台風とコロナとGo To キャンペーン2020/10/10

台風14号、九州は無事だったけれど、三重県や和歌山県、三宅島、伊豆諸島などが心配です。昨年大きな被害のあった千葉県は大丈夫でしょうか。

一昨日、実はもう1つ書きたい記事があり、脳内では書き上げていたのですが、「口腔ケアとインフルエンザ予防接種」を先に書いていたら深夜になってしまい、昨日も、パソコンを開いた後にメールチェックして返信したりしていたら眠さに負けて書けなかったので、もう書かなくてもいいかな?と思ったのですが、やっぱり今日書くことにしました。

千葉県鋸南町の昨年の台風15号の被害で、屋根や壁を直すことも出来ずにブルーシートのままの家が沢山あることです。千葉県や政府は、どうして手を差し伸べないのでしょうか。

ブルーシートを張ってロープで縛って土嚢の重しをしたって、台風の暴風雨にはひとたまりもありません。1年経っても修理できず、台風14号がまた向かっているというのに、住んでいる方はどんなにか心細く怖く不安なことでしょうか。
おそらくは、修理できないまま1年経つうちに、1年前よりもっと深刻になっているはずです。家の状態も、お住まいの方の精神状態も。
もし私の家の屋根が1年もブルーシートのままだったら、私は気が狂いそうになると思います。

依頼しても修理がなかなか出来なかった理由の一つは、東京オリンピックの為に資材や人材が不足したこともあったらしいです。
そして新型コロナウイルスにより人の移動が制限され、ますます修理が難しくなりました。

新型コロナウイルスによる移動制限は解除され、Go ToトラベルやGo Toイートも始まっています。経済が低迷し、特に打撃の大きかった観光産業や飲食業などの活性化には、一定の効果もあるでしょう。
けれど、運用の仕方があまりにもお粗末で、本当に困っている事業者には恩恵が少なく、接触確認アプリCOCOAを利用条件に入れないものだからCOCOAのインストール割合は低いまま。
Go Toキャンペーン利用に接触確認アプリCOCOAのインストールを必須条件にしないのは、そうするとGo To利用者が減ると思っているのでしょうか。

Go ToイートについてTVで報道された時、私は疑問だったのですよ。
「昼食の予約で500ポイント、夕食の予約で1000ポイントって、食事の値段は関係ないの?」って。
私は外食しないので、それ以上追及はしなかったのだけれど、案の定、夕食の予約をして100円のソフトクリームだけ食べて1000ポイントをせしめるなどの荒業を、平気でやる人達が続出したらしい。
Go Toイートを企画運営している方々は有能な方々でしょうに、そんな事態を予見できなかったのでしょうか。庶民感覚なさすぎて、思い付きもしなかったでしょうか。
Go ToトラベルもGo Toイートも、小規模なところにもちゃんと恩恵が行き渡るやり方を考えるべきです。私にはアイデアが無いではないけれど、ここに書いても意味が無いし、説明が長くなるし。

低迷する経済を立て直すことは重要だし、倒産や失業を少しでも食い止めるには色々なアイデアを実行する必要があるでしょう。
試行錯誤する中では、必ずしも成功するものばかりでないのは仕方ないかもしれません。
けれど、今現在本当に困っている人が誰なのかも、ちゃんと考える必要がある!

壊れた家に1年も住み続けざるを得ない方々を、どうか思いやって欲しい。
移動制限が解除されGo Toも始まっているのだから、他県からでも資材や人材の移動は可能になったはず。
政府と千葉県が協力すれば出来るはず。
だから、残念ながら今回の台風14号には間に合わなかったけれど、ブルーシートのまま取り残されている家の1日も早い修理を、どうか真剣に考えて欲しいと思うのです。

台風に思う2020/09/24

台風12号は、24日15時に関東の東で温帯低気圧に変わったとのこと。
温帯低気圧に変わったからと言って油断はできませんが、ともかくも、昨年に大変な被害を受けてまだブルーシートのままの家屋も多い千葉県に再び大きな被害が出ることは避けられるようで、本当に安心しました。
前線で繋がった別の低気圧により九州は大雨の真っ最中ですが、明朝には晴れる予報です。

