員と一緒に掃除をしていて、その職員がモップに掃除用のスプレーを掛けたら、私はあまりの匂いのきつさに、てっきりスプレーが古くなって傷んでいるのだと思って「すごいキツイ匂い。傷んでませんか?」って訊いたら、「そうですか? 私にはすごく良い香りですけど」って言われた。その時に、自分の嗅覚が他人と違っていると初めて知った。

2年前の11月、神社の秋祭りの日、姉と一緒に母を施設に迎えに行った。一時帰宅のために。帰宅して、ちょうどお神輿が自宅近くの道を通るので、私は日傘を母に差し掛け、姉と3人でお神輿を見に行った。
「日差しが強くて痛いね」って姉に言うと、
「そお? 私にはちょうど暖かくて気持ちいいけれど」って言われた。
もう何年も前から日差しが痛くて困っていて、てっきりオゾン層が破壊されて紫外線が強くなったからだと思っていたのだが、そうではなかったのだと分かった。

そんな風にして、私は、自分が五感全て感覚過敏であると知った。

幼い頃、暗がりに不思議なものを見ていた。
とても綺麗で、虹色の様々な形のものがたくさんたくさん流れるように浮かんでいて、私はそれを掌で包んで捕まえることもできた。丸や三角やひし形や、様々な色や形のものが鎖のように繋がったり、花のような形になっていたりして、布団にもぐって、一番綺麗なそれを捕まえて、握った手の隙間から覗くと、捕まえたその綺麗なものが手の中にちゃんと見えた。
今も、幼い頃ほど綺麗ではないけれど、やはり暗闇は闇ではなくて、カラフルな虹色の模様で溢れている。他の人達に闇がどう見えているかは分からないけれど。
小学校の低学年で気付いたのは、明るい所では透明な小さなシャボン玉のような〇が空中を動き回っていることだ。参観日で授業は早く終わり、母親は懇談会に出ていて、帰宅後に一人で南向きの和室でぼうっと宙を見ていて気付いた。空気が見えるのかな、と思った。

他の人もそうなのか、違うのか、気にしたことは無かった。知りようも無かったと思う。
感覚は、自分の内なる世界であって、他人と見比べることは難しいから。

明るいのは苦手だ。真っ白も目が眩む。TVは一番暗くしているし、室内の照明も暗くしているし、外出時は冬でもUVグラスかけているし、何とかなる。時々TV画像が耐えられない色調や動きのことがあるけれど、そんな時はTVを見なければいいわけだから。
視覚過敏は、なんとか対応できる。

味覚過敏は、自分で調理すれば大丈夫。
スナック菓子類は殆ど買わないけれど、たまに食べたくなった時には、一番塩分量の少ない物を買う。インスタントラーメンは粉末スープを半量にするか、野菜を麺の倍量入れる。カップスープはお湯の量を2倍に。

嗅覚過敏は、自宅に居る分にはほぼ大丈夫だけれど、一歩家を出ると結構困る。
ある耳鼻咽喉科の診察室に入ったとたんに看護師の化粧の匂いに耐えられなくなった。スーパーの出入り口付近にある喫煙コーナーはどうにかしてほしい。出入りするときに、息を止めなければならない。
昔はスーパーの鮮魚コーナー駄目だったけれど、今はきっちりラップしてあって大丈夫。洗剤コーナー、柔軟仕上げ剤コーナーは、密封してあるはずなのに、日によっては耐えられないこともある。金木犀の季節は、花が見えなくてもあのきつい香りが漂ってきて困る。
近所から漂ってくる夕餉の匂いも結構困るが、これは仕方がない。

最近一番困るのは聴覚過敏だ。
普通は誰も気にしないような物音、隣家の電話の音、家の前を車が通過する音、隣の駐車場のドアの開閉音、スーパーのBGM……日常は騒音に満ちている。
電話の音や携帯のバイブレーション音や着信音がダメだ。
電話の呼び出し音は、大丈夫な音を探す。以前に携帯電話がガラケーだった時、設定のバイブレーションを切っているのに、アラームではバイブレーションが働いて困った。スマホになって、初めは電話の呼び出し音も、メールなどの着信音も、バイブレーションも、その度にビクンと飛び上がった。大丈夫な呼び出し音を必死に探し、やっと1つだけ見つけた。バイブレーションは、設定で切りにすることができた。頼みもしないのに送られてくる○○ニュースなどの着信音には長く悩まされたが、それを拒否できる設定をようやく見つけてひと安心。

