梅の花にメジロちゃん💗2021/02/13

梅の花の蜜を吸いに来るメジロちゃん
ずいぶん長くお休みしてました。

年末から鬱になり(二次障害の双極性障害で)、1ヶ月ほど無気力が続いて、小説の執筆もぱたりと止まってしまったくらいで。
好酸球性副鼻腔炎が悪化して、喘息の発作も出て。

そんな中で、久しぶりの明るいニュース🥰

節分の日に庭の梅が一輪咲き、数日後に花数が増えると、メジロが蜜を吸いに来るようになり、超かわいい💗 

毎朝10時頃に来るようですが、花から花へとちょこまか飛び移り、カメラを構えても上手く撮れません。蜜柑🍊でも刺しておくと、少しはじっとしていてくれて良いのは分かっているのですがね。

昨日の朝、鳴声に気付いて慌ててガラス窓越しにデジカメの望遠で撮影。
次はもっとうまく撮りたいな。

ヒヨドリが来るとメジロは逃げてしまいます。
甘い金柑を狙って金柑の木に被せたネットに侵入しては出られなくなって大騒ぎするヒヨ。
仕方なくネットを開けて出してやろうとするのに、バタバタと上へ上へと逃げるので出られない。下の隙間から入ったくせに、おバカです。

ヒヨ君、メジロちゃんを脅かさないでね。

今朝は、雨でメジロは来なかったけれど、雨を物ともせずにヒヨドリは梅の花に飛んできて、騒ぐ鳴声に窓を開けたら逃げていきました。

1都3県緊急事態宣言はザルで意味がない2021/01/07

私は、昨日も今日も朝がなかなか起きられず、自閉症スペクトラム障害二次障害の双極性障害の鬱で一日中眠くて思考停止だし、好酸球性副鼻腔炎が少し悪化して頭痛はするし、喘息の咳は出るし、最悪の状態。

それでも、ブログを書こうとしているのは、今朝、10時半に起きて、TVのニュースを見たら、呆れて我慢できなくなったから。

私は、度々、政府のやり方を批判してきたが、約1か月前の12月2日にも、「新型コロナ、政府への提言」として以下のような内容を書いている。

「65歳以上の高齢者と基礎疾患のある人のGo To トラベル停止または自粛というのは、本人たちの感染を予防する意味しかない。若い人たちがGo To トラベルによって移動すれば、移動した先で感染拡大を引き起こす。その対策は全く考えられていない。」

結果は、その通りとなった。
首都圏の感染爆発は止まらず、Go To トラベルで来県した若い世代を発端にした感染爆発が止まらず、我が県では、日々感染者数最多を更新し続けている。1都3県に次ぐ感染爆発で、昼にはとうとう県独自の緊急事態宣言が出された。

実は私、こうなる前の昨日、ニュースを見て泣いたよ。
現実に起こっている事態が、あまりにも恐ろしいので。
欧米諸国に比べれば、まだまだ少ないと高をくくっているのかもしれないけれど、世界最高水準の医療機器や医療技術を持ちながら、実は医療体制が極めて脆弱であることを、多くの人は知らないのだろう。
日本は、過去のサーズなどの感染被害を幸運にも免れた為に、医療体制が見直されないまま、新型コロナウイルスに向き合わなければならなくなったのだ。

国は、この期に及んでも、まだ甘い考えを捨てきれていない。1都3県の緊急事態宣言と言ったって、飲食店を含む営業時間の短縮(午後8時まで)で1都3県の住民に外出自粛を要請する一方で、県をまたぐ移動は制限しないと言う。
アホですか!!!!
県をまたいで他県の営業している店舗に行くに決まってるじゃないですか。
いい加減に、自粛要請じゃなくて、強制力を持つ実行力を持つ政策を打ち出してくれないと、本当に大変な事になるよ!!!

私がブログに何を書こうと、政府には届かないのは分かっている。
私が不甲斐なく思うのは、私程度でも分かることを、政府のブレーンが分からない事だ。或いは、ブレーンは分かっていても、政権側が聞く耳を持たないか。
おそらく後者だろう。いくら何でも、私程度で分かることを、政府のブレーンが分からないはずは無い。

ザルでしかない1都3県の緊急事態宣言は、あまり意味がなく、大した効果はないだろう。
効果が現れるにしても、物凄く時間がかかるはずだ。1ヶ月程度では何も変わらない。感染者も死者も増え続けるだろう。軽症と判断されて入院も出来ずに自宅やホテルで急変して無くなる方も、現時点で少なくとも120人らしいけれど、もっと増えてしまうよ。

順番を間違っているよ。
顔色を見ながらじわじわ初めて、状況を見て後から厳しくするつもりなら間違いだよ。
一気に厳しい政策を出して、状況を見て少しずつ緩めるのが正しいやり方だよ。

政府よ、もう一度真剣に考えて欲しい。
今成すべきは何かを。

新年おめでとうございます2021/01/01

新年おめでとうございます
コロナ禍だし、あまりおめでたくはないと言う方もおられるかもですね。
私自身も全然おめでたくはないけれど、地球が無事に新年を迎えられたことに感謝を。

変異ウイルスの猛威もあり、感染拡大に歯止めがかかりませんね。医療従事者の皆様の捨て身の努力により何とか持ちこたえられていることに、心からの敬意を。

ワクチンも次々に承認を受けて、日本でも2月から接種が始まるとか。
特異体質の私はワクチン接種は無理ですが、
ワクチンの効果で一日も早く今の状況が改善され、世界中の人達が、安心して楽しい日常に戻れますように。

私の母は要介護5となって自宅介護が不可能となり、令和元年11月半ばにグループホームに入りました。
その後、インフルエンザ予防の為に面会ができなくなり、次には新型コロナウイルスで面会禁止となり、もう1年以上母と会えていません。

世界が平和になりますよう、心からの祈りを。

そして、数年に一度の最強寒波が来襲中ですが、豪雪地帯の皆様、どうぞこの冬を無事でお過ごしください。
雪の無い地域でも、どうぞ寒波にお気を付けください。

穏やかで暖かな平和な春を待ち望んで。

カネ恋が見られない2020/09/29

芸能人の自死(10年以上前から、自殺ではなく自死と呼称すべきだという考えがあります)が続き、一般人でも増加していて、心が痛いです。

私は外出もしないし、訪問者も無いし、TVを低音量で毎日ほぼ点けっぱなし状態ですが、番組の合間にドラマの番宣映像が流れますよね?