九州では、先日の台風10号で大変な被害がありました。最大915ヘクトパスカルに発達して九州に接近し、特別警報級の超巨大台風になるとの予報で、衛星写真ではくっきりと大きな目のある雲の渦が画面を覆いつくすほどで、昨年9月22日に竜巻が起こった台風17号と進路も似ていたので、一人で台風対策をして一人で過ごすしかない私は、外回りを対策した後で早々に南側の窓は全てシャッターを閉めたけれど、台風10号は東風が長時間続く予報なのに東側にはシャッターが無くて、本当に怖くて、眠ることも出来ないくらいでした。
もしも昨年の千葉での被害のように、屋根が壊れたりしたらどうしよう。雨が家の中に流れ込んでも、私は途方に暮れて何も出来ないのではないかと。

そんなに怖いなら避難所に行けば?と思われるかもしれません。
私の場合、避難所には行けません。
子供の頃から、修学旅行など集団では眠れなかったし、大人になっても、職場のキャンプでバンガローやログハウスに皆で泊まったり、職場の小旅行で一部屋で数人で寝たりすると、ほぼ一睡も出来ないのです。枕が変わると寝られないとかいうレベルではなく、他人の気配で眠れないのです。静かな一人部屋でないと。

それに、台風の最中に自宅を離れていると、自宅で被害が起きていないか心配でたまらなくて落ち着いていられません。自宅に帰ったら凄い被害を受けているかもしれないという不安を抱えて過ごすよりも、被害が起きるならその場にいる方がマシに思えるのです。
勤務していても、消防車の音を聞くと、留守中に自宅が火事になっているのではないかと不安になりました。
出張などで自宅を数日離れると、帰宅途中、自宅が目に入るまで不安で堪りませんでした。

高機能自閉症(病名としてはアスペルガー症候群らしい)などの自閉症スペクトラム症候群では、不安や恐怖を健常者よりも強く感じるそうです。
その上私は子供の頃から超繊細(五感全て感覚過敏だけれど、五感だけでなく気配にも過敏でした)だから、仕方ないのでしょう。
避難所など集団で過ごすことは、大変な苦痛とストレスになり、子供の頃からよく腹痛や頭痛になったし、とても耐えられないのです。

台風10号では、近所の頑丈な避難所は開設後すぐに定員に達して満員になったと、登録している市の災害情報メールで連絡があり、近くの別の避難所になっている公民館よりもうちの家の方が頑丈だから、よほどの事が無い限り、自宅を離れる選択はありませんでした。

不幸中の幸いで、台風9号が海面をかき混ぜて海水温が下がったために、予想ほどには発達しなかったけれど、超巨大台風であることには変わりなく、昨年のような竜巻は起きなかったけれど、9月5日からの2日間以上に渡って猛烈な東風が吹き荒れ、庭の植栽のほとんどが大変な塩害を受けて、ほぼすべての葉が茶色くかさかさになって落ちてしまい、見るも無残な姿になってしまって、愕然としました。
一歩戸外に出ると、すえたような不快な臭いでいっぱいで、何だろうと思ったら、塩害による枯葉の臭いでした。

昨年の台風17号に伴う竜巻は、台風最接近までは1日くらいあって風雨が激しくなる前に置きました。9月22日朝、時計を見ると8時半、まだ雨風は無かったけれど、そろそろシャッターを閉めようとカーテンを開けて窓の外を見たその瞬間、木の葉や何かの破片が混じった猛烈な東風が真横に走ったのです。不意を突かれて私はそのまま固まってしまいました。ガラス窓越しの眼前で、頑丈なカーポートの屋根がガタガタガタガタと波のようにうねり、今にも壊れて飛ばされそうでした。すぐに竜巻だと分かりました。
この地域は過去に何度も竜巻の被害を受けていて、実は17号の前に接近した台風の対策を外でしていた夕方にも、規模は比較にならないほど弱かったけれど、ほぼ同じような東からの突風が数分間続いたのです。あれも弱い竜巻だったのかもしれないと思いました。

数分後にはぴたりと静かになり、近所の人達が道に出てきたので、私も外に出て「今の竜巻でしたよね」と話に加わりました。日頃そんなに親しくはしていないけれど、近所付き合いは大事だから。見上げると自宅2階の屋根近くの電線には、どこからか飛んできた天津すだれが引っかかっていて、九電に電話しても繋がりませんでした。隣の奥さんが「うちの後ろの社宅アパートは窓ガラスが割れている」と教えてくれて、見ると3階の窓ガラスが割れていた。うちの斜め前の2階建ての家は屋根瓦が何枚か割れていたし、公民館横の2階建て民家は瓦がごっそり飛んでいたし、公民館向かいの2階建て民家も瓦が飛んでいました。
うちでは、ワイヤーで固定していた郵便受けが曲がっていました。カーポートの自家用車のすぐそばには瓦やコンクリートの破片が落ちていて、車に傷が無かったのは奇跡でした。玄関前や2階ベランダや色々な場所に、瓦やコンクリートやガラスの破片が散らばっていて、網戸に破れも見つかったので、瓦が割れた場所があるのではないかと心配しましたが、自宅の壁や瓦はどうやら無事なようでした。
電線に引っかかっていた天津すだれは、その後の強風で庭に落ちてきました。