左耳が突発性難聴になった後、一応は正常範囲に近いところまで回復したはずなのだが、聴覚の許容量がすごく狭くなってしまったらしく、それまで以上に困るようになった。

県立病院を受診した際、総合案内所で途切れない呼び出しアナウンス音など我慢して受付票を記入していたのだが、途中で無理になり、
「すみません、もうこれ以上の記入は無理です」と途中までの物を提出に行き、最後まで書いてくれないと困りますと言われたが、もう本当に限界が来て、両耳を押えてうずくまり、動けなくなった。
数人が駆け寄り、私は車椅子で運ばれた。パニックということになるのかな?

悲しいことに、大好きだった歌や音楽が聞けなくなってしまった。
TVの設定はもちろん字幕ONにしているのだが、字幕の無い番組もあるし、録画再生だと字幕放送でも字幕出ないし、音楽は字幕じゃ分からない。
歌の超上手い人の歌声は平気だけれど、K-popやK-popに似たJ-popだめ。同じアーティストでも、無理なく綺麗に歌えている歌は大丈夫で、無理している感のある歌はだめ。頭の中がザワザワして耐えられなくなる。
私は定期的に歯科受診しているのだが、それまではイージーリスニングだったのに、ある時から急に診察室でも有線放送だかのJ-popが大音量で(少なくとも私には大音量だった)流れ始め、その日は何とか我慢できたのだが、次の時、耳栓やイヤーマフは持って行ったけれど、歯科治療中は使えないし、
「すみません。少し音量を下げてもらうことはできないでしょうか?」とお願いしてみたら、音量を下げてくれて、それ以降は気になる音量ではなくなった。

聴覚過敏は、外出時には何かと困難が付きまとい、自宅に居ても、急に草刈り機の音が鳴りだしたりとか、不意に付近で工事が始まったりとか、耐えきれないこともあるが、そういう時は、耳栓やイヤーマフで対処できなくもない。

最近困っているのは、エアコンの音。
夜間には外の温度も下がっているからか、就寝時など気になるほどの音は出ないのだが、梅雨明けして真夏日が続き、気象情報では「日中もエアコンを適宜使い、喉が渇かなくても水分補給をして、熱中症に気を付けましょう」と言われるし、水分補給は日頃から気を付けているけれど、日中のエアコンは難しい。
数日前の事だが、就寝時に付けていたエアコンを止めずに、体調も悪かったので、日中もエアコンを使って体を休めようと思った。
午前10時の段階で「お部屋の温度28度、外の温度33度です」
外が暑いせいかフル稼働で運転音が大きく、TVを見ていても、エアコンの運転音が苦痛で堪らなくなり、暑さを我慢する方がまだマシ、と思って正午にエアコンを停止し、窓を開けて風を入れた。

他に困っているのは、触覚過敏。
私は冬でも日差しが痛く、日向ぼっこも出来ないくらい。梅雨の頃から、汗で皮膚が過敏になるのか、縫い目やタグの類がもう堪らない。タグなら、きれいに切り取ることも出来るが、縫い目はどうしようもない。
いくら自宅内でも、服を着ないで過ごすわけにはいかない。
肌着やパジャマは、裏返しで着れば刺激を避けられるけれど、日中に着る服や外出着は裏返しで着るわけにはいかない。
日によっては、ジーンズの縫い目がチクチクして、家の中なら我慢できずに脱いでしまうこともある。せめて、縫い目がなるべく皮膚に当たらないように、サイズの大きい物を着用するくらいしか出来ない。
暑い季節はTシャツを素肌に着たりしたいけれど、首に当たる部分にメーカータグ付けるの止めて欲しい。あと、洗濯とかの取り扱い表示も、下の方なら下着で肌には当たらないけれど、脇の真ん中あたりにあったりすると、もう着られない。今は、メーカー表示も取り扱い表示も、タグじゃなくてプリントされた物も、少数ながらあるけれど。