 「おカネの切れ目が恋のはじまり」の番宣映像が辛いのです。

三浦春馬さんが命を削った遺作だから、お蔵入りにならずに放送されているのはとても良い事だと思います。
けれど、私は、番宣映像だけでも辛くなるので、見ることが出来ないのです。
私は三浦春馬さんの私生活を知らないし、どんな悩みを抱えていたのかも分からない。けれど、悩みを抱えながら演技していた事だけは確かだろうから、ドラマがコメディだけに、人と会う為に自分のテンションを上げ、演技では更にハイテンションを期待されて、どんなに大変だっただろうと、甚だ勝手ながら、そう思わずにはいられず、涙が出てしまうのです。


私は、子供の頃に連載が始まった美内すずえ先生の「ガラスの仮面」を見て演劇に興味が沸き、それ以前から自分で物語を書いていて、摩耶ちゃんに負けず劣らず物語に対して好奇心が強く、想像力も底無しだったので、いつか演劇をやってみたいなぁと思っていました。

私は超内気で大人しく、小学生の頃から先生に「声が小さい、引っ込み思案、消極的」等々言われていたし、体力もなく、疲れやすくて、度々病気をしたり倒れたりもしたけれど、音楽の授業や合唱クラブで皆で声を合わせて歌う時や、家で姉のピアノ伴奏で歌う時には、大きな声を響かせて歌うことができました。
学校のお楽しみ会寸劇や文化祭では脚本を書き、創作ダンスでは、その表現力に、皆から「役者じゃあ!」と言われ、保育系短大入学試験では、初めて聴く音楽で即興で創作ダンスを踊ると言う実技試験に真っ先に手を上げ、脳内で組み立てた通りに踊って合格しました。

声が小さいという短所も、大学時代に経験した様々なアルバイトを通して、人前で大声を出すことにも慣れていきました。
教育実習での最初の授業は散々だったけれど、県の教員採用試験に合格できずに恩師の紹介してくれた他県の私学に採用された時の新人研修では、体育館のステージ上からマイク無しで、体育館最後部に立つ教頭に聞こえる声で決意表明演説をする最終試験にも、一度で合格しました。
だから、演劇をやってみたい、やればできるのではないか、という気持ちは、ずっと消えずに心の中にあり、高等学校教諭の仕事を早期退職した後、地域に劇団が出来たことを知った時、迷ったけれど入団したのです。
「やらずに後悔するより、やって後悔した方が良い」という、良く耳にするフレーズに後押しされて。

発声練習に早口言葉、セリフの読み合わせ、ストレッチ……、どれも楽しかった。
劇団を主宰するのは郷土出身の高名な演出家の先生で、その先生が戯曲教室も始めたので、私はそれも受講しました。
一通りの理論講義を終えて実技になった時、私は溢れ出るイメージを次々に戯曲にしていきました。
けれど、先生には、「(月)さんの場合、イメージがあり過ぎるのが欠点になっている」と言われてしまいました。

その後、その先生の門下生である若い演出家のもとで第1回の公演をすることになり、チェーホフ短編集の幾つかを上演すると言われて、私はその中の1つの主役をすることになりました。
セリフは直ぐに覚えて、稽古の時には、セリフを忘れた他の出演者にセリフを教えることも度々だったけれど、役者というのは、思った以上にストレスフルでした。

私は既に40歳を過ぎていて人生経験もあり、20歳代半ばの若い演出家の解釈には納得できないことも多くありました。
何度演じても違うと言われ、しまいには手本を見せられました。
「この場面での主人公の気持ちを考えると、その口調や動作は、私には不自然に思えるのですが?」
けれど、若い演出家は耳を貸してはくれませんでした。
「演出家は俺だから」
それ以上は何も言えませんでした。

役者は、ただ演出家の言いなりに操り人形のように演じなければならないのか。舞台は演出家だけのものではなく、役者と一緒に作り上げていくものではないのか。
演出家の演出に口出しするのは良くないのだろうけれど、プロではなく船出したばかりの民間アマチュア劇団であれば、演出家のごり押しではなく、役者の想いも汲み取って、互いに擦り合わせていくべきではないのか。
私は熱意を失って、全く楽しく無くなりました。

けれど、演目は喜劇だったので、どんなに意気消沈していても、テンションを上げ、舞台演劇特有の抑揚で、オーバーアクションをしなければなりません。
それは大変な疲労を伴い、少しも楽しむことが出来なかったけれど、公演を終えるまでは投げ出すわけにはいかなかったから、私は私を捨て、演出家の言いなりに演じました。
他劇団から客演の先輩役者達からは、演劇未経験者なのに短期間で物凄い成長ぶりだと称えられました。

公演1週間前の初めてのリハーサルの時、ステージに出た途端に頭が真っ白になり、セリフも何も空っぽになってしまい、以降、本番でも同じように頭が真っ白になったらどうしようと、そればかりが心配で、四六時中台本を読んでいなければ落ち着けませんでした。

本番前のゲネプロの時、私は心臓がバクバクしていましたが、自分を切り離して役になり切ることにしました。
心の中は静かになり、舞台や客席の隅々まで見え、ゲネプロで緊張して出やセリフを忘れた他の出演者に教えることさえ自然にこなし、本番の幕が上がっても全く緊張せずに、観客一人一人の表情を見る余裕さえありました。
けれど、幕が下り、湧き上がる歓声の中で、達成感も感動も喜びも私にはありませんでした。
客演の先輩役者にその事を話しましたが、「自分を無くして役になり切れるなんて、初演なのに凄いじゃない」と言われ、私の虚しさは分かっては貰えませんでした。