台風が接近すると、毎年思い出すことがあります。
私が高校3年生の時だったと思うので、もう40年も昔の事です。
今でこそ、台風が接近すると小中学校や高等学校は休校や自宅待機が前日から発表されるけれど、20年くらい前までは、台風でも学業や仕事が優先されていた気がします。

昭和55年ころの9月だったと思います。
台風が接近していて、月曜日に朝起きると猛烈な風雨で、高校からは休校の連絡は無く、父が電話してくれたけれど、休校の予定は無いということでした。仕方なく、私は体育ジャージーに着替えて雨カッパを着て、学校にロッカーが無かったのでパンパンに膨れた重い鞄を青いビニルゴミ袋に入れて自転車に括り付け、制服やお弁当や辞書を入れた重いスポーツバッグも青いゴミ袋に入れて自転車のカゴに入れ、暴風雨の中、日頃でも片道1時間近くもかかる大橋を2つ超えた10km先の高校に向かいました。

ところが、ようやく学校に到着すると、入り口は締まっていて「台風により休校となりました」との黒マジック手書き縦書きの貼り紙。仕方なく、暴風雨の中、2つの大橋を超えて自宅に戻ったのです。

私はその後に高等学校教諭になって自らそういう事態に対応してきたので、その時の学校の対応が私には許せないのです。
たとえ休校が未定であったとしても、未成年である生徒の安全が一番大事であり、「休校になるかはまだ分からないけれど、しばらくは自宅で待機していなさい」と伝えるべきだったと思うのです。
私の両親にしても、「欠席や遅刻になってもいいから、風雨が弱くなるまで登校は止めなさい」と言ってくれるべきでした。両親は、とにかく遅刻や欠席を嫌いました。

翌朝登校すると、学校の窓ガラスが割れていました。新設されたばかりの新しくて頑丈な学校で窓ガラスにも金網が入っていたのに。
当時の校長の決断力の無さ、電話に出た事務職員の融通の利かなさ、担任の生徒への愛情の薄さを感じずにいられず、腹立たしささえ感じてしまうのです。

私が教員になった頃は、台風接近時には前日に休校を決めるか、当日の早朝に緊急連絡網で生徒に休校を連絡するなどの対応が取られるようになっていたけれど、職員は出勤もしくは有給休暇である年次休暇を取るようになっていました。学校が休校になっても、会議や研修などの出張は延期や中止にはならないから、私は、暴風雨でも、豪雪でも、遠く離れた県庁所在地まで自家用車で出張しました。私の住む県は、残念ながら公共の交通機関が不便で、電車を使おうとすると、自宅から駅までと、駅から出張先までをタクシーに乗るしかないので、自家用車を使うしかないわけです。
人権教育の九州大会が本県であった時には、会場の駐車場は他県からの参加者のみ利用可能で、本県参加者は会場から遠い駐車場を使ってそこから歩かなければならず、私は他県から引っ越ししてきて自家用車が県外ナンバーだったので、悪いとは思ったけれど、とにかく物凄い暴風雨だったので会場駐車場を使わせてもらいました。
出張を終えて翌日学校に出勤すると、通学路の電柱が根元から倒れていて、それほど凄い台風だったのでした。

今は、大きな台風が接近して危険が予測できる時には、小中学校や高等学校の休校や自宅待機はもちろん、公共交通機関も事前に運休を発表したりするし、企業や事業者にも従業員を無理に出勤させないようにとニュースで伝えられたりします。勉学より仕事より人命が大事だという意識が広がってきたのは本当に良いことだと思います。

大雨が、ますます激しくなってきました。
自宅付近は、山からも河川からも離れているので、土砂災害や洪水被害の心配はないけれど、台風10号で地盤が緩んでいる地域や雨水が溜まりやすい低地、河川の近くに住む人はさぞかし不安でしょう。それとも、長年住んでいると慣れてしまって不安など感じないという人も多い?
どうかくれぐれも、危険に鈍感にならず、少しでも危険があれば命を最優先して欲しいです。
台風10号による崖崩れに4人が巻き込まれ、しかも、そのうちの2人が、外国からの技能実習生であることが、私はとても辛いのです。