自分の髪の毛が顔や首に触るのも我慢できなくて、髪が顔や首や肩などに触らないようにゴムで結んでアップにしているが、ほつれ毛が首筋に触るだけでも苦痛になる。
ああ、丸刈りにしてしまいたいよお。

故郷の海岸を守りたい2020/08/04

子供の頃に砂浜で拾った貝殻
アカウミガメの産卵地になっている宮崎県日南市の海岸で、市の保護施設でふ化したカメの赤ちゃんが8月4日朝、海に放流された、というニュースを見た。
今シーズンは、これまでにおよそ4800個の卵が保護され、4日朝、このうちの40個がふ化しているのが確認されたという。

私が生まれ育った町の砂浜でも、毎年アカウミガメが産卵し、ふ化したカメの赤ちゃんが海に帰っていくのを見たこともある。
私の両親は、私が生まれた後も何度も引っ越しをしたのだが、ずっと海岸のすぐそばだった。遊泳禁止の海だったから泳ぎはしなかったけれど、砂浜と松林は、幼い頃から高校時代まで、ずっと私の遊び場であり、唯一の居場所でもあったと思う。

波打ち際は砂が濡れて引き締まるので歩きやすいが、松林を出て波打ち際まで、砂丘を2つも超えて歩くのは、けっこう大変だった。草履の下で乾いた熱い砂がずれるので、一足ごとにバランスを保たなければならない。夏の砂浜は火傷しそうなくらい熱かった。歩きやすい波打ち際に早く行きたくて、私は砂浜を草履履きで走った。

私が小学校低学年の短い間だったが、父が犬を飼っていたことがあり、夕方には犬を連れて家族で浜に行った。私は犬と一緒に浜で走り回った。
当時は薪を燃やしてお風呂を沸かしていたので、夕方には毎日のように、浜辺に流れ着いた焚き物を拾いに行っていた。ごく細い枝や木の皮が集まった物は、ガランコと呼んで焚き付けにしていた。大きな焚き物は父や母が運んだが、幼い私はガランコをたくさん集めて運んだ。

私は運動音痴で(今から思うと、たぶん自閉症のせいで脳と体がうまく繋がっておらずに、思うように体を動かせなかったのだと思うが)、ボールを投げてもヒョロヒョロで、走るとビリだったのだが、クラスで一番の俊足の女子に勝ってテープを切ったことが一度だけある。学年末のお別れ遠足は毎年、浜で行われて、宝探しをしたり、ビーチバレーをしたりするのだが、その年は砂浜での徒競走だった。当然のことながら砂に足を取られて上手く走れない。でも、砂浜で毎日のように走り回っていた私の足は慣れていたから、よろめきもせずに一番でゴールしたのだ。その俊足の女子も、私同様に浜育ちだったのだが、友達も多く、スポーツ万能だったから、私のように砂浜で一人走り回ったりはしなかったのだろう。

中学や高校になると、家族で浜に行くことはなかったが、友達の少なかった私は、学校から帰宅して夕方になると、毎日のように松林と砂浜に一人で遊びに行った。日曜日や春休みや夏休み、冬休みさえ、時間があると松林と浜に行った。
松林は、大きく育った松の木の間隔が広く、苗木が植林されずにいたので、木漏れ日のさす下には黒松以外の様々な木や草花が育っていて、私はそれらを発見するのが楽しくて、松林の中をずっと遠くまで散策した。獣道のような細い道も全て把握し、どこに何の木が生え、どんな花が咲いているか、自分の庭のように把握していた。
波打ち際では、歌を歌って貝殻を拾いながら、南は潮汲み場といわれる施設がある所まで、北は干潮時には砂浜で陸続きとなることもある河口まで、歩いた。