打ち上げで一人一人感想を言うことになって、本心は「これでやっと劇団を辞められる」だったけれど、さすがにそれは言えません。
「初めてのリハーサルでは頭が真っ白になって、どうしようかと思ったけれど、無事に終えることが出来て、とても良い経験ができました。ポスターとプレゼントと衣装の仕事も頑張ったので、良い思い出ができました」
すると、演出家がポロリと言ったのです。
「仕事らしい仕事は何もしてないじゃん」

私は自分の特技を生かし、演出家も含めた劇団員全員の似顔絵を描いたポスターを作り、来場者へ渡すお土産の絵葉書も全て描いたし、予算の無い中で、自分や劇団員の持ち合わせの衣類からイメージに合う衣装を考えて準備したのに、信じられない一言でした。

私は演劇には向かないな、そう分かって、暫く後に止めました。
直ぐに辞めなかった理由は、劇団の会計の仕事も担っていたからです。
劇団を辞めた後も、差し入れに行ったり、時代劇をするので着付けをしてほしいと頼まれれば、私は子供の頃から自分で着物を着ていて着付けが出来たので、もちろん無償で手伝いにも行ったけれど、もう劇団には戻りませんでした。

後に自身の高機能自閉症が分かったので、元から自分には役者は向かなかったのだと思いました。

実際に芸能界で活躍されている俳優の方々の気持ちが、僅かな演劇経験しかない自閉症の私に分かるはずはありません。
けれど、「カネ恋」を見ようと思っても辛くて見らないのは、どうしようもないのです。

芸能人に限らず、きっと多くの人達が、本当の自分の気持ちを隠して、表面上は元気そうに社会生活を送っていると思います。
裏表なく本当に元気でパワフルな人も多いでしょうけれど、そうではない人も沢山居るはずです。

生きることは、本当に楽じゃない。
なぜ人間は、こうも複雑に作られてしまったのだろうかと思います。

やる気も感情も気持ちの浮き沈みも、神経伝達物質の作用によるものらしい。自分の意志とは関係なく、アドレナリンやドーパミンやセロトニンなどの化学物質が私たちの感情をコントロールしていて、それらの投与は治療や違法なドーピングにも用いられたりするようです。

人間は、とても哀しい生き物のように思えます。

大人はいつも頭ごなしだった2020/09/28

私には物心ついた頃からの詳細な記憶が、映像と音声でビデオのように鮮明にある。
宴会や会議での会話や日常の会話も、音声付き映像で脳内で再現できるし、TVや映画も、暫くの間は脳内でほぼ再現出来て、その事を特別だとは思っていなかったけれど、十年くらい前、もしかして私の記憶力は普通ではないのかもしれないと気付いた。

膨大な記憶というのは、全く役には立たない。フラッシュバックに苦しむだけだ。
眠れない夜は特に困る。
多くの人が時間と共に忘れていく気まずい記憶も、私は記憶が薄れることがないので、目の前の相手がすっかり忘れていても、私の胸にはその人に辛い思いをさせられたことが刻まれている。相手に合わせて忘れた振りでもしなければ、社会生活も難しい。

大人は、幼児の頃は物が分かっていないし、記憶はすぐに薄れて忘れてしまうと思っているようだけど、私には、2,3歳頃からの記憶がある。幼児は、ただ表現して伝える術を持っていないか、その術が拙いために、幼児がまるで何も考えていないかのように大人は誤解するのだ。

私が初めて知った哀しみは、3歳くらいの事だった。
当時の私は、父の勤める会社の社宅アパート南8棟の西端2階に住んでいて、アパートとアパートの間には広い緑地があり、小さい子達はその片隅でママゴトなどして遊んでいた。他の子達は、赤や青や綺麗な色で塗装されたブリキの台所セットなどを持っていたりした。私は今もそれを鮮明に覚えている。
その中の一人が、同じアパートの最上階に住んでいることが分かって、私は翌日に一緒にママゴトして遊ぶ約束をした。私のママゴト道具は、姉のお下がりのオレンジ色のプラスチック片手鍋の折れた持ち手を絆創膏でつないだものや、母の資生堂化粧品の空きビンなどしかなかったけれど、それらを古いビニルのテーブル掛けに包んで抱え、コンクリートの階段を最上階まで登った。けれど、約束したのに、その子は遊びに行って居なかった。私は、次第にほどけていく包みを引きずって階段を下りたけれど、途中で、黒い蓋の白い資生堂の瓶が一つ、また一つ、包みから零れて落ちて、コンクリートの階段で粉々に割れた。
私は泣きながら自宅に帰りつき、「約束したのに居なかった」と訴えたのだが、母は「そんなことで泣かんでいいが」と言っただけだった。私の哀しみは分かって貰えなかった。初めて裏切りに会った哀しみ、みすぼらしくても私にとっては大事なママゴト道具が割れてしまった悲しさ、気持ちを母親に分かって貰えないもどかしさ。私が母親だったら、「辛かったね」と抱きしめてあげるのに。

5歳の頃、深夜過ぎに母に起こされ、「じいちゃんが死んで、ばあちゃんが、おーい、って呼んだからばあちゃん所に行くよ」と言われて、父の運転する軽自動車で祖父母の家に行き、それから後の約1年間は父の実家で暮らしたのだが、幼稚園に入る直前、説明会に行った母が、近所で同じ幼稚園に通う女の子の名前を教えてくれた。
「ア○○○ミ○○ちゃん、ア○○○ミ○○ちゃん」
私は、その名前を何度も声に出して覚えた。今も覚えている。その子の顔も覚えている。

母がその子の家に連れて行ってくれて、私はすぐに場所を覚え、翌日に一緒に遊ぶことになった。母は、迷惑をかけるから家には上がらずに外で遊ぶことと、夕方4時には絶対に帰ることを約束させた。
私は、母に言われた通りに、ミ○○ちゃんと庭で遊んだけれど、時間が気になって仕方なかった。外では時間が分からない。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
けれども、暫くするとまた気になった。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
どれくらいで4時になるのか分からない私は、気になって気になって、また訊いた。
「小母ちゃん、4時になった?」
「なってないて何回言えば分かるとね!!!」
私は小母ちゃんに怒鳴られ、怖くてすぐに帰宅した。

