苦しくても生きるしかないから2020/09/23

ずっとブロブを書けませんでした。
ブログだけではなく、パソコンをほぼ開けませんでした。
父のファミリーヒストリーを書くまではと、何とか8月15日までは頑張って書いたけれど、実は生きる気力さえ失っていました。

私は、昨年12月半ばから、銀行などでの事務的な会話と母の介護施設との連絡以外は、ほぼ会話が無い生活です。
どうか想像してください。
朝から晩まで、大晦日も、お正月も、お彼岸も、誕生日も、お盆も、巨大台風接近時も、家で一人ぼっちで誰とも会話の無い毎日。
それが、もう9か月以上。
自ら望んでそうなったわけではありません。

高機能自閉症や五感全ての感覚過敏などの診断を受け、障害者手帳を交付されたけれど、障害者就業・生活支援センターに相談しても心無い対応をされ、地域包括支援センターは母の事で相談を拒否された体験から信頼できず、市の障害福祉課に相談しても何も変わりませんでした。
地域社会との繋がりも最低限しかなく、近隣に親しい友人も居ないから、訪問者も電話もありません。
数日前、電話が鳴ったと思ったら、世論調査の自動通話でした。
ブロブを始めて想いを伝えれば、誰かが共感してくれて、何か変わるかもしれないと願ったけれど、世の中はそう甘くは無いのですね。

仕事をしていた頃は、真面目な性格ゆえに無理をしても全力を尽くし、超繊細ゆえに自分よりも相手を優先し、長年のキャリアにより仕事のスキルも高かったので成果も上げ、信頼もされ、退職時には惜しまれもしたけれど、母の介護のために退職すると、当然のことながら元同僚達は新しい人間関係に忙しいから、退職した元同僚の事など次第に忘れていきます。
子供の頃から苛めや仲間外れにされ、もともと人付き合いが苦手な私は、コロナ禍によって、社会との接点をほぼ無くしました。

昨年までは、日差しの弱くなった夕方に庭の手入れをしたり、買い物を楽しむことで、気晴らしができました。
けれど、今年は梅雨が2か月も続き、毎日雨が降り続いて庭の手入れも殆どできず、コロナ禍で不要不急の外出が制限されて、買い物も混まない時間帯の食料品の買い出ししか行けず、自粛を求められたからではなく怖いから外出できませんでした。

毎日、家でただTVを見るしかないけれど、そのTVは、不意に流れるCMさえもが、コロナ禍で離れていても繋がろうと絆を強調し、ニュースさえもが、会えなくてもビデオ通話で繋がる家族や恋人達を紹介し、私は見るたびに涙があふれた。
繋がれる家族も恋人も友人も居ない人は、きっと私以外にも居るはず。そんな人達の事は誰も気にしていないのですね。

外出制限が緩和されても、一人ぼっちの私は、どこかに遊びに行くこともできません。会話も無く、笑うこともなく、少しの食事をしてシャワーを浴びて寝るだけの毎日。
仕事をしていた頃から、苦しくて退職したかったから、退職しても年金受給までは自力で生きていけるように、爪に火を点すような節約生活をして、現在、無職ながら衣食住はつつましくもまだ困っていない。
コロナ禍で仕事を失い衣食住にも困っている人達を思えば、それ以上を望むのは贅沢だと思われるかもしれない。
私は学生時代、食べ物を買うお金が無く、やむなく過酷なアルバイトの掛け持ちをして単位を落とし、無保険で病院にも行けなかったから、お金が無い苦労は知っています。
けれど、世界中の誰からも顧みられない孤独は、家族や友人に支えられている人にはきっと分からない。
名前を呼ぶ相手も、呼んでくれる相手も居ない孤独を、誰か分かってくれますか?

私は、たった一人で生きているとは思っていません。要介護5の母がお世話になっているグループホームには本当に感謝しているし、コロナ禍でもスーパーのレジに立ってくれている方々や、電気や水道を管理してくれている方々や、食料を生産・流通してくださっている方々がいなければ、私は生きてはいけない。

ただ、生きていても少しの楽しみも無いのです。若い頃は、将来に夢をもって頑張ることができたけれど、もう、生きることに何の喜びも希望も見いだせないのです。
9か月間、誰も訪ねてこないということは、私が孤独死しても何ヶ月も発見されないということ。私が死んだら、家も家財道具も思い出の品々も全てこの世に必要のない物になってしまうから、生前整理をして、死ぬときには全てを処分しておきたいと願うけれど、それは無理な話で、誰かに託すしかないけれど、「〇君(姉の息子)はやってくれるかなあ」と以前姉に話したら、息子も娘も孫もいる楽観的な姉は、「死んだ後の事は死んだ後にどうにかなるよ」としか答えてくれませんでした。
一人だと心配だよね、大丈夫だよ、〇君はちゃんとやってくれるよと、答えてほしかった。
だから、今は、安心して死ねないから、細々とでも生きるしかない。
世界最高齢の120歳まで元気でいれば、私の死後の始末を誰かが世話してくれて、私も安心して死ねるかもしれない。
  
昨日、母のグループホームに行ってきました。
要介護認定の更新書類に署名捺印する為です。
インフルエンザ予防接種も毎年10月初めにはしていたので、政府からも高齢者は早めの接種を勧められているし、電話で聞いてみたら、まだ分からないとの回答だったけれど、去年の書類しかないけれど同じだと思うからと言われ、そちらにも署名して帰りました。

本当は、面会も条件付きで解除されたので、母に会って抱きしめてあげたかったけれど、身体接触はできないし、私は想いがあふれて涙がぽろぽろ溢れて止められなかったので、面会は断念しました。
認知症の進んだ母は、1年以上前から、私の事が分かりません。だから、電話やビデオ通話も無理だけれど、名前が分からなくても、娘と分からなくても、心の奥底のどこかでは、会えばきっと感じてくれると思うのだけれど。

ちなみに、私自身は、母と同居し始めた年の10月に母と一緒にインフルエンザ予防接種を受けたら、副反応で発熱して10日程寝込む羽目になりました。職場でインフルエンザが大流行しても、私自身は一度もインフルエンザに罹ったことはないので、もう二度と予防接種は受けないつもりだし、近い将来にコロナウイルスのワクチンが完成しても、ワクチン接種は受けないつもりです。
私には橋本病や好酸球性副鼻腔炎(喘息併発)などがあり、子供の頃から肺炎や気管支炎に何度も罹っているので、もし新型コロナウイルスに感染したら重症化リスクが高いけれど、多くの医薬品に酷い副反応を起こしてしまう私なので、そのリスクの方が怖いから。

新型コロナウイルスさえ無ければ、世界中が今よりずっと幸せだったはずなのに。
けれど、時間を巻き戻すことはできない。感染が少し落ち着いたとしても、もうコロナ以前には戻れない。少しでも油断すれば、再び感染は広がり、多くの人が苦しみ、多くの人が命を落としてしまうから。

コロナ対応で多忙な姉からは、連絡しても連絡しても何日も返信が無く、私はますます鬱に拍車がかかって、コロナのせいと分かっていても苦しくて、眠くても眠れず、食事もとれず、腹痛も続いていたいたけれど、やっと昨日の夜、短いけれど返信が来たので、それで良しとします。