今の時代では信じられないかもしれないが、女の子が一人で松林や砂浜に行っても、危険だとは思われていなかった。

小学校4年生の夏休み直前、水泳大会のあった日の夜、私は40度の高熱を出し、受け入れてくれる病院が一つもなく、唯一受け入れてくれたN医院という小さい医院に入院した。肺炎と言われたが、今のような良い薬はなく、点滴をした覚えもない。病室の窓から見える向かいの家の屋上に、柱サボテンが植えられていて、黄色い花が咲いていたのを覚えている。
2週間の入院中に2つの台風が直撃した。台風後、肺炎はあまり改善せず微熱が続いていたが、学校は夏休み中なので自宅療養することになり、退院した。

そして、数日後に浜に行き、愕然とした。2つの台風の直撃を受けたせいなのか、松林の縁から波打ち際がすぐそこに見渡せるほどに狭くなっていたのだ。
まるで鳥取砂丘のように広がっていた砂浜、砂の丘をいくつも超えないと波打ち際に辿り着けなかった砂浜、潮が引くと、砂丘と砂丘の間に潮だまりの川が2つも出来るほどの広さで、浪打ち際までの距離が遥か遠くだったのに、三分の一以下に短くなっていた。

その後、松林と砂浜の間に防波堤が築かれ、波消しのテトラポットが並べられ、私が高校生の頃には、以前通りとは言えなくても、少しは砂浜が復活し、高齢者達がゲートボールをしたり、若者達がサーフィンをしたりしていた。

大学生になった私は自宅を離れ、その後両親も、結婚した姉の家がある里山近くに引っ越したので、私が再び故郷の海岸を訪れる機会は無くなった。

昨年、父の墓参りをした際、ちょっとだけ浜に行ってみることにした。何十年も離れ、その町の住人ではなくなった私は、松林に足を踏み入れる事さえも、何か悪いことをしているような気持ちになってしまったのだが、松林を抜けた途端、私は愕然とした。松林の端にある防波堤のすぐ下が、荒波打ち寄せる海だったのだ。
砂浜は全く無かった。

昔は、松林を抜けると、枕の実にするハマゴウ(両親はボウレンと呼んでいた)が群生していた。そこを抜けると一段高い砂浜で、アカウミガメの卵の保護のため、波打ち際から卵を移して囲いを作っていたのもそこだった。そこから緩やかに下って広い砂浜が広がっていたのだ。
ふ化したカメの赤ちゃんが海に帰っていくのを見たあの砂浜。
サクラガイやヒオウギや綺麗な貝殻を拾って歩いたあの砂浜。
それらは、もうどこにもなかった。
幻のように消え去っていた。

私は強いショックを受けた。ダムが幾つも出来たせいで、河口に砂が流れ込まず、海岸に砂が堆積しなくなったのか。そうだとしたら、治水のために止むを得ない事なのか。

けれど、今年になって、そうではないことを知った。
事業者が毎年多量の土砂採取をし、それによって県は利益を得ているという。
県によると、土砂採取の申請があれば、法的に問題が無ければ許可せざるを得ない、のだという。
昨年10月の台風では、高波が松林の中に30mも侵入したらしい。

松林を含む海岸は、住民にとって大切なもののはずだ。昔から普通にそこに在った松林や砂浜と一緒に生活し、成長してきたのだ。アカウミガメも昔から保護されてきた。
地域の住民にとっての浜は、熊本県民にとっての熊本城、沖縄県民にとっての首里城にも等しいほどの大切なもの。
精神的に大切なだけではない。台風や津波から命や財産を守ってくれるものでもある。

そんな大切な存在を、なぜ県はないがしろにするのか。
法的に問題がなければ許可するって、法的に問題がないはずは無い。地域住民の安全を脅かしているのだから。
それに、山からの土砂採取なら山の持ち主が許可すれば仕方ない面もあるかもしれないが、砂浜は県の持ち物ではない。それを勝手に売って収入を得ているなんて、信じられない。自分の住む県が、そんなことをする県だったなんて。
「海岸の浸食と土砂採取の因果関係が明確でない」などと寝言を言う県だったなんて。