幼稚園に通い始めて、ミ○○ちゃんとはクラスも別で、その後一度も一緒に遊んだことはない。あの時に小母ちゃんに怒鳴られた声と表情、心に刻まれた恐怖は今も忘れることがない。

5歳の私は時計は読めたけれど、庭では時計は見えない。小学校2年生くらいになっていれば、「小母ちゃん、4時になったら教えてね」と言えただろうけれど、まだ幼稚園に通う前の5歳児の私には、そこまで気は回らなかった。
母も悪い。「4時になったら帰りなさい」って、5歳児がどうやったらそれができるというのか。ミ○○ちゃんの小母ちゃんだって、「そんなに気にせんでも、4時になったら教えてあげるよ」と言ってくれれば良かったのだ。

幼稚園は、スクールバスなどは無く市内バスで通わなければならなかった。定期券もしくは片道10円往復で20円の運賃を幼稚園カバンのポケットに入れて、一人で歩いてバス停に行き、他の園児と一緒にバスに乗って幼稚園に行き、帰りもまた市内バスに乗って、バス停からはまた一人で歩いて帰る。
母はしつけに厳しくて、小さな子供がよく座席に後ろ向きに乗って外の景色を見ているのを指して、座席を靴で汚すから絶対にしてはいけないと言った。だから、私は絶対にしなかった。けれど、当時の降車ボタンは大人に合わせた位置にあり、幼稚園児の私には、座席に膝をついて手を伸ばして押すしかなかった。ある日、そうやって降車ボタンを押そうと手を伸ばした途端、隣に座っていた見知らぬおじいさんに、いきなり無言でふくらはぎを強くつねられた。とても痛かったけれど、私は声も上げられずに、降車ボタンを押して慌ててバスを降りた。
見知らぬおじいさんに無言でふくらはぎをつねられたことは、帰宅しても母に言うことができなかった。きっと、母がしてはいけないと言っていたのに座席に後ろ向きに膝をついたから、おじいさんは罰として私をつねったのだと思った。でも、あまりにも理不尽。そうしなければ降車ボタンを押せなかったのに。

幼稚園の同じクラスに、家は少し離れていたけれど同じ町内の活発な女の子がいた。
実を言うと、私は可愛かったらしくて、男の子達が私を隣に居させたがったけれど、私にはその自覚もなく、大人しくて口数も少なかった。その活発な女の子は、登園すると貼ることになっている出席帳のシールを、翌日の分まで貼るように私に迫った。
「明日の分まで貼らないと、もう遊んであげない」
いつもは出席帳を見せろと言わない母が、その日に限って見せるように言った。翌日の分までシールが貼ってあるのを見て、母は火のように怒った。
「だって、そうしないともう遊ばないって言われたんだもん」
泣きじゃくりながら答える私に、母は火のように怒ったまま言った。
「そんな子とは遊ばんでいいと!!」
私は、母の事がとてもとても怖かった。
翌日の分までシールを貼ったのは良くない事だけれど、烈火のごとく叱りつけるほどの事ではない。大人になって、そう思った。相手は6歳の幼児。穏やかに言い聞かせれば済むことだったのにと。

母はその後もちょっとした事で頭ごなしに怒った。
小学2年生の頃、学校の先生から、いらなくなった色々な色のチョークをもらった。私は、父からもらった板切れにそのチョークで絵を描いて遊んだけれど、黒板消しが無かった。押し入れの中に、大きさも厚みも丁度良さそうな物があるのを知っていたので、それを一つ持って、台所で夕飯の支度をしている母に訊きに行った。
「これ、黒板消しに使っていい?」
母は、いきなり烈火のごとく怒った。
「あんた、何言よるとね!!!」
何年も後に知ったのだが、私が手にしていたのは生理用ナプキンだった。けれど、幼い私はそれを知らなかったのから、頭ごなしに怒鳴ることは無かったのにと思う。
母は、私が大人になっても、自分の意に沿わないと途端に声を荒らげた。

私は、祖母からも頭ごなしに怒られた。
幼稚園の頃、父方の祖母と住んでいた。祖母は手間仕事に赤ちゃんの子守を請け負っていた。可愛いクミちゃんという赤ちゃんが、ベビーパウダーの缶のふたの絵にそっくりだった。
「婆ちゃん、見て見て、クミちゃんにそっくりだよ」
祖母は返事さえしてくれず、私は、可愛いクミちゃんがベビーパウダーの絵にそっくりだと祖母に伝えたくて、ベビーパウダーをクミちゃんの顔に近づけた。けれど、私も5歳だったので力加減がくるい、缶がクミちゃんのほっぺに軽く触れてしまって、クミちゃんは火が付いたように泣き、祖母は私を怒鳴りつけた。
けれど、今思うに、私は何も悪くは無かったと思う。祖母が最初から私の声に耳を傾けて「あら、本当じゃね。そっくりじゃね」と言ってくれていたら、一緒に幸せに笑えるはずだった。

祖母は、実の孫なのに私に厳しかった。
ある日、母が彼岸の団子を作った。昔の事で、ご飯や団子は、ショウケという手提げの柄と蓋のある大きな竹籠に入れていたのだが、「はい、祖母ちゃん」と私が一つ祖母に渡して几帳面に蓋をしめた事が祖母の逆鱗に触れた。
「なんと意地の悪い子じゃ。1つしかくれんで蓋を閉めた」

小学生の頃までは一緒にバドミントンをして遊んでくれていた父も、ちょっとしたことで不機嫌になったから、いつ機嫌を悪くするか分からなくて、私はいつもビクビクした。

ある日、シャックリが全然止まらなくて、近くに居た父に「お父さん、シャックリが止まらないから、驚かせて」と頼んだ。
その途端に、父は「こらあ!!」と大声を上げた。
私は、自分が変な事を言ったので父が機嫌を悪くして本当に怒ったのだと思い、恐怖に縮み上がった。
「どうや。止まったじゃろが」
父は怒った振りをしただけだと分かって安堵し、シャックリも止まっていた。
学校が休みのある日、父と母は、浜に流れ着く薪を拾いに行っていた。風呂を沸かすのに薪を使っていたからだ。私は姉が買ってもらったステレオを聞こうとしたら、音が出なかった。
浜から帰ってきた父に「お父さん、ステレオの音が出ない」と言ったら、いきなり怒鳴られた。
「お父さんは疲れて帰ってきたばかりじゃろが!!!」