このブログを読んでくださった方、短くても良いので、どなたかコメントをもらえないでしょうか。
長文の、こんな暗い内容では、誰も読んではくれないでしょうか。

台風に思う2020/09/24

台風12号は、24日15時に関東の東で温帯低気圧に変わったとのこと。
温帯低気圧に変わったからと言って油断はできませんが、ともかくも、昨年に大変な被害を受けてまだブルーシートのままの家屋も多い千葉県に再び大きな被害が出ることは避けられるようで、本当に安心しました。
前線で繋がった別の低気圧により九州は大雨の真っ最中ですが、明朝には晴れる予報です。

九州では、先日の台風10号で大変な被害がありました。最大915ヘクトパスカルに発達して九州に接近し、特別警報級の超巨大台風になるとの予報で、衛星写真ではくっきりと大きな目のある雲の渦が画面を覆いつくすほどで、昨年9月22日に竜巻が起こった台風17号と進路も似ていたので、一人で台風対策をして一人で過ごすしかない私は、外回りを対策した後で早々に南側の窓は全てシャッターを閉めたけれど、台風10号は東風が長時間続く予報なのに東側にはシャッターが無くて、本当に怖くて、眠ることも出来ないくらいでした。
もしも昨年の千葉での被害のように、屋根が壊れたりしたらどうしよう。雨が家の中に流れ込んでも、私は途方に暮れて何も出来ないのではないかと。

そんなに怖いなら避難所に行けば?と思われるかもしれません。
私の場合、避難所には行けません。
子供の頃から、修学旅行など集団では眠れなかったし、大人になっても、職場のキャンプでバンガローやログハウスに皆で泊まったり、職場の小旅行で一部屋で数人で寝たりすると、ほぼ一睡も出来ないのです。枕が変わると寝られないとかいうレベルではなく、他人の気配で眠れないのです。静かな一人部屋でないと。

それに、台風の最中に自宅を離れていると、自宅で被害が起きていないか心配でたまらなくて落ち着いていられません。自宅に帰ったら凄い被害を受けているかもしれないという不安を抱えて過ごすよりも、被害が起きるならその場にいる方がマシに思えるのです。
勤務していても、消防車の音を聞くと、留守中に自宅が火事になっているのではないかと不安になりました。
出張などで自宅を数日離れると、帰宅途中、自宅が目に入るまで不安で堪りませんでした。

高機能自閉症(病名としてはアスペルガー症候群らしい)などの自閉症スペクトラム症候群では、不安や恐怖を健常者よりも強く感じるそうです。
その上私は子供の頃から超繊細(五感全て感覚過敏だけれど、五感だけでなく気配にも過敏でした)だから、仕方ないのでしょう。
避難所など集団で過ごすことは、大変な苦痛とストレスになり、子供の頃からよく腹痛や頭痛になったし、とても耐えられないのです。

台風10号では、近所の頑丈な避難所は開設後すぐに定員に達して満員になったと、登録している市の災害情報メールで連絡があり、近くの別の避難所になっている公民館よりもうちの家の方が頑丈だから、よほどの事が無い限り、自宅を離れる選択はありませんでした。

不幸中の幸いで、台風9号が海面をかき混ぜて海水温が下がったために、予想ほどには発達しなかったけれど、超巨大台風であることには変わりなく、昨年のような竜巻は起きなかったけれど、9月5日からの2日間以上に渡って猛烈な東風が吹き荒れ、庭の植栽のほとんどが大変な塩害を受けて、ほぼすべての葉が茶色くかさかさになって落ちてしまい、見るも無残な姿になってしまって、愕然としました。
一歩戸外に出ると、すえたような不快な臭いでいっぱいで、何だろうと思ったら、塩害による枯葉の臭いでした。

昨年の台風17号に伴う竜巻は、台風最接近までは1日くらいあって風雨が激しくなる前に置きました。9月22日朝、時計を見ると8時半、まだ雨風は無かったけれど、そろそろシャッターを閉めようとカーテンを開けて窓の外を見たその瞬間、木の葉や何かの破片が混じった猛烈な東風が真横に走ったのです。不意を突かれて私はそのまま固まってしまいました。ガラス窓越しの眼前で、頑丈なカーポートの屋根がガタガタガタガタと波のようにうねり、今にも壊れて飛ばされそうでした。すぐに竜巻だと分かりました。
この地域は過去に何度も竜巻の被害を受けていて、実は17号の前に接近した台風の対策を外でしていた夕方にも、規模は比較にならないほど弱かったけれど、ほぼ同じような東からの突風が数分間続いたのです。あれも弱い竜巻だったのかもしれないと思いました。

数分後にはぴたりと静かになり、近所の人達が道に出てきたので、私も外に出て「今の竜巻でしたよね」と話に加わりました。日頃そんなに親しくはしていないけれど、近所付き合いは大事だから。見上げると自宅2階の屋根近くの電線には、どこからか飛んできた天津すだれが引っかかっていて、九電に電話しても繋がりませんでした。隣の奥さんが「うちの後ろの社宅アパートは窓ガラスが割れている」と教えてくれて、見ると3階の窓ガラスが割れていた。うちの斜め前の2階建ての家は屋根瓦が何枚か割れていたし、公民館横の2階建て民家は瓦がごっそり飛んでいたし、公民館向かいの2階建て民家も瓦が飛んでいました。
うちでは、ワイヤーで固定していた郵便受けが曲がっていました。カーポートの自家用車のすぐそばには瓦やコンクリートの破片が落ちていて、車に傷が無かったのは奇跡でした。玄関前や2階ベランダや色々な場所に、瓦やコンクリートやガラスの破片が散らばっていて、網戸に破れも見つかったので、瓦が割れた場所があるのではないかと心配しましたが、自宅の壁や瓦はどうやら無事なようでした。
電線に引っかかっていた天津すだれは、その後の強風で庭に落ちてきました。

台風が接近すると、毎年思い出すことがあります。
私が高校3年生の時だったと思うので、もう40年も昔の事です。
今でこそ、台風が接近すると小中学校や高等学校は休校や自宅待機が前日から発表されるけれど、20年くらい前までは、台風でも学業や仕事が優先されていた気がします。

昭和55年ころの9月だったと思います。
台風が接近していて、月曜日に朝起きると猛烈な風雨で、高校からは休校の連絡は無く、父が電話してくれたけれど、休校の予定は無いということでした。仕方なく、私は体育ジャージーに着替えて雨カッパを着て、学校にロッカーが無かったのでパンパンに膨れた重い鞄を青いビニルゴミ袋に入れて自転車に括り付け、制服やお弁当や辞書を入れた重いスポーツバッグも青いゴミ袋に入れて自転車のカゴに入れ、暴風雨の中、日頃でも片道1時間近くもかかる大橋を2つ超えた10km先の高校に向かいました。

ところが、ようやく学校に到着すると、入り口は締まっていて「台風により休校となりました」との黒マジック手書き縦書きの貼り紙。仕方なく、暴風雨の中、2つの大橋を超えて自宅に戻ったのです。

私はその後に高等学校教諭になって自らそういう事態に対応してきたので、その時の学校の対応が私には許せないのです。
たとえ休校が未定であったとしても、未成年である生徒の安全が一番大事であり、「休校になるかはまだ分からないけれど、しばらくは自宅で待機していなさい」と伝えるべきだったと思うのです。
私の両親にしても、「欠席や遅刻になってもいいから、風雨が弱くなるまで登校は止めなさい」と言ってくれるべきでした。両親は、とにかく遅刻や欠席を嫌いました。

翌朝登校すると、学校の窓ガラスが割れていました。新設されたばかりの新しくて頑丈な学校で窓ガラスにも金網が入っていたのに。
当時の校長の決断力の無さ、電話に出た事務職員の融通の利かなさ、担任の生徒への愛情の薄さを感じずにいられず、腹立たしささえ感じてしまうのです。

