豪雨災害に認知症の母を想う2020/07/10

柏葉紫陽花(スノーフレーク) もうすぐ花の季節も終わる
今朝目覚めると、天気予報とは違って雨がやみ、わずかに薄日が差していた。
チベット高気圧と太平洋高気圧に挟まれた梅雨前線は、もう7日間も停滞しているらしい。そのせいで「令和2年7月豪雨」は、九州のみならず列島全域へと被害を拡大させつつあるようだ。

被災地のニュースを見ると、本当に辛くなる。浸水した施設で亡くなった高齢者の方々、一度は避難しながら家に戻り、奥様が息子さんの骨壺を抱いて亡くなられていたというニュース。胸が締め付けられる。
そして、施設の高齢者が自衛隊員に抱きかかえられて無事に救出されたというニュース。見るたびに涙があふれ出る。私には、自衛隊員に抱きかかえられた白髪の高齢者が、どうしても自分の母親と重なってしまうのだ。

もう8年程も前になるが、母に認知症の兆候があることはすぐに気付いた。
かつて高等学校教諭だった私は、家庭用ノートパソコンが普及し始めたWindows3.1の頃には生活情報化設置準備のために3か月間の内地留学を命じられ、新学科設置の責任を果たすとすぐに異動を命じられて、次には介護福祉士養成のための福祉学科で生徒に指導するために医科大学での2週間の集中講義等を受け、生徒の実習先である老人介護施設等へも頻繁に訪問していた。
教育委員会や学校の都合で、私自身には何の打診もなく、パソコン、次には福祉と、時代のニーズにそった教科を担当することになってしまい、苦労の連続ではあったが、全て自分の役にも立ち、幸運だったとも言える。そのおかげでパソコンが扱え、高齢者の病気や介護保険制度に関する知識もあったのだから。

母は、特定検診でコレステロール値が高めだと言われただけで食欲を無くしてしまうほどだった。母の心を傷付けずに在宅介護サービスに繋げるには半年を要した。母は予想通り要介護1で、膝関節変形症などの薬のほか認知症の進行を遅らせる薬も処方されるようになったが、やがて要介護2となり、生活の全てに見守りと援助が必要となった。
母はデイケアでの入浴を嫌がったので、私が汗だくになって入浴させ、私自身の入浴は母が寝入ってから5分ほどで済ませた。母がいつ目を覚ましてトイレを探すか分からなかったからだ。
二年目には薬の副作用で内臓も弱り、救急搬送を依頼して2か月も入院生活を余儀なくされ、私は毎日面会に行って、病院では不十分だった歯磨き目薬などのケアをした。
退院後は、せん妄や徘徊などの症状も現れず、再びデイケアにも通えるようになったが、安心も束の間、認知症は進行して要介護3となり、体調も再び悪化した。
体調が悪いと、デイケアもショートステイも断られる。私は24時間付ききりとなった。母がデイケアに行っていた頃は、迎えが来て送り出し、送られて帰宅するまでの6時間に家事を済ませ買い物に行き足りない睡眠を昼寝で補うことも出来たが、それも出来なくなった。
昼は転倒しないように気を配り、トイレを探す素振りを見せれば連れて行き、好物の柔らかく食べやすい食事を用意し、夜間は数時間ごとに目を覚ます母に対応し、トイレに連れて行き、汚したパジャマを着替えさせ、トイレを掃除し、漸く眠っても、すぐに目を覚まし、部屋の明かりが気に入らないと言い、消すと今度は暗いと言い、寝てくれなかった。一晩に8回もトイレに連れて行った。母は私を起こさない。起こすことを思いつけない。だから私が気配で察し、「お母さん、どうしたの?トイレ?」と声を掛けるのだ。母自身が悪いわけではなく全ては認知症のせい。私は決して母を責めはしなかった。
私自身は眠る時間もなく限界になっていた。寝てくれない母を残して寝室の戸を閉め、真夜中の廊下で泣き叫んだ。それから涙を拭き、寝室に戻って母に添い寝し、肩に手を置いて優しく子守唄を歌った。