夕飯の時は、機嫌が悪くて一言の会話もない重苦しい夕飯が珍しくなかった。
学校の図書室で借りたお菓子作りの本を見て「バナナのパイ包み焼き」を作り、会社から帰宅して食卓に着いた父に出した。甘い物が好きな父は喜んでくれると思っていた。
「へねよな物は作らんでいい!!」
テーブルの上のお皿の上で、父に見向きもされず、ただ冷めていく「バナナのパイ包み焼き」。
父は、ただの一口も食べてはくれなかった。

私は大学を選ぶとき、父がお金にうるさいので、教育特別奨学金があって学費も安い国立大学教育学部を選ぶしかなかった。家からは遠く、アパートを借りる人もいたけれど、私は、古くて二人部屋で食事も自炊の、月6千円の安い女子寮に入るしかなかった。

私は幼い頃から洋服もスクール水着も中学の制服も姉のお下がりで、私服は殆ど持っていなかったし、授業で使う教科書やノート、食器や鍋、肌着から通学用の私服や靴、米や味噌や牛乳や肉や野菜や全ての食料品も自分で買いそろえなければならなかったのに、ひと月に4万円以上を通帳から引き出すと、父から頭ごなしに怒られた。4万円のうち3万7千円は奨学金なのに、帰省したりするたびに、父は、私がお金を使いすぎるとうるさく言った。
「荷物は風呂敷ひと包みあればいいと!!!」

両親が寮に電話してくることは殆ど無かったし、寮に来たのも数回だけだったけれど、私が帰省するたびに父から怒られるので、私は帰省したくなくなって、アルバイトばかりしていた。自宅通学の級友たちが遊んでいるのを見かけることもあり、アルバイトに明け暮れるしかなくて辛かったけれど、そうしなければ食費も十分にはなかった。
大学生協には安い定食もあったけれど、私にとっては高額だったので、殆ど利用しなかった。昼は寮に帰ってインスタント袋ラーメンを食べたし、夕ご飯も刻みキャベツにフイッシュバーグを1㎝幅くらいに切って3枚をフライパンで焼いてマヨネーズとケチャップを塗ったものをよく食べた。お金が無くなった時には、残っていた小麦粉と砂糖と卵で得意のホーットケーキを焼いて翌月までの1週間を食いつないだ。

「お金が無かったら、お父さんにそう言いよ。親に甘えるのも親孝行ってものよ」
寮の同室の先輩に、そう言われたけれど、それは叶わぬ夢だった。

父親というものは、娘を目に入れても痛くない程可愛がると、よく耳にする。けれど、少なくとも、父は私にそんな愛情は示してくれなかった。父にも母にも、私は甘やかされたことが無い。
私は勉強は出来たし、大人しくて従順で反抗期も無かったし、一体何が不満で両親は私に厳しかったのだろう。

私は、慣れない寮生活を始めて数か月で48㎏から43㎏にまで痩せたけれど、子供の頃から小食で標準より痩せていた為か、誰からも心配されなかった。その後は、ストレスからか、甘いものを我慢できなくなった。お徳用チョコレートや袋菓子など、途中で気持ち悪くなっても、目の前にあるものを全て食べてしまうまで、止めることが出来なかった。
無意識に左手で髪を引っ張って抜いてしまった。すぐにゴミ箱一杯抜いてしまったが、元から髪の量が多かったので、傍目には気付かれなかった。

女子寮ではアルバイト苦学生は私だけではなかったし、高額なアルバイト料が貰える家庭教師は英語と数学が苦手な私には無理だったし、女子寮や学生課にたくさんのアルバイト案内があったから、私は、日教組大会の書記、食品の店頭宣伝販売、蚤の市の販売員、デパートの食品フェアー販売員、食堂や喫茶店のウエイトレス、書店の雑用など、様々なアルバイトをした。真面目な仕事ぶりで手際も良かったので、アルバイト先には毎回気に入られ、一度アルバイトを受けると、二度目からは直接名指しで依頼があった。連休も夏休みも冬休みも春休みも、帰省せずに幾つものアルバイトを掛け持ちした。
女子寮に居たので、都合が悪くなった他の寮生のアルバイトの助っ人を頼まれることも多く、ビジネスホテルの客室清掃、公文式教室、日本料理店の皿洗いなどもした。毎晩書店で雑用のアルバイトをしていた時には、名指しで土日のデパートでの試食販売を頼まれ、仕方なく、試食販売のバイトを終えてパンをかじりながら自転車で書店に移動した。アルバイトのし過ぎで勉強できず、2回生に進級するときに3つ単位を落とした。

ある日、学生課に小学生の姉弟の住み込み家庭教師の募集があった。夢見がちな私は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に憧れて面接に行った。ご両親が不動産業と夜の仕事をしているために、夜に子供たちと一緒に居て勉強を見てくれる住み込み家庭教師が必要なようだった。
私は、父にお金の事を言われるのが嫌だった。朝夕二食付きでアルバイト料も貰える住み込み家庭教師なら、寮費も食費も助かるし、掛け持ちでアルバイトをする必要も無くなるし、父に文句を言われなくて済む。