私が教員になった頃は、台風接近時には前日に休校を決めるか、当日の早朝に緊急連絡網で生徒に休校を連絡するなどの対応が取られるようになっていたけれど、職員は出勤もしくは有給休暇である年次休暇を取るようになっていました。学校が休校になっても、会議や研修などの出張は延期や中止にはならないから、私は、暴風雨でも、豪雪でも、遠く離れた県庁所在地まで自家用車で出張しました。私の住む県は、残念ながら公共の交通機関が不便で、電車を使おうとすると、自宅から駅までと、駅から出張先までをタクシーに乗るしかないので、自家用車を使うしかないわけです。
人権教育の九州大会が本県であった時には、会場の駐車場は他県からの参加者のみ利用可能で、本県参加者は会場から遠い駐車場を使ってそこから歩かなければならず、私は他県から引っ越ししてきて自家用車が県外ナンバーだったので、悪いとは思ったけれど、とにかく物凄い暴風雨だったので会場駐車場を使わせてもらいました。
出張を終えて翌日学校に出勤すると、通学路の電柱が根元から倒れていて、それほど凄い台風だったのでした。

今は、大きな台風が接近して危険が予測できる時には、小中学校や高等学校の休校や自宅待機はもちろん、公共交通機関も事前に運休を発表したりするし、企業や事業者にも従業員を無理に出勤させないようにとニュースで伝えられたりします。勉学より仕事より人命が大事だという意識が広がってきたのは本当に良いことだと思います。

大雨が、ますます激しくなってきました。
自宅付近は、山からも河川からも離れているので、土砂災害や洪水被害の心配はないけれど、台風10号で地盤が緩んでいる地域や雨水が溜まりやすい低地、河川の近くに住む人はさぞかし不安でしょう。それとも、長年住んでいると慣れてしまって不安など感じないという人も多い?
どうかくれぐれも、危険に鈍感にならず、少しでも危険があれば命を最優先して欲しいです。
台風10号による崖崩れに4人が巻き込まれ、しかも、そのうちの2人が、外国からの技能実習生であることが、私はとても辛いのです。

眠くて眠くて2020/09/26

昨日はブログを書けませんでした。

日差しが強くて外に出られなかったし、眠くて眠くて、朝食も米麹甘酒で済ませてしまいました。前の晩に冷凍室から冷蔵庫に移しておいたご飯は、まだコチコチでした。

数日前に「マイナンバーカードの準備ができたので受け取りに来るように」という葉書が来ていて、昨日は行けなかったけれど、金曜日を逃したら週明けしかないので、なんとか金曜日の内に行きたいなと思っていました。

昼食は、午後2時頃に、電子レンジでお味噌汁を作り、塩を振って焼いてチルドに入れておいた鮭とご飯を一緒に電子レンジで温めて食べました。

夕方少し雲が出て日差しが弱まってきたので、市役所が午後5時15分までだから4時半に家を出ようと準備していたら、結局4時50分になってしまい、退社時間と重なって道路が渋滞していて、市役所に着いたのは5時を過ぎていました。

マイナンバーカードの手続きを終えて、マイナポイントの予約もして、帰り道にイオンに寄ってマイナポイントの手続きを済ませて、買い物はせずに帰宅しました。

夕飯は、昼の残りのご飯を電子レンジで温め、半額で買った熊本県産赤茄子を2つきりにして鹿の子に切れ目を入れてグリルで焼いてエゴマ油と鰹節の振り掛け、半額で買った黒豚もも切り落としで生姜焼きを作って食べました。

眠くて疲れて、入浴が深夜2時になってしまい、ようやく寝入った頃、ふと目が覚めて、あれって思っていたら揺れを感じ、それから揺れが激しくなり、「どうか大きな地震じゃありませんように」と思いながらやり過ごし、時計を見たら、今朝の午前4時58分、隣の部屋に行ってTVをつけ、NHKの番組で地震速報を待ったけれど、なかなか速報が出ず、やっと出た速報(震度2)を見て、他所で大きな地震があった訳ではなかったことに安心して、もう一度寝ました。

その後、もう一度目が覚めた時には、もう昼前でした。

また米麹甘酒だけ飲んで、仏壇にお茶とお水と線香を上げて、オカワカメの花が咲いていたのでデジカメで写真を撮って、ニュースなど見ていたけれど、眠くて眠くて。
オカワカメの花はヤマノイモの花に似ているけれど、丸い蕾が開くと花びらがちゃんと分かれていて、白くてとても綺麗で、眠気が覚めたら後日載せます。

コーヒーと素炒りナッツと高カカオチョコレート2粒とミカンと、昨夜の残りの赤茄子と冷奴に鰹節を掛けて食べたけれど、ソファーでTVを見ていたらそのまま寝てしまって、気が付いたら午後3時半で、コーヒーを飲んだけれど、また寝てしまって、次に気が付いたら夕方5時前で、それでも眠くて眠くて。

今日は米麹甘酒くらいしか炭水化物を食べていなかったので、簡単にミニサイズの三色どんぶりを作り、手作りしたプレーンヨーグルトに半額で買ったキウイを入れて少しオリゴ糖を掛けて食べたけれど、眠気は覚めず、まだ食器を洗えていません。

今も眠くてほぼ頭が働いていない状態。
こんなにも眠いのは、やっぱり二次障害の鬱?
私は大学生の頃から、自分の双極性障害に自覚がありました。その頃は躁うつ病と言われていて、自分では、その傾向があるだけで病気と言うほどではないと思っていたし、度々過呼吸などで倒れても病院に行ったことは無かったけれど。

明日はちゃんと朝早く起きて洗濯をして朝食を食べて買い物にも行きたい。

竹内結子さんの死に思う2020/09/27

2020/09/27 17:28撮影 月齢9.6 月出15:25 月没00:40 
朝起きると、TVのデータ放送で天気情報とニュースを確認するのが日課なのだが、人気俳優の竹内結子さんが亡くなり、自殺と思われるというニュースに衝撃を受けた。
昨年結婚して今年出産して、普通に考えれば幸せ一杯のはず。
けれど、もしかしたら、誰もがそう思うことに落とし穴があったのかもしれない。
私には、人気俳優である竹内結子さんの生活や内面は推し量りようも無いけれど、マリッジブルーやマタニティブルーという言葉もある通り、幸せなはずの出来事は、実は大きなストレスにもなる。
周囲に幸せだと思われている時に、悩みがあるとは言いだしにくいだろう。幸せそうに振る舞わなければと思うかもしれない。

私は若い頃からあまりTVを見なかったし、芸能界にそれほど関心は強くないけれど、竹内結子さんというと映画「いま、会いにゆきます」の印象が強い。その印象とは全く違うタフな役柄の主演作もあり、最近TVで目にした時には、何だか痩せて疲れが顔に出ているように感じたけれど、TVのコメンテーターもそんなことは言わなかったので、私の勘違いかなあと思っていた。

最近、芸能人の自殺が多い。
報道はされないけれど、一般人の自殺も再び増加傾向にあるようだ。
平成23年までは毎年3万人を超えていた自殺者数は、自殺防止の様々な取り組みが功を為してか、減少傾向にあったのだが、おそらくはコロナ禍が影響して増加に転じたのだろう。