穏やかで平和な日常はどこに?2020/07/30

月齢8.4 月出13:53 月没00:00 2020/07/29 21:52撮影
4歳の頃の記憶。
当時住んでいた社宅のアパートはお風呂が無くて、父は定時の4時には帰宅したので、それから家族4人で砂利道を歩いて銭湯に通っていた。
私は、銭湯の行き帰りや、脱衣所の独特の匂い、置いてあった体重計、浴室のタイルやカランなど覚えているのだが、中でも印象に残っているのが、歩くと一緒に付いて来る月だ。

今よりもずっと夜の明かりが少なくて、星も綺麗に見えた。
その頃はまだ星座とか知らなくて、
「どの星がアメリカ?」と家族に訊いたのを覚えている。
うちには犬のマークのビクターのTVがあって、「宇宙家族ロビンソン」というアメリカのTVドラマ(もちろん白黒)が放送されていたのを見ていた。それで、地球が日本で、空に見える星々が外国だと思っていたのだ。

夜空の星を見るのは幼い頃から好きだった。
父が人魂を見た話しを何度もするので、夜空を見上げると人魂を見てしまうのではないかと怖くなって、しばらくは夜空を見上げられなかった時期があるが、私はずっと宇宙や星が好き。天体望遠鏡は持っていないし、街の明かりで星もあまり見えなくなってしまったけれど、月は毎晩眺める。

最近心配なことがある。

今月27日の「米宇宙軍“ロシアが衛星攻撃実験” 官房長官『動向を注視』」というニュース。
「アメリカの宇宙軍は、ロシアが今月15日にも地球の周回軌道上で、人工衛星から物体を発射し、衛星を攻撃するための実験を行ったと批判していて、アメリカと同盟国に対する脅威が増していると警戒を強めています。」とのこと。
中国も今月24日に火星探査機の打ち上げに成功したというし、衛星攻撃衛星(キラー衛星)など兵器の開発を進める中国とロシア。インドやフランスにも宇宙軍があるらしい。
このままでは、宇宙が戦争の舞台になってしまうのではないか。
衛星軌道上を巡るキラー衛星が、宇宙空間で互いに攻撃し合う図が、SF映画ではなく現実のものとなってしまうのではないか。
月や火星の領有権を争って、月や火星上でも戦争が起きてしまわないだろうか。

宇宙空間は、人類が勝手にどうこうして良い場所ではないと私は思うが、もし利用するにしても、国際協力のもとの平和利用に限られるべきなのに。
けれど、人類はとっても馬鹿で、過去に何度も過ちを犯していながら、全く過去に学ぶつもりがないらしく、近頃はあちこちで独裁やら強権政治も目立ってきている。

コロナが蔓延して、日本だけじゃなく多くの国で第二波と思われる感染再拡大の兆しがあるというのに。私の住む県でも、とうとう感染者が100人を超えてしまった。無症状のまま感染していることに気付いていない人もきっといるはず。
地球温暖化の影響か、各国で異常気象と思われる豪雨や山火事や海面上昇による水没や色々大変な事態になっているというのに。
山形の記録的大雨と最上川の氾濫。日本は、もはや全国どこで豪雨災害が起きるか分からない。
マイクロプラスチックを食べさせられてしまう海洋生物に蓄積された異常は、人間にも蓄積されていく。

世界は、少しずつでも良い方向に向かっていると信じていたのに、最近は不安なことだらけ。
一昔前に夢見た明るい未来は、もう遠いものになってしまった気がする。
生きていて楽しいと思える日が来るのだろうか。

被災者の生活再建のために2020/07/17

明るい未来はあるのだろうか?
総務省消防庁の17日正午現在のまとめによると、令和2年7月豪雨の被害は「住宅被害 九州中心に全国25県 計1万5356棟確認」とのこと。多くの人命も失われている。
ニュースでは、被災者やボランティアが、使えなくなってしまった家財道具を運び出し、泥を掻き出し、水洗いして、なんとか生活再建しようとする姿が伝えられている。
やるせない気持ちになる。
もし私の家がこのようになってしまったら、私には、果たして、泥を掻き出し、泥にまみれた家財を運び出し、前を向いて頑張る気力が持てるだろうか。途方に暮れて泣き明かすのではないか。火を付けて全てを燃やして終わりにしてしまいたくなりはしないか。

平成29年7月九州北部豪雨、平成30年7月豪雨、