けれど、3日目に朝起きて台所に行くと、子供たちのパンと飲み物はあったけれど、私の分は無く、私を見た奥さんは何も言わなかった。私の朝食はもう準備されないのだと知った。私は子供たちの勉強を見るのに色々工夫もしたし、お風呂にも入れたし、ある日夕食後に奥さんが忙しそうだったので食器洗いを申し出たら、それ以降、全員分の食器洗いを一人でするのが私の仕事になってしまったけれど、黙って頑張った。
夕食の準備も手伝ったし、「今日は私がグラタンを作ります」と言って、全員分のグラタンを作ったこともあったし、クリスマスにはケーキも手作りした。私は土日も自由にはならず、頼まれて子供たちを映画に連れて行ったこともある。
ある日、食事の準備が出来たのに、何かで忙しいらしく、1時間経っても夕飯にならなかった。私は試験前で時間が惜しかった。
「試験勉強があるので、先に夕飯を頂いては駄目ですか?」と訊きに行った。
「ここに住んじょる以上あんたも家族と同じじゃろが!! 一人だけ先に食べるとか、そんな勝手が許されると思うのか!! 勉強があるなら勉強しときなさい。後で呼びに行く」
私は頭ごなしに怒られて、涙が出そうになった。
けれど、ある日、風邪を引いたらしく熱で起き上がれず、夕飯の時間に階下に降りられずに布団で寝ていたら、奥さんが部屋の前に来て「何故降りてこんの?!」と言うので、「すみません、熱で食欲が無いから夕飯はいりません」と言ったら、「それならそうと先に言わんと分からんでしょう!!」とまたも頭ごなしに怒られ、少しの心配さえしてもらえなかった。

私は家庭教師として子供たちが意欲をもって勉強するよう色々工夫し、子供達は懐いてくれたけれど、本来仕事には含まれていない家事も担い、土日もほぼ外出できず、気を遣うばかりで、まるで明治大正時代の奉公人のようだった。
映画やドラマでは、他人であっても本当の家族のように思いやり、互いに深い絆が生まれていくけれど、所詮はフィクションなのだと私には思える。

女子寮でもちゃんと自分で朝ご飯を作って食べていたのに、朝食抜きが毎日当たり前となってしまい、大学の健康診断で私は初めて貧血と診断された。精神的にも追い込まれ、再び髪を引っ張って抜くようになっていた。ラジオで、それが自傷行為と呼ばれるものだと知った。無意識に引っ張って抜くので、自分では止めることが出来なかった。

心身ともに限界となり、半年ほどで住み込み家庭教師は止める決心をして、「自宅から電車で通うので来月一杯で止めたいと思います」と伝えた。
「もっと怖い大人の家庭教師を雇わないかんね」と言われた。
引っ越しの日、義理の兄がトラックで荷物を運んでくれたけれど、家庭教師先のご夫婦は起きて来ず、手伝いどころか挨拶も見送りも無く、最後の月のアルバイト料も貰えないままだった。

女子寮に居る頃はどんなバイト先でも雇い主からは気に入られたのに、なぜそんな扱いを受けなければならなかったのか、全く分からない。小銭が落ちていたって盗んだりしなかったし、朝ご飯が無くても文句も言わずに、最初の条件に無いことまで快く引き受けて、どんなことも一生懸命にやったのに、病気で寝込んでいる時さえも、その事を頭ごなしに叱られるような、そんな理由が全く分からない。

他人は仕方がないとしても、ただ一人の祖母(母型の祖父母は私が生まれた頃には亡くなっていて、父方の祖父も私が5歳の時に亡くなった)にも、冷たくされ、謂われ無く頭ごなしに叱られていた私。
私には背中と左手首の甲に傷跡があり、アイロンの火傷痕と教えられた手首の半月型の変色は、成人しても濃くくっきりと人目を引いて、同僚や生徒に、それは何?と訊かれることもあった。もしかしたら幼い頃に虐待があったのではないかと思う。
今でも思う。無邪気に両親や祖母に甘えて、抱きしめてもらいたかったと。

大学の卒業式を前にして、私は「来なくてもいいよ」と電話した。父は血圧が高く、女子寮に両親が訪れた帰りに父が倒れた事もあり、私は父の健康を気遣って遠慮したのだ。
来て欲しくなかったわけではない。けれど、両親は本当に私の大学卒業式に来なかった。

私は晴れ着も無く、自分で縫ったチャコールグレイのテーラードスーツを着たけれど、他の学生達は、振袖や袴の晴れ着で着飾り、両親と一緒に記念写真を撮ったりしていた。私にとって、卒業式は晴れの日でも何でもなかった。

今思えば、若い大学時代にはもっと青春を謳歌すべきだったと思う。けれど、私に出来たのは、毎日を必死に藻掻きながら、どうにか生きていくことだけだった。
いつも、どこか遠い所に行ってしまいたかった。死を夢想して詩を書き綴り、風のように自由になることを夢見た。
詩を書くことをしなかったら、心は行き場を失い、本当に死んでしまったかもしれなかった。

竹内結子さんの死に思う2020/09/27

2020/09/27 17:28撮影 月齢9.6 月出15:25 月没00:40 
朝起きると、TVのデータ放送で天気情報とニュースを確認するのが日課なのだが、人気俳優の竹内結子さんが亡くなり、自殺と思われるというニュースに衝撃を受けた。
昨年結婚して今年出産して、普通に考えれば幸せ一杯のはず。
けれど、もしかしたら、誰もがそう思うことに落とし穴があったのかもしれない。
私には、人気俳優である竹内結子さんの生活や内面は推し量りようも無いけれど、マリッジブルーやマタニティブルーという言葉もある通り、幸せなはずの出来事は、実は大きなストレスにもなる。
周囲に幸せだと思われている時に、悩みがあるとは言いだしにくいだろう。幸せそうに振る舞わなければと思うかもしれない。

私は若い頃からあまりTVを見なかったし、芸能界にそれほど関心は強くないけれど、竹内結子さんというと映画「いま、会いにゆきます」の印象が強い。その印象とは全く違うタフな役柄の主演作もあり、最近TVで目にした時には、何だか痩せて疲れが顔に出ているように感じたけれど、TVのコメンテーターもそんなことは言わなかったので、私の勘違いかなあと思っていた。

最近、芸能人の自殺が多い。
報道はされないけれど、一般人の自殺も再び増加傾向にあるようだ。
平成23年までは毎年3万人を超えていた自殺者数は、自殺防止の様々な取り組みが功を為してか、減少傾向にあったのだが、おそらくはコロナ禍が影響して増加に転じたのだろう。