猛暑の頃には、熱中症による死者が大変な数になった。
2010年以降毎年千人を超えていて、特に熱中症死者数が多い東京都では、8月18日現在の8月のコロナ死亡者9人に対して、熱中症死亡者は10倍以上の103人だったらしい。
   https://www.asahi.com/articles/ASN7W35BNN7KUTIL04F.html#:~:
   https://news.yahoo.co.jp/articles/72168d43c658736ad92e7ae528bf9f77d5e22ff7

新型コロナウイルスによる死者数の合計は、国内とクルーズ船を合わせて本日時点で1,563人。
対して、自殺者の数は、8月だけで全国で1,854人。

熱中症や自殺による死者数は、新型コロナウイルスによる死者数を遥かに超えているのだ。

   ※ 新型コロナウイルスによる死者数は「特設サイト 新型コロナウイルス」による
   https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data-all/
   ※ 自殺者数は厚生労働省のホームページ掲載の資料による。   
   https://www.mhlw.go.jp/content/202008-sokuhou.pdf
   ※ 熱中症死亡者の統計……総務省消防庁
   https://www.fdma.go.jp/disaster/heatstroke/post3.html


コロナ禍で、孤立する人が増えてしまった。
熱中症は猛暑が原因ではあるけれど、自宅や畑や農業用ハウスで亡くなる高齢者の数は、声掛けによって減らせたかもしれない。冷房を付けよう、暑い時間の外出は危険だと声を掛けることで、少しは減らせたかもしれない。

自殺者の数の多さも、コロナ禍による失業で衣食住に困ったとしても、孤立せずに繋がりがあれば、守れた命があったかもしれない。生活に困っていなくても、孤立は人を絶望に追いやるに十分だ。私自身が、孤立により、生きることに何の希望も見いだせなくなったように。


私は、10年前、仕事の傍ら週末に大学で半年間の講習を受け、「地域QOL推進委員」の認定を受けて、「自殺防止フォーラム」にも参加していた。
「自殺防止フォーラム」は、大会を終えた後、形を変えて現在も続いているのだが、私は今は参加していない。その理由は、参加者たちの姿勢と取り組みの方向性に疑問を持ったことと、自殺者を救おうとしているはずの人達からの心無い言葉によって傷付いたからだ。

20年近く教員をしていた間、自分の担任クラス以外の生徒からも悩み相談を受けたし、たくさんの手紙をもらったし、教員を早期退職してからも、たまたま入院した先で同室になった人から悩み相談を持ち掛けられたりした。

自分自身が幼い頃から辛い思いをして、何度も死にたいと思ったから、たぶん心が傷付いている人に寄り添うことができるのだと思う。
私自身が、担任からの心無い言葉に何度も傷つけられたから、私は、どんな生徒も否定せず、頭ごなしに自分の考えを押し付けたりせず、まずはその生徒の話を聞いた。

「話してくれてありがとう。家でもクラスでも辛い思いをしているんだね。いつも傍にいることはできないけれど、私はあなたの味方だよ。私に何か出来ることはある? 担任の先生に私から話してみようか?」
隣のクラスの生徒が放課後に相談に来た時、話を聞き終えて、私はそう言った。
「いいえ、大丈夫です。先生が話を聞いてくれて、味方だと言ってくれただけで気持ちが楽になりました」
生徒はそう答えた。
「辛くなったら、またいつでも相談してね」
私はそう声を掛け、その生徒は無事に卒業していった。

それから10年程経って、私は仕事に行けないほど精神的に苦しくて、なぜ苦しいのか自分でも分からなかったのだが、たまたま近くに精神科の病院があったのでHELPの電話をして、電話の先でも緊急性を察知してくれたらしく、他の患者と会うことの無いように時間を設定されて、すぐに受診できた。

最初の質問はこうだった。
「今いちばん苦しいことは何ですか?」
私は自分でも何が苦しいのか、なぜ苦しいのか、全く分からないままに受診したのだけれど、その質問に、考えるより先に言葉が自然に口から出ていた。
「私は小学校の頃から学校で苛めや仲間外れにあっていて、そのことを両親に言えませんでした」と。

その時の会話を今も詳しく覚えている。ここでは関係が無いから省略するけれど、その精神科医の先生は、傾聴と受容の姿勢を見せてくれて、私は安心して話すことができ、薬が処方された。

その2週間くらい後にも再び受診して、副作用が無い一番軽い睡眠薬も処方された。
「目が覚めないかもしれないと不安だったら、翌日に仕事が休みの週末に試してみてください」
私は、言われた通りに週末に試して、予定時間より遅くに目が覚めはしたけれど、ベッドからずり降りたまま、強烈な頭痛と止まらない吐き気で動けずに、何時間も苦しんだ。

その後、私は養護教諭に相談して、心療内科クリニックを受診することになった。当時の精神科病院は、古びて外壁には雨による黒いしみが流れていて陰鬱で、気軽に受診できる感じではなかったのだ。今ではその精神科病院は明るく開放的なデザインに改築されて受診しやすくなったけれど。

通院し始めた心療内科クリニックの医師は、なぜそんな話をするのか意味不明な漫画などの雑談をしたりした。受診するたびにカウンセラーと話もしなければならず、ある時思い切って誰にも話したことの無い悩みを打ち明けた。
その時のその女性カウンセラーの対応に、私は話したことを後悔した。
「そんな人もいますよ」
私の話を聞き終えて、開口一番それだけだったのだ。
今から20年程前の話で、その心療内科クリニックは、現在は無い。

どんな悩みも、世の中には同じ悩みを抱く人がいるかもしれない。けれど、だからといって救いにはならない。
勇気を出して話した患者(相談者)に対しては、まずは「話してくれてありがとう」だと思う。そして、「ずっと苦しんできたのですね」と、相手の苦しみや辛さに寄り添う。それが無ければ、相談者は、相談した事で何一つ救われない。


話を10年前に戻そう。
参加していた「自殺防止フォーラム」の大会が終了し、その後の会の在り方が、定例会を続けて検討されたのだが、誰もが自由に集える場所づくりの方向で話が進んでいた。
私は、そこに集って仲間ができた人の自殺防止にはつながると思うけれど、既に深刻な悩みを抱えている人は、そんな場所には行けないし、自殺を考えている人は自分の心を隠して普段通りのように振る舞うと伝えたけれど、耳を貸しては貰えなかった。
定例会議参加者の大半が、別の公的な役職を持った人達で、悩みを抱えて死すら思う人に本当に心から寄り添おうとしているようには、私には思えなかった。

私は当時、認知症の疑いのある母と同居しはじめて間もない頃で、仕事もしていたし、夕食後に定例会議に参加するのは簡単ではなかった。ある日、会議場所変更のメールがあり、私は慣れない場所の駐車場の入り口が分からずに、時間に遅れてしまった。
「ふつう入り口が分からないなんて有り得ないでしょう?」
冷たく投げつけられた言葉。
ああ、やっぱり、この人達は、肩書のために活動実績が欲しいだけの人達なんだ、そう思った。

その後から、私はその定例会に行けなくなった。集いの場所も決まり、名称も決まって、その都度メールで連絡は来たけれど、私は一度も行けていない。親しくなった人達が、ワイワイガヤガヤ楽しんでいる中に、傷ついた心でどうして入って行けようか。

子供や芸能人の自殺が報じられるたび、一人で悩まずに「いのちの電話」やLINEなどに相談するようにとコメントされる。
けれど、例えば「失業してお金が無くて衣食住に困っている」とか、「虐待を受けているから保護して欲しい」とか、具体的に話すことができて何らかの対処ができそうな悩みならば、助けを求めやすいかもしれないけれど、悩みの多くは、簡単に話せるような内容ではないと思う。
深刻であればあるほど、家族や友人も含めて他人には話しにくい。多くの場合、話しても分かっては貰えないと思っている。
実際に相談したのに、軽く受け流されたとか、逆に説教をされたとか、苦い思いをした人もいるだろう。