私の故郷の海岸は、危機に直面している。長く離れている私でさえ大きなショックを受けたあの痛ましい海岸。
実は日本全国で同じようなことが起きているらしい。

コロナは大変だけれど、きっといつかは終息するに違いない。有効な治療法が確立され、ワクチンや新薬が開発されるはず。世界中が必死になっているから。
失われた命は戻らないけれど、数年か十数年か先には、きっと、今の大変な状況よりは改善しているに違いない。

けれど、日々浸食されて削り取られて無くなっていく海岸線は、大多数の人が気にも留めないままだ。
そして今日も国土は狭くなり、地域住民の生活は脅かされ、海の生態系をも脅かしている。
県には、土砂採掘を許可するなんて止めて欲しい。
私が子供の頃にあった豊かな海岸環境を、どうか取り戻してほしい。

郷愁の為ではなく、人為的に破壊された自然は、そのままで良いはずはないのだから。

一面識も無いのに!2020/08/03

月齢13.4 月出18:45 月没03:55 2020/08/03 20:13撮影 雲のせいか異様に赤い月
昨日の日曜日は、朝から晴天で、洗濯をたくさんし、朝食の後には常備用に「鶏肉入りおから」も作り、夕方には、日差しを利用してイースト菌を発酵させ、自家製のバジルとミニトマトを使ったピザも作った。

けれど、その後から、とても体調が悪くなってしまった。前日の土曜日はパソコンを一度も開かずにメールチェックさえしなかったので、2日ぶりにパソコンを開いてメールチェックをし、ブログだけは書いたのだが、エアコンを27度設定にして涼しくし、薄いスポーツドリンクを飲んで体を休めても全然改善しなかった。
諦めて、サッとシャワーを浴びて、設定温度27度のまま肌布団を着て寝て、熟睡はできたと思うのだが、今朝目が覚めてからも倦怠感が強かった。
座敷の窓を開けてから仏壇にお茶と水と線香を上げ、米麹甘酒と炭酸水を飲んだ後、TVでニュースを見ながらソファーに座っていたが、倦怠感に我慢が出来ず、座敷の窓を閉めてから再びベッドに横になった。
エアコンは冷えすぎていたので28度設定にしたのだが、しばらくしても室温は上がるどころか下がってしまった。
「お部屋の温度26度、外の温度30度です」
仕方なく、エアコンは止めた。自動的に内部クリーン運転になり、その音を聞きながら、いつの間にかまた寝入ってしまい、目が覚めると昼を過ぎていた。
防犯のために窓はほぼ締め切っていたので、室温は31度になっていた。

どうしてこんなにも倦怠感があって気力が無いのか。
日曜日の暑さも関係あるかもしれないが、一番の原因と思われることがある。
8月1日の土曜日のcoopでの出来事だ。

土曜日は朝から晴れてはいたが、薄い雲が全体に広がって日差しが弱めで、定期受診の歯医者の後、日傘をさして歩いてcoopに買い物に行った。片道10分もかからない。買いたいものは決まっていたので、すぐに帰宅するつもりだった。
coopに入ると、店員さんが待ち構えていて手やカート、カゴを消毒してくれた。
店内は、普段はチラシ配布などしないのにタウンプラスの葉書で日替わり特売品の案内があったためか、とてもとても混雑していた。生後間もない赤ちゃんをベビーカーに載せた家族連れもいて、シングルマザーなら仕方ないけれど、新型コロナウイルス感染者が地域でも激増しているのに、感染を心配しないのだろうかと思った。

目的の物を買ったらすぐに帰るつもりでいたのだが、お茶サービスのコーナーで、紙コップの取り出し方が分からずに困っている年配の女性が居たので、つい「白いボタンを押すと紙コップ出ますよ」と声を掛けてしまった。
その女性は、私の声を聞いて白いボタンを押して紙コップを手にしたかと思うと、少し離れた場所にいた私に手を伸ばし、いきなり腕を思い切りバチンと叩いたのだ。