猛暑の頃には、熱中症による死者が大変な数になった。
2010年以降毎年千人を超えていて、特に熱中症死者数が多い東京都では、8月18日現在の8月のコロナ死亡者9人に対して、熱中症死亡者は10倍以上の103人だったらしい。
   https://www.asahi.com/articles/ASN7W35BNN7KUTIL04F.html#:~:
   https://news.yahoo.co.jp/articles/72168d43c658736ad92e7ae528bf9f77d5e22ff7

新型コロナウイルスによる死者数の合計は、国内とクルーズ船を合わせて本日時点で1,563人。
対して、自殺者の数は、8月だけで全国で1,854人。

熱中症や自殺による死者数は、新型コロナウイルスによる死者数を遥かに超えているのだ。

   ※ 新型コロナウイルスによる死者数は「特設サイト 新型コロナウイルス」による
   https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data-all/
   ※ 自殺者数は厚生労働省のホームページ掲載の資料による。   
   https://www.mhlw.go.jp/content/202008-sokuhou.pdf
   ※ 熱中症死亡者の統計……総務省消防庁
   https://www.fdma.go.jp/disaster/heatstroke/post3.html


コロナ禍で、孤立する人が増えてしまった。
熱中症は猛暑が原因ではあるけれど、自宅や畑や農業用ハウスで亡くなる高齢者の数は、声掛けによって減らせたかもしれない。冷房を付けよう、暑い時間の外出は危険だと声を掛けることで、少しは減らせたかもしれない。

自殺者の数の多さも、コロナ禍による失業で衣食住に困ったとしても、孤立せずに繋がりがあれば、守れた命があったかもしれない。生活に困っていなくても、孤立は人を絶望に追いやるに十分だ。私自身が、孤立により、生きることに何の希望も見いだせなくなったように。


私は、10年前、仕事の傍ら週末に大学で半年間の講習を受け、「地域QOL推進委員」の認定を受けて、「自殺防止フォーラム」にも参加していた。
「自殺防止フォーラム」は、大会を終えた後、形を変えて現在も続いているのだが、私は今は参加していない。その理由は、参加者たちの姿勢と取り組みの方向性に疑問を持ったことと、自殺者を救おうとしているはずの人達からの心無い言葉によって傷付いたからだ。

20年近く教員をしていた間、自分の担任クラス以外の生徒からも悩み相談を受けたし、たくさんの手紙をもらったし、教員を早期退職してからも、たまたま入院した先で同室になった人から悩み相談を持ち掛けられたりした。

自分自身が幼い頃から辛い思いをして、何度も死にたいと思ったから、たぶん心が傷付いている人に寄り添うことができるのだと思う。
私自身が、担任からの心無い言葉に何度も傷つけられたから、私は、どんな生徒も否定せず、頭ごなしに自分の考えを押し付けたりせず、まずはその生徒の話を聞いた。

「話してくれてありがとう。家でもクラスでも辛い思いをしているんだね。いつも傍にいることはできないけれど、私はあなたの味方だよ。私に何か出来ることはある? 担任の先生に私から話してみようか?」
隣のクラスの生徒が放課後に相談に来た時、話を聞き終えて、私はそう言った。
「いいえ、大丈夫です。先生が話を聞いてくれて、味方だと言ってくれただけで気持ちが楽になりました」
生徒はそう答えた。
「辛くなったら、またいつでも相談してね」
私はそう声を掛け、その生徒は無事に卒業していった。

それから10年程経って、私は仕事に行けないほど精神的に苦しくて、なぜ苦しいのか自分でも分からなかったのだが、たまたま近くに精神科の病院があったのでHELPの電話をして、電話の先でも緊急性を察知してくれたらしく、他の患者と会うことの無いように時間を設定されて、すぐに受診できた。

最初の質問はこうだった。
「今いちばん苦しいことは何ですか?」
私は自分でも何が苦しいのか、なぜ苦しいのか、全く分からないままに受診したのだけれど、その質問に、考えるより先に言葉が自然に口から出ていた。
「私は小学校の頃から学校で苛めや仲間外れにあっていて、そのことを両親に言えませんでした」と。

その時の会話を今も詳しく覚えている。ここでは関係が無いから省略するけれど、その精神科医の先生は、傾聴と受容の姿勢を見せてくれて、私は安心して話すことができ、薬が処方された。

その2週間くらい後にも再び受診して、副作用が無い一番軽い睡眠薬も処方された。
「目が覚めないかもしれないと不安だったら、翌日に仕事が休みの週末に試してみてください」
私は、言われた通りに週末に試して、予定時間より遅くに目が覚めはしたけれど、ベッドからずり降りたまま、強烈な頭痛と止まらない吐き気で動けずに、何時間も苦しんだ。

その後、私は養護教諭に相談して、心療内科クリニックを受診することになった。当時の精神科病院は、古びて外壁には雨による黒いしみが流れていて陰鬱で、気軽に受診できる感じではなかったのだ。今ではその精神科病院は明るく開放的なデザインに改築されて受診しやすくなったけれど。

通院し始めた心療内科クリニックの医師は、なぜそんな話をするのか意味不明な漫画などの雑談をしたりした。受診するたびにカウンセラーと話もしなければならず、ある時思い切って誰にも話したことの無い悩みを打ち明けた。
その時のその女性カウンセラーの対応に、私は話したことを後悔した。
「そんな人もいますよ」
私の話を聞き終えて、開口一番それだけだったのだ。
今から20年程前の話で、その心療内科クリニックは、現在は無い。

どんな悩みも、世の中には同じ悩みを抱く人がいるかもしれない。けれど、だからといって救いにはならない。
勇気を出して話した患者(相談者)に対しては、まずは「話してくれてありがとう」だと思う。そして、「ずっと苦しんできたのですね」と、相手の苦しみや辛さに寄り添う。それが無ければ、相談者は、相談した事で何一つ救われない。


話を10年前に戻そう。
参加していた「自殺防止フォーラム」の大会が終了し、その後の会の在り方が、定例会を続けて検討されたのだが、誰もが自由に集える場所づくりの方向で話が進んでいた。
私は、そこに集って仲間ができた人の自殺防止にはつながると思うけれど、既に深刻な悩みを抱えている人は、そんな場所には行けないし、自殺を考えている人は自分の心を隠して普段通りのように振る舞うと伝えたけれど、耳を貸しては貰えなかった。
定例会議参加者の大半が、別の公的な役職を持った人達で、悩みを抱えて死すら思う人に本当に心から寄り添おうとしているようには、私には思えなかった。