私は、小学校、中学校、高校と、学級担任でさえ寄り添ってはくれず、話を聞こうとさえしてくれず、放置された経験がある。
目の前に居るプロのカウンセラーに話してさえ後悔したことがある。発達障害者支援センターに電話をした時も、あまりに事務的な対応に、1か月先の予約を取って相談しに行きたいという気持ちにはなれなかった。地域包括支援センターに電話をしても相談を拒否されたし、障害者就業・生活支援センターでは心無い対応をされた。
社会のシステムは、昔に比べれば、共生へと進んでいるけれど、そのシステムを運用するのは人間であり、人は必ずしも優しくは無いし、自身が苦労をしてまで見知らぬ誰かに寄り添おうとはしてくれないことの方が多い。
そんな経験から、顔も見えない、どんな人かも分からない人を信用して、いきなり悩みや苦しみや辛さを相談したりなんて、私には、もうできない。だから、私からも、見知らぬ人に、「気軽に相談してね」なんて安易には言えない。

一人で苦しんでいる人の重荷を、どうしたら軽くしてあげられるのだろう。
話だけでも聞いてあげたい。
解決策は提示できなくても、一緒に考えてあげたい。
心からそう思う。

大人はいつも頭ごなしだった2020/09/28

私には物心ついた頃からの詳細な記憶が、映像と音声でビデオのように鮮明にある。
宴会や会議での会話や日常の会話も、音声付き映像で脳内で再現できるし、TVや映画も、暫くの間は脳内でほぼ再現出来て、その事を特別だとは思っていなかったけれど、十年くらい前、もしかして私の記憶力は普通ではないのかもしれないと気付いた。

膨大な記憶というのは、全く役には立たない。フラッシュバックに苦しむだけだ。
眠れない夜は特に困る。
多くの人が時間と共に忘れていく気まずい記憶も、私は記憶が薄れることがないので、目の前の相手がすっかり忘れていても、私の胸にはその人に辛い思いをさせられたことが刻まれている。相手に合わせて忘れた振りでもしなければ、社会生活も難しい。

大人は、幼児の頃は物が分かっていないし、記憶はすぐに薄れて忘れてしまうと思っているようだけど、私には、2,3歳頃からの記憶がある。幼児は、ただ表現して伝える術を持っていないか、その術が拙いために、幼児がまるで何も考えていないかのように大人は誤解するのだ。

私が初めて知った哀しみは、3歳くらいの事だった。
当時の私は、父の勤める会社の社宅アパート南8棟の西端2階に住んでいて、アパートとアパートの間には広い緑地があり、小さい子達はその片隅でママゴトなどして遊んでいた。他の子達は、赤や青や綺麗な色で塗装されたブリキの台所セットなどを持っていたりした。私は今もそれを鮮明に覚えている。
その中の一人が、同じアパートの最上階に住んでいることが分かって、私は翌日に一緒にママゴトして遊ぶ約束をした。私のママゴト道具は、姉のお下がりのオレンジ色のプラスチック片手鍋の折れた持ち手を絆創膏でつないだものや、母の資生堂化粧品の空きビンなどしかなかったけれど、それらを古いビニルのテーブル掛けに包んで抱え、コンクリートの階段を最上階まで登った。けれど、約束したのに、その子は遊びに行って居なかった。私は、次第にほどけていく包みを引きずって階段を下りたけれど、途中で、黒い蓋の白い資生堂の瓶が一つ、また一つ、包みから零れて落ちて、コンクリートの階段で粉々に割れた。
私は泣きながら自宅に帰りつき、「約束したのに居なかった」と訴えたのだが、母は「そんなことで泣かんでいいが」と言っただけだった。私の哀しみは分かって貰えなかった。初めて裏切りに会った哀しみ、みすぼらしくても私にとっては大事なママゴト道具が割れてしまった悲しさ、気持ちを母親に分かって貰えないもどかしさ。私が母親だったら、「辛かったね」と抱きしめてあげるのに。

5歳の頃、深夜過ぎに母に起こされ、「じいちゃんが死んで、ばあちゃんが、おーい、って呼んだからばあちゃん所に行くよ」と言われて、父の運転する軽自動車で祖父母の家に行き、それから後の約1年間は父の実家で暮らしたのだが、幼稚園に入る直前、説明会に行った母が、近所で同じ幼稚園に通う女の子の名前を教えてくれた。
「ア○○○ミ○○ちゃん、ア○○○ミ○○ちゃん」
私は、その名前を何度も声に出して覚えた。今も覚えている。その子の顔も覚えている。

母がその子の家に連れて行ってくれて、私はすぐに場所を覚え、翌日に一緒に遊ぶことになった。母は、迷惑をかけるから家には上がらずに外で遊ぶことと、夕方4時には絶対に帰ることを約束させた。
私は、母に言われた通りに、ミ○○ちゃんと庭で遊んだけれど、時間が気になって仕方なかった。外では時間が分からない。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
けれども、暫くするとまた気になった。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
どれくらいで4時になるのか分からない私は、気になって気になって、また訊いた。
「小母ちゃん、4時になった?」
「なってないて何回言えば分かるとね!!!」
私は小母ちゃんに怒鳴られ、怖くてすぐに帰宅した。

幼稚園に通い始めて、ミ○○ちゃんとはクラスも別で、その後一度も一緒に遊んだことはない。あの時に小母ちゃんに怒鳴られた声と表情、心に刻まれた恐怖は今も忘れることがない。

5歳の私は時計は読めたけれど、庭では時計は見えない。小学校2年生くらいになっていれば、「小母ちゃん、4時になったら教えてね」と言えただろうけれど、まだ幼稚園に通う前の5歳児の私には、そこまで気は回らなかった。
母も悪い。「4時になったら帰りなさい」って、5歳児がどうやったらそれができるというのか。ミ○○ちゃんの小母ちゃんだって、「そんなに気にせんでも、4時になったら教えてあげるよ」と言ってくれれば良かったのだ。

幼稚園は、スクールバスなどは無く市内バスで通わなければならなかった。定期券もしくは片道10円往復で20円の運賃を幼稚園カバンのポケットに入れて、一人で歩いてバス停に行き、他の園児と一緒にバスに乗って幼稚園に行き、帰りもまた市内バスに乗って、バス停からはまた一人で歩いて帰る。
母はしつけに厳しくて、小さな子供がよく座席に後ろ向きに乗って外の景色を見ているのを指して、座席を靴で汚すから絶対にしてはいけないと言った。だから、私は絶対にしなかった。けれど、当時の降車ボタンは大人に合わせた位置にあり、幼稚園児の私には、座席に膝をついて手を伸ばして押すしかなかった。ある日、そうやって降車ボタンを押そうと手を伸ばした途端、隣に座っていた見知らぬおじいさんに、いきなり無言でふくらはぎを強くつねられた。とても痛かったけれど、私は声も上げられずに、降車ボタンを押して慌ててバスを降りた。
見知らぬおじいさんに無言でふくらはぎをつねられたことは、帰宅しても母に言うことができなかった。きっと、母がしてはいけないと言っていたのに座席に後ろ向きに膝をついたから、おじいさんは罰として私をつねったのだと思った。でも、あまりにも理不尽。そうしなければ降車ボタンを押せなかったのに。