地域の病院は当てにならず、隣の市にある認知症指定病院の予約を取って受診し、2回目の受診を待たずに、止まらない下痢や嘔吐のために母は入院することになった。
全ての薬を中止して経過観察をすること3ヶ月、母の体調は良くなったが、認知症は更に進行した。勧められるまま、同じ敷地内にある介護老人保健施設に入所した。
けれど、私はあの時の選択を後悔している。
病院や姉の反対を押し切っても、母を連れ帰り、あの時に小規模多機能型居宅介護を選択すべきだったと。

カンファレンスで聞く説明とは裏腹に、体力も弱って表情も虚ろになっていくように見えた母。面会に行くと、汚れた服を着ていることも多く、私が着替えさせたり、着替えを頼んだりした。適切なトイレ誘導がされず、汚れたままの紙オムツが何時間もそのままだったりしたようだった。ズボンの洗濯物が半端なかった。時には1週間で16枚も。

地域包括支援センターに相談の電話をするも相談自体を拒否され、しばらくは私自身に様々な病気が表れて動けなかったが、事態は深刻さを増し、私は自力で母のための施設を探した。地域包括支援センターが提供してくれない資料をインターネットでダウンロードし、その資料を基に条件に合いそうな施設を丹念にネットで検索して探し出し、詳細情報をプリントアウトして電話でアポを取り、見学に行った。介護体制や職員の人柄は勿論大事だったが、それらがどんなに良かったとしても、私には外せない条件があった。

高齢者施設は、ハザードマップ浸水域にあることも珍しくないのだ。土地代が安く、利用料を押えられるからだ。そして、見学に行ってみると、浸水域であるにも関わらず、かさ上げ等の対策はおろか、水害時の避難先など対応が未定という施設さえあった。
自力での避難が不可能な母のケアをお願いする施設は、ハザードマップ浸水域ではなく、万一の時には垂直避難が可能なこと、それは私の中で絶対条件だった。

事情により1か月の間で4回も施設が変わるという事態になってしまったが、幸いにして、全ての条件を満たすグループホームが見つかり、奇跡的なタイミングで待機者のキャンセルがあって、早くても3か月待ちと言われるのに見学した当日に入所が決まって、母は今、そのホームで笑顔で暮らしている。

私は、本当は支援を受けながら在宅で母の介護をしたかった。もう一度、母に自宅での日々を思い出してほしかった。私を思い出し、笑顔で名前を呼んでほしかった。
けれど、私はそれらを諦める決断をした。

母を自宅に連れ帰った数日間、気分が良ければ手を引いてトイレに誘導でき、美味しそうに食事をし、ちぐはぐな言葉に相槌を打っていると笑顔があふれ、時折は話がかみ合って、また笑顔となった。けれど、母の気が向かなければ、着替えもトイレ誘導も出来ず、母に辛い思いをさせるだけだった。紙オムツが汚れても分からずに交換を嫌がる母を、私では幸せにしてあげられなかった。
母の幸せは、自宅や私を思い出すことではない。毎日を笑顔で穏やかに暮らせることなのだ。

「いくら支援を受けても、要介護5のお母さんを在宅で一人で介護するのは無理ですよ。要介護3でもです。うちでは3人がかりですよ」
そう話す担当の介護士の前で、私は涙をこらえることができなかった。
介護のプロでさえ3人で行う介護が、少しばかり知識と技術があるだけの私一人に出来るわけがなかった。

水害の中、自衛隊員に抱きかかえられて無事に救助される白髪の高齢者。
私は、自分で介護することの叶わない母を想う。
私自身の体調悪化とコロナ禍で、半年も会うことが出来なかった母。先日、要請のあったタオルケット等を持って行った際に、食堂でTVを見ている母を、離れた戸口から眺めた。見違えるように快活になり、隣の席の入所者と笑いあっていた。
以前よりスムーズに介護出来るようになったと聞いた。
再び私の名前を呼んでくれることがあるだろうか。

半夏生が過ぎ、雨の七夕も過ぎて、今日、庭でニイニイゼミの初鳴きを聞いた。しばらくして止んだと思ったら、再び雨が降り出した。

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