えっ! 
私は一瞬何が起きたか分からないくらいに驚いた。
叩かれた腕がヒリヒリしていた。
相手は一面識も無い全くの見知らぬ女性だ。
困っている様子を見かねてとっさに声を掛けただけで、その結果その女性は紙コップを取り出せたのに、なぜ私が叩かれなければならないのか。
私は感覚過敏で、知り合いからさえも体に触れられるのは不快に感じる。ポンと叩いたのではなく、思いっきり叩かれ、かなり痛かった。しかも、コロナ感染激増で、他人との接触は避けなければならない時だ。私は、今のような感染拡大以前から銀行の待ち時間に椅子に座ることさえせずに立っている。知り合いならともかく、全くの一面識も無い相手を、なぜ思いっきり叩くのだ。
怒りが込み上げてきた。
「教えてあげただけですよ。なぜ叩くんですか。叩かないでくださいよ」

相手の女性は、「ごめんなさい」も言わず、近くの椅子に腰かけて悠々とお茶を飲み始めた。
まるで聞こえていないかのように、どこ吹く風だ。
私は、もう一度言おうかと思った。コロナがあるのに、いきなり叩くなんてどういうつもりですかと。

でも、言っても無駄だと思い直し、その場を離れて帰宅することにした。
怒りは収まらない。コロナのことが無ければ水に流してもいい。けれど、今は新型コロナウイルス激増で、他人との接触は避けねばならない時なのだ。あなたがもし無症状の感染者で、私が感染してしまったら、どうしてくれる。
おそらくは、簡単な事に気付けなかった照れ隠しだろうとは思う。それで、考え無しに教えた私を叩いたのだろう。けれど、コロナがなくても、一面識も無い相手を思いっきり叩くなんて有り得ない。悪気が無いとしても、思慮が無さすぎる。
悪気が無ければ何でも許されるわけではない。もし許されるなら、思慮の足りない人は、何をしても許されることになってしまう。

見知らぬ人に対していつまでも怒りを抱いていても不毛なので、私は急いで帰宅した。叩かれた腕を触らぬように気を付けながら。
そして、もう決して、見知らぬ人が困っていても、声を掛けないと思った。
別に親切心から声を掛けたわけではない。困っている様子を見かねて、つい無意識に声を掛けてしまったのだ。けれども、今後は、絶対に見知らぬ人には声を掛けない。少なくともコロナが終息するまでは、絶対に!!!

帰宅して、すぐに全ての衣服を脱いで洗濯機に入れ、腕から下と顔を石鹸で洗ってうがいをした。それでも、叩かれた感触が腕に残っていた。もう買い物に行くのも怖いと思った。
午後からも全く気分は晴れず、パソコンを開く気にもなれず、ブログも書けなかった。

たぶん、土曜日のそのショックが、2日経った今日も尾を引いているのだろう。
こんなにも引きずってしまうのは、やはり自閉症のせいなのだろうか?

昼過ぎに目覚めた後で窓を開けると、晴れではあるが、前日のような青空ではなく全体に薄い雲が広がって、日差しは少し弱めなのだが、気温は32度まで上がった。それでも、海風はエアコンの風より心地よかった。
前日の残りのピザを電子レンジで温めて食事したが、全く気力が沸かない。
この1週間で急速にコロナが拡大し、市長より「できうる限りの外出自粛」が呼び掛けられている。
「三密を避けながらも、家族とは密に連絡を取ろう!」とTVが呼び掛ける。
私には、連絡を取る家族は居ない。家族が居ない人のことなんて考えていないよね?
もう何ヶ月笑っていないだろう?

優しい世の中に2020/08/02

月齢10.4 月出16:06 月没01:08 2020/07/31 20:25撮影
7月31日の夕方、TVで「dNHK全国のニュース」を見ていて、「“障害の内容を書かされ自殺”自治会役員らに賠償求め提訴」というニュースが目に留まった。
読んで目頭が熱くなった。
大阪平野区の市営の集合住宅に住んでいた36歳の男性がかわいそうでならない。
ただの同情ではない。私にとって、全然他人事ではない。