幼稚園の同じクラスに、家は少し離れていたけれど同じ町内の活発な女の子がいた。
実を言うと、私は可愛かったらしくて、男の子達が私を隣に居させたがったけれど、私にはその自覚もなく、大人しくて口数も少なかった。その活発な女の子は、登園すると貼ることになっている出席帳のシールを、翌日の分まで貼るように私に迫った。
「明日の分まで貼らないと、もう遊んであげない」
いつもは出席帳を見せろと言わない母が、その日に限って見せるように言った。翌日の分までシールが貼ってあるのを見て、母は火のように怒った。
「だって、そうしないともう遊ばないって言われたんだもん」
泣きじゃくりながら答える私に、母は火のように怒ったまま言った。
「そんな子とは遊ばんでいいと!!」
私は、母の事がとてもとても怖かった。
翌日の分までシールを貼ったのは良くない事だけれど、烈火のごとく叱りつけるほどの事ではない。大人になって、そう思った。相手は6歳の幼児。穏やかに言い聞かせれば済むことだったのにと。

母はその後もちょっとした事で頭ごなしに怒った。
小学2年生の頃、学校の先生から、いらなくなった色々な色のチョークをもらった。私は、父からもらった板切れにそのチョークで絵を描いて遊んだけれど、黒板消しが無かった。押し入れの中に、大きさも厚みも丁度良さそうな物があるのを知っていたので、それを一つ持って、台所で夕飯の支度をしている母に訊きに行った。
「これ、黒板消しに使っていい?」
母は、いきなり烈火のごとく怒った。
「あんた、何言よるとね!!!」
何年も後に知ったのだが、私が手にしていたのは生理用ナプキンだった。けれど、幼い私はそれを知らなかったのから、頭ごなしに怒鳴ることは無かったのにと思う。
母は、私が大人になっても、自分の意に沿わないと途端に声を荒らげた。

私は、祖母からも頭ごなしに怒られた。
幼稚園の頃、父方の祖母と住んでいた。祖母は手間仕事に赤ちゃんの子守を請け負っていた。可愛いクミちゃんという赤ちゃんが、ベビーパウダーの缶のふたの絵にそっくりだった。
「婆ちゃん、見て見て、クミちゃんにそっくりだよ」
祖母は返事さえしてくれず、私は、可愛いクミちゃんがベビーパウダーの絵にそっくりだと祖母に伝えたくて、ベビーパウダーをクミちゃんの顔に近づけた。けれど、私も5歳だったので力加減がくるい、缶がクミちゃんのほっぺに軽く触れてしまって、クミちゃんは火が付いたように泣き、祖母は私を怒鳴りつけた。
けれど、今思うに、私は何も悪くは無かったと思う。祖母が最初から私の声に耳を傾けて「あら、本当じゃね。そっくりじゃね」と言ってくれていたら、一緒に幸せに笑えるはずだった。

祖母は、実の孫なのに私に厳しかった。
ある日、母が彼岸の団子を作った。昔の事で、ご飯や団子は、ショウケという手提げの柄と蓋のある大きな竹籠に入れていたのだが、「はい、祖母ちゃん」と私が一つ祖母に渡して几帳面に蓋をしめた事が祖母の逆鱗に触れた。
「なんと意地の悪い子じゃ。1つしかくれんで蓋を閉めた」

小学生の頃までは一緒にバドミントンをして遊んでくれていた父も、ちょっとしたことで不機嫌になったから、いつ機嫌を悪くするか分からなくて、私はいつもビクビクした。

ある日、シャックリが全然止まらなくて、近くに居た父に「お父さん、シャックリが止まらないから、驚かせて」と頼んだ。
その途端に、父は「こらあ!!」と大声を上げた。
私は、自分が変な事を言ったので父が機嫌を悪くして本当に怒ったのだと思い、恐怖に縮み上がった。
「どうや。止まったじゃろが」
父は怒った振りをしただけだと分かって安堵し、シャックリも止まっていた。
学校が休みのある日、父と母は、浜に流れ着く薪を拾いに行っていた。風呂を沸かすのに薪を使っていたからだ。私は姉が買ってもらったステレオを聞こうとしたら、音が出なかった。
浜から帰ってきた父に「お父さん、ステレオの音が出ない」と言ったら、いきなり怒鳴られた。
「お父さんは疲れて帰ってきたばかりじゃろが!!!」

夕飯の時は、機嫌が悪くて一言の会話もない重苦しい夕飯が珍しくなかった。
学校の図書室で借りたお菓子作りの本を見て「バナナのパイ包み焼き」を作り、会社から帰宅して食卓に着いた父に出した。甘い物が好きな父は喜んでくれると思っていた。
「へねよな物は作らんでいい!!」
テーブルの上のお皿の上で、父に見向きもされず、ただ冷めていく「バナナのパイ包み焼き」。
父は、ただの一口も食べてはくれなかった。

私は大学を選ぶとき、父がお金にうるさいので、教育特別奨学金があって学費も安い国立大学教育学部を選ぶしかなかった。家からは遠く、アパートを借りる人もいたけれど、私は、古くて二人部屋で食事も自炊の、月6千円の安い女子寮に入るしかなかった。

私は幼い頃から洋服もスクール水着も中学の制服も姉のお下がりで、私服は殆ど持っていなかったし、授業で使う教科書やノート、食器や鍋、肌着から通学用の私服や靴、米や味噌や牛乳や肉や野菜や全ての食料品も自分で買いそろえなければならなかったのに、ひと月に4万円以上を通帳から引き出すと、父から頭ごなしに怒られた。4万円のうち3万7千円は奨学金なのに、帰省したりするたびに、父は、私がお金を使いすぎるとうるさく言った。
「荷物は風呂敷ひと包みあればいいと!!!」

両親が寮に電話してくることは殆ど無かったし、寮に来たのも数回だけだったけれど、私が帰省するたびに父から怒られるので、私は帰省したくなくなって、アルバイトばかりしていた。自宅通学の級友たちが遊んでいるのを見かけることもあり、アルバイトに明け暮れるしかなくて辛かったけれど、そうしなければ食費も十分にはなかった。
大学生協には安い定食もあったけれど、私にとっては高額だったので、殆ど利用しなかった。昼は寮に帰ってインスタント袋ラーメンを食べたし、夕ご飯も刻みキャベツにフイッシュバーグを1㎝幅くらいに切って3枚をフライパンで焼いてマヨネーズとケチャップを塗ったものをよく食べた。お金が無くなった時には、残っていた小麦粉と砂糖と卵で得意のホーットケーキを焼いて翌月までの1週間を食いつないだ。

「お金が無かったら、お父さんにそう言いよ。親に甘えるのも親孝行ってものよ」
寮の同室の先輩に、そう言われたけれど、それは叶わぬ夢だった。

父親というものは、娘を目に入れても痛くない程可愛がると、よく耳にする。けれど、少なくとも、父は私にそんな愛情は示してくれなかった。父にも母にも、私は甘やかされたことが無い。
私は勉強は出来たし、大人しくて従順で反抗期も無かったし、一体何が不満で両親は私に厳しかったのだろう。

私は、慣れない寮生活を始めて数か月で48㎏から43㎏にまで痩せたけれど、子供の頃から小食で標準より痩せていた為か、誰からも心配されなかった。その後は、ストレスからか、甘いものを我慢できなくなった。お徳用チョコレートや袋菓子など、途中で気持ち悪くなっても、目の前にあるものを全て食べてしまうまで、止めることが出来なかった。
無意識に左手で髪を引っ張って抜いてしまった。すぐにゴミ箱一杯抜いてしまったが、元から髪の量が多かったので、傍目には気付かれなかった。