私は当時、認知症の疑いのある母と同居しはじめて間もない頃で、仕事もしていたし、夕食後に定例会議に参加するのは簡単ではなかった。ある日、会議場所変更のメールがあり、私は慣れない場所の駐車場の入り口が分からずに、時間に遅れてしまった。
「ふつう入り口が分からないなんて有り得ないでしょう?」
冷たく投げつけられた言葉。
ああ、やっぱり、この人達は、肩書のために活動実績が欲しいだけの人達なんだ、そう思った。

その後から、私はその定例会に行けなくなった。集いの場所も決まり、名称も決まって、その都度メールで連絡は来たけれど、私は一度も行けていない。親しくなった人達が、ワイワイガヤガヤ楽しんでいる中に、傷ついた心でどうして入って行けようか。

子供や芸能人の自殺が報じられるたび、一人で悩まずに「いのちの電話」やLINEなどに相談するようにとコメントされる。
けれど、例えば「失業してお金が無くて衣食住に困っている」とか、「虐待を受けているから保護して欲しい」とか、具体的に話すことができて何らかの対処ができそうな悩みならば、助けを求めやすいかもしれないけれど、悩みの多くは、簡単に話せるような内容ではないと思う。
深刻であればあるほど、家族や友人も含めて他人には話しにくい。多くの場合、話しても分かっては貰えないと思っている。
実際に相談したのに、軽く受け流されたとか、逆に説教をされたとか、苦い思いをした人もいるだろう。

私は、小学校、中学校、高校と、学級担任でさえ寄り添ってはくれず、話を聞こうとさえしてくれず、放置された経験がある。
目の前に居るプロのカウンセラーに話してさえ後悔したことがある。発達障害者支援センターに電話をした時も、あまりに事務的な対応に、1か月先の予約を取って相談しに行きたいという気持ちにはなれなかった。地域包括支援センターに電話をしても相談を拒否されたし、障害者就業・生活支援センターでは心無い対応をされた。
社会のシステムは、昔に比べれば、共生へと進んでいるけれど、そのシステムを運用するのは人間であり、人は必ずしも優しくは無いし、自身が苦労をしてまで見知らぬ誰かに寄り添おうとはしてくれないことの方が多い。
そんな経験から、顔も見えない、どんな人かも分からない人を信用して、いきなり悩みや苦しみや辛さを相談したりなんて、私には、もうできない。だから、私からも、見知らぬ人に、「気軽に相談してね」なんて安易には言えない。

一人で苦しんでいる人の重荷を、どうしたら軽くしてあげられるのだろう。
話だけでも聞いてあげたい。
解決策は提示できなくても、一緒に考えてあげたい。
心からそう思う。

朝の決まり事……(*^_^*)2020/06/16

レンチン手作り朝ご飯 & チョコミント蒸しケーキ
私の朝は、まずEO水でうがいすることから始まる。
EO水は近所の歯科口腔外科で購入している。水道水に少量の塩を加えて特殊な電気分解処理をすることにより生成され、高い殺菌作用と殺ウイルス作用をもった水で、作用後はただの水に戻るので、安全で環境にも人体にも無害らしい。

うがいをして口の中を清潔にしたら、胃腸を目覚めさせる為にコップ一杯の常温の水を一気飲み。
それから色々な朝の支度に取り掛かる。

朝ご飯は、たまにはパンも食べるが大抵いつも和食。

ご飯は雑穀米で、15年ほど前に生協で買った「ちび玉小太郎」というレンチン用の1合炊飯器に、前日にお米と雑穀と水を入れて冷蔵庫で一晩置いておき、朝、500ワットで9分チン(説明書には10分と書いてあるが、冷蔵庫で一晩置いてるし蒸らすので9分で大丈夫)し、しばらく蒸らしてから混ぜる。小さいシャモジも付属品。
最近は、炊いた後で市販の「蒸し黒大豆」を混ぜるのがお気に入り。
レンチン炊飯器は、今は百均ショップでも売っている。

味噌汁はどんぶりサイズ。レンチンできる大きなお椀で作ってそのまま食卓へ。
豆腐とネギのほかの材料は、冷凍しておいたマイタケ、水菜、モズク。昨年から栽培しているオカワカメもよく使う。食べきれないほど育つ。
味噌は、白味噌が好きだけれど赤味噌のほうが健康には良いらしいので、合わせ味噌を使用。出汁としてケチャップを入れたり、味噌ももちろん発酵食品だけど更に酒粕や自家製ヨーグルトをプラスすることも。

鮭は毎朝食べる。みそ汁に入れて一緒に加熱したり、アルミホイルを敷いたグリルでまとめて焼いて冷蔵庫や冷凍庫で保存しておいたものを、ご飯に乗っけたり。
もともと鮭が大好きだけど、アスタキサンチンやビタミンDなどが豊富なので更に好物になった。市販の塩鮭はしょっぱすぎるので、大抵は生鮭を買って自分で塩をし、一晩置いて冷凍保存している。

ぬか漬けで植物性乳酸菌もたっぷり摂取。写真は、紅芯大根、青首大根、ニンジン、茄子、キュウリ。塩もみして時間を置き、余分な水分を出してからぬか床へ。普通の白い大根のほうが軟らかくて甘みもあるけれど、紅芯大根は真っ赤になって綺麗。

それから、果物もね。りんごは皮ごと。

味噌汁の具は変わったりするけれど、毎朝ほぼ同じ朝ご飯。飽きることは無い。
本当は卵も食べたいけれど、卵を食べるとすぐにLDLコレステロール値が上がってしまう体質なので、3,4日に1個にしている。HDL値も平均の2倍以上あるから、大丈夫なはずとは思っているけれど。

追記:
前日の「チョコミント蒸しケーキ」をお昼に食べてみた。
冷凍庫から出してすぐは硬かったので、常温で少し置いて解凍してから食べた。
私はやっぱり「チョコミントパンケーキ」がいいな。