私は以前書いたように、宮城まり子先生の「ねむの木の子どもたち」を中学生の頃に読んで以降、障害児教育に強い関心を持ち、養護学校(現在では特別支援学校)教諭の免許を取った。教育実習では小学校に行ったが、県立学校教諭を46歳で退職したあと、常勤講師として特別支援学校に勤めた時には、高校1年生の担任をし、授業では小学生から中学生までも他の先生たちと一緒に受けもった。
障害のある子供たちは、みんな純粋だ。けれど、純粋さゆえに、社会に出ると様々な辛い局面にあう。日常の全てが辛さの連続になるかもしれない。犯罪被害にあうことも多い。
それに、私自身も高機能自閉症、感覚過敏、聴覚情報処理障害などの障害をもっている。

ネットで調べると、朝日新聞DIGITALにも記事があった。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/
「障害があると書かされ翌日自殺」 遺族が自治会を提訴
朝日新聞社 2020/07/31 20:13
「……市営住宅で一人暮らしだった男性は昨年11月中旬、くじ引きで自分が自治会の班長に選ばれる可能性があることを知り、自治会の役員に「精神の病気で班長ができない」と伝えたが、『特別扱いできない』と言われ……便箋(びんせん)2枚に『しょうがいかあります(原文ママ)』『おかねのけいさんはできません』『ごみのぶんべつができません』などと書かされた。さらに役員らから、文書を同じ階の住民(約10世帯)に見せると言われたという。男性は翌日、自宅で亡くなった。」

亡くなった男性は、どんな気持ちで便箋2枚をひらがなで書いただろう。その気持ちを思うと、私は堪らない。
そんな物を書かせる必要なんて無かったはずだ。少しでも寄り添う気持ちがあれば、そんな事をさせたりはしなかったはずだ。療育手帳が交付されている人を、本人の意思により班長候補から外すのは、「特別扱い」ではない。「合理的配慮」だ。

知的障害がありながら自立した生活をするのは、多くの困難があったことだろう。自分が班長になってしまうかもしれないと分かった時、「精神の病気で班長ができない」と役員に伝えるだけでも、どんなに勇気がいっただろう。けれど気持ちは伝わらなかった。理解しようとはしてもらえなかった。

障害があっても無くても、本人にとって困難なことを強要するのは苛めも同じだ。出来ないことは助け合えばいい。人は誰だって万能ではないのだから。今の時点で障害が無くても、今後病気になるかもしれないし、認知症になったら色々な事が出来なくなっていくだろう。

私は、まだ母の認知症が軽い頃、1年間自治会の班長をしたことがある。
私が住む地域では、1年交代の持ち回りで班長が回ってくるが、年々住人が減っているし、高齢になると班長が免除されるので、順番が回って来るのが早くなっていく。あと数年で、また私にも班長の順番が回ってくる。
前回、とても大変だったけれど、今より若かったし、母に対する責任感で今より強い自分でいられたから、無理も出来た。それに、当時の区長がとても懐の広い方で、私に対しても強い信頼を寄せてくれたので、私もそれに応えたかった。

けれど、その後幾つかの病気にもなり、突発性難聴になったことで聴覚過敏は強くなり、聴覚情報処理障害も顕著になったし、公的支援機関から重ねて相談を拒否されたショックもあるし、次回については不安が大きい。高機能自閉症や感覚過敏、聴覚情報処理障害などについて、地域では誰にも話していない。親しい人はいないから、話す機会もない。

高機能自閉症の場合、多くの人が、助けを求めるよりも一人でいることを選ぶらしい。
理解してもらえることは稀で、日常の中で誰かに拒絶されることは耐えがたく、むしろ孤独であることを選ぶ。
私もそう。人の優しさに助けられるよりも、悪意に晒されることのほうがずっと多い。
そして、地域の中で普通に生活しようと思ったら、障害を隠し、自分を偽るしかない。それは、ますます孤独になっていくということだ。

障害のあるなしや性別、年齢に関わらず、出来ないことは互いに助け合い、それを当たり前の事として誰もが受け止め、誰もが安心して暮らせる社会にはならないものか。
社会のシステムはノーマライゼーションに向かって進んでいるとは思うけれど、心のノーマライゼーションが進まなければ、結局は、弱い立場にある少数派の人が苦しい思いを耐え忍ぶしかなくなるのだ。

優しい世の中になって欲しいと切に願う。