女子寮ではアルバイト苦学生は私だけではなかったし、高額なアルバイト料が貰える家庭教師は英語と数学が苦手な私には無理だったし、女子寮や学生課にたくさんのアルバイト案内があったから、私は、日教組大会の書記、食品の店頭宣伝販売、蚤の市の販売員、デパートの食品フェアー販売員、食堂や喫茶店のウエイトレス、書店の雑用など、様々なアルバイトをした。真面目な仕事ぶりで手際も良かったので、アルバイト先には毎回気に入られ、一度アルバイトを受けると、二度目からは直接名指しで依頼があった。連休も夏休みも冬休みも春休みも、帰省せずに幾つものアルバイトを掛け持ちした。
女子寮に居たので、都合が悪くなった他の寮生のアルバイトの助っ人を頼まれることも多く、ビジネスホテルの客室清掃、公文式教室、日本料理店の皿洗いなどもした。毎晩書店で雑用のアルバイトをしていた時には、名指しで土日のデパートでの試食販売を頼まれ、仕方なく、試食販売のバイトを終えてパンをかじりながら自転車で書店に移動した。アルバイトのし過ぎで勉強できず、2回生に進級するときに3つ単位を落とした。

ある日、学生課に小学生の姉弟の住み込み家庭教師の募集があった。夢見がちな私は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に憧れて面接に行った。ご両親が不動産業と夜の仕事をしているために、夜に子供たちと一緒に居て勉強を見てくれる住み込み家庭教師が必要なようだった。
私は、父にお金の事を言われるのが嫌だった。朝夕二食付きでアルバイト料も貰える住み込み家庭教師なら、寮費も食費も助かるし、掛け持ちでアルバイトをする必要も無くなるし、父に文句を言われなくて済む。

けれど、3日目に朝起きて台所に行くと、子供たちのパンと飲み物はあったけれど、私の分は無く、私を見た奥さんは何も言わなかった。私の朝食はもう準備されないのだと知った。私は子供たちの勉強を見るのに色々工夫もしたし、お風呂にも入れたし、ある日夕食後に奥さんが忙しそうだったので食器洗いを申し出たら、それ以降、全員分の食器洗いを一人でするのが私の仕事になってしまったけれど、黙って頑張った。
夕食の準備も手伝ったし、「今日は私がグラタンを作ります」と言って、全員分のグラタンを作ったこともあったし、クリスマスにはケーキも手作りした。私は土日も自由にはならず、頼まれて子供たちを映画に連れて行ったこともある。
ある日、食事の準備が出来たのに、何かで忙しいらしく、1時間経っても夕飯にならなかった。私は試験前で時間が惜しかった。
「試験勉強があるので、先に夕飯を頂いては駄目ですか?」と訊きに行った。
「ここに住んじょる以上あんたも家族と同じじゃろが!! 一人だけ先に食べるとか、そんな勝手が許されると思うのか!! 勉強があるなら勉強しときなさい。後で呼びに行く」
私は頭ごなしに怒られて、涙が出そうになった。
けれど、ある日、風邪を引いたらしく熱で起き上がれず、夕飯の時間に階下に降りられずに布団で寝ていたら、奥さんが部屋の前に来て「何故降りてこんの?!」と言うので、「すみません、熱で食欲が無いから夕飯はいりません」と言ったら、「それならそうと先に言わんと分からんでしょう!!」とまたも頭ごなしに怒られ、少しの心配さえしてもらえなかった。

私は家庭教師として子供たちが意欲をもって勉強するよう色々工夫し、子供達は懐いてくれたけれど、本来仕事には含まれていない家事も担い、土日もほぼ外出できず、気を遣うばかりで、まるで明治大正時代の奉公人のようだった。
映画やドラマでは、他人であっても本当の家族のように思いやり、互いに深い絆が生まれていくけれど、所詮はフィクションなのだと私には思える。

女子寮でもちゃんと自分で朝ご飯を作って食べていたのに、朝食抜きが毎日当たり前となってしまい、大学の健康診断で私は初めて貧血と診断された。精神的にも追い込まれ、再び髪を引っ張って抜くようになっていた。ラジオで、それが自傷行為と呼ばれるものだと知った。無意識に引っ張って抜くので、自分では止めることが出来なかった。

心身ともに限界となり、半年ほどで住み込み家庭教師は止める決心をして、「自宅から電車で通うので来月一杯で止めたいと思います」と伝えた。
「もっと怖い大人の家庭教師を雇わないかんね」と言われた。
引っ越しの日、義理の兄がトラックで荷物を運んでくれたけれど、家庭教師先のご夫婦は起きて来ず、手伝いどころか挨拶も見送りも無く、最後の月のアルバイト料も貰えないままだった。

女子寮に居る頃はどんなバイト先でも雇い主からは気に入られたのに、なぜそんな扱いを受けなければならなかったのか、全く分からない。小銭が落ちていたって盗んだりしなかったし、朝ご飯が無くても文句も言わずに、最初の条件に無いことまで快く引き受けて、どんなことも一生懸命にやったのに、病気で寝込んでいる時さえも、その事を頭ごなしに叱られるような、そんな理由が全く分からない。

他人は仕方がないとしても、ただ一人の祖母(母型の祖父母は私が生まれた頃には亡くなっていて、父方の祖父も私が5歳の時に亡くなった)にも、冷たくされ、謂われ無く頭ごなしに叱られていた私。
私には背中と左手首の甲に傷跡があり、アイロンの火傷痕と教えられた手首の半月型の変色は、成人しても濃くくっきりと人目を引いて、同僚や生徒に、それは何?と訊かれることもあった。もしかしたら幼い頃に虐待があったのではないかと思う。
今でも思う。無邪気に両親や祖母に甘えて、抱きしめてもらいたかったと。

大学の卒業式を前にして、私は「来なくてもいいよ」と電話した。父は血圧が高く、女子寮に両親が訪れた帰りに父が倒れた事もあり、私は父の健康を気遣って遠慮したのだ。
来て欲しくなかったわけではない。けれど、両親は本当に私の大学卒業式に来なかった。

私は晴れ着も無く、自分で縫ったチャコールグレイのテーラードスーツを着たけれど、他の学生達は、振袖や袴の晴れ着で着飾り、両親と一緒に記念写真を撮ったりしていた。私にとって、卒業式は晴れの日でも何でもなかった。

今思えば、若い大学時代にはもっと青春を謳歌すべきだったと思う。けれど、私に出来たのは、毎日を必死に藻掻きながら、どうにか生きていくことだけだった。
いつも、どこか遠い所に行ってしまいたかった。死を夢想して詩を書き綴り、風のように自由になることを夢見た。
詩を書くことをしなかったら、心は行き場を失い、本当に死んでしまったかもしれなかった。

カネ恋が見られない2020/09/29

芸能人の自死(10年以上前から、自殺ではなく自死と呼称すべきだという考えがあります)が続き、一般人でも増加していて、心が痛いです。

私は外出もしないし、訪問者も無いし、TVを低音量で毎日ほぼ点けっぱなし状態ですが、番組の合間にドラマの番宣映像が流れますよね?

 「おカネの切れ目が恋のはじまり」の番宣映像が辛いのです。

三浦春馬さんが命を削った遺作だから、お蔵入りにならずに放送されているのはとても良い事だと思います。
けれど、私は、番宣映像だけでも辛くなるので、見ることが出来ないのです。
私は三浦春馬さんの私生活を知らないし、どんな悩みを抱えていたのかも分からない。けれど、悩みを抱えながら演技していた事だけは確かだろうから、ドラマがコメディだけに、人と会う為に自分のテンションを上げ、演技では更にハイテンションを期待されて、どんなに大変だっただろうと、甚だ勝手ながら、そう思わずにはいられず、涙が出てしまうのです。


私は、子供の頃に連載が始まった美内すずえ先生の「ガラスの仮面」を見て演劇に興味が沸き、それ以前から自分で物語を書いていて、摩耶ちゃんに負けず劣らず物語に対して好奇心が強く、想像力も底無しだったので、いつか演劇をやってみたいなぁと思っていました。

私は超内気で大人しく、小学生の頃から先生に「声が小さい、引っ込み思案、消極的」等々言われていたし、体力もなく、疲れやすくて、度々病気をしたり倒れたりもしたけれど、音楽の授業や合唱クラブで皆で声を合わせて歌う時や、家で姉のピアノ伴奏で歌う時には、大きな声を響かせて歌うことができました。
学校のお楽しみ会寸劇や文化祭では脚本を書き、創作ダンスでは、その表現力に、皆から「役者じゃあ!」と言われ、保育系短大入学試験では、初めて聴く音楽で即興で創作ダンスを踊ると言う実技試験に真っ先に手を上げ、脳内で組み立てた通りに踊って合格しました。

声が小さいという短所も、大学時代に経験した様々なアルバイトを通して、人前で大声を出すことにも慣れていきました。
教育実習での最初の授業は散々だったけれど、県の教員採用試験に合格できずに恩師の紹介してくれた他県の私学に採用された時の新人研修では、体育館のステージ上からマイク無しで、体育館最後部に立つ教頭に聞こえる声で決意表明演説をする最終試験にも、一度で合格しました。
だから、演劇をやってみたい、やればできるのではないか、という気持ちは、ずっと消えずに心の中にあり、高等学校教諭の仕事を早期退職した後、地域に劇団が出来たことを知った時、迷ったけれど入団したのです。
「やらずに後悔するより、やって後悔した方が良い」という、良く耳にするフレーズに後押しされて。

発声練習に早口言葉、セリフの読み合わせ、ストレッチ……、どれも楽しかった。
劇団を主宰するのは郷土出身の高名な演出家の先生で、その先生が戯曲教室も始めたので、私はそれも受講しました。
一通りの理論講義を終えて実技になった時、私は溢れ出るイメージを次々に戯曲にしていきました。
けれど、先生には、「(月)さんの場合、イメージがあり過ぎるのが欠点になっている」と言われてしまいました。

その後、その先生の門下生である若い演出家のもとで第1回の公演をすることになり、チェーホフ短編集の幾つかを上演すると言われて、私はその中の1つの主役をすることになりました。
セリフは直ぐに覚えて、稽古の時には、セリフを忘れた他の出演者にセリフを教えることも度々だったけれど、役者というのは、思った以上にストレスフルでした。

私は既に40歳を過ぎていて人生経験もあり、20歳代半ばの若い演出家の解釈には納得できないことも多くありました。
何度演じても違うと言われ、しまいには手本を見せられました。
「この場面での主人公の気持ちを考えると、その口調や動作は、私には不自然に思えるのですが?」
けれど、若い演出家は耳を貸してはくれませんでした。
「演出家は俺だから」
それ以上は何も言えませんでした。

役者は、ただ演出家の言いなりに操り人形のように演じなければならないのか。舞台は演出家だけのものではなく、役者と一緒に作り上げていくものではないのか。
演出家の演出に口出しするのは良くないのだろうけれど、プロではなく船出したばかりの民間アマチュア劇団であれば、演出家のごり押しではなく、役者の想いも汲み取って、互いに擦り合わせていくべきではないのか。
私は熱意を失って、全く楽しく無くなりました。

けれど、演目は喜劇だったので、どんなに意気消沈していても、テンションを上げ、舞台演劇特有の抑揚で、オーバーアクションをしなければなりません。
それは大変な疲労を伴い、少しも楽しむことが出来なかったけれど、公演を終えるまでは投げ出すわけにはいかなかったから、私は私を捨て、演出家の言いなりに演じました。
他劇団から客演の先輩役者達からは、演劇未経験者なのに短期間で物凄い成長ぶりだと称えられました。

公演1週間前の初めてのリハーサルの時、ステージに出た途端に頭が真っ白になり、セリフも何も空っぽになってしまい、以降、本番でも同じように頭が真っ白になったらどうしようと、そればかりが心配で、四六時中台本を読んでいなければ落ち着けませんでした。

本番前のゲネプロの時、私は心臓がバクバクしていましたが、自分を切り離して役になり切ることにしました。
心の中は静かになり、舞台や客席の隅々まで見え、ゲネプロで緊張して出やセリフを忘れた他の出演者に教えることさえ自然にこなし、本番の幕が上がっても全く緊張せずに、観客一人一人の表情を見る余裕さえありました。
けれど、幕が下り、湧き上がる歓声の中で、達成感も感動も喜びも私にはありませんでした。
客演の先輩役者にその事を話しましたが、「自分を無くして役になり切れるなんて、初演なのに凄いじゃない」と言われ、私の虚しさは分かっては貰えませんでした。

打ち上げで一人一人感想を言うことになって、本心は「これでやっと劇団を辞められる」だったけれど、さすがにそれは言えません。
「初めてのリハーサルでは頭が真っ白になって、どうしようかと思ったけれど、無事に終えることが出来て、とても良い経験ができました。ポスターとプレゼントと衣装の仕事も頑張ったので、良い思い出ができました」
すると、演出家がポロリと言ったのです。
「仕事らしい仕事は何もしてないじゃん」

私は自分の特技を生かし、演出家も含めた劇団員全員の似顔絵を描いたポスターを作り、来場者へ渡すお土産の絵葉書も全て描いたし、予算の無い中で、自分や劇団員の持ち合わせの衣類からイメージに合う衣装を考えて準備したのに、信じられない一言でした。

私は演劇には向かないな、そう分かって、暫く後に止めました。
直ぐに辞めなかった理由は、劇団の会計の仕事も担っていたからです。
劇団を辞めた後も、差し入れに行ったり、時代劇をするので着付けをしてほしいと頼まれれば、私は子供の頃から自分で着物を着ていて着付けが出来たので、もちろん無償で手伝いにも行ったけれど、もう劇団には戻りませんでした。

後に自身の高機能自閉症が分かったので、元から自分には役者は向かなかったのだと思いました。

実際に芸能界で活躍されている俳優の方々の気持ちが、僅かな演劇経験しかない自閉症の私に分かるはずはありません。
けれど、「カネ恋」を見ようと思っても辛くて見らないのは、どうしようもないのです。

芸能人に限らず、きっと多くの人達が、本当の自分の気持ちを隠して、表面上は元気そうに社会生活を送っていると思います。
裏表なく本当に元気でパワフルな人も多いでしょうけれど、そうではない人も沢山居るはずです。

生きることは、本当に楽じゃない。
なぜ人間は、こうも複雑に作られてしまったのだろうかと思います。

やる気も感情も気持ちの浮き沈みも、神経伝達物質の作用によるものらしい。自分の意志とは関係なく、アドレナリンやドーパミンやセロトニンなどの化学物質が私たちの感情をコントロールしていて、それらの投与は治療や違法なドーピングにも用いられたりするようです。

人間は、とても哀しい生き物のように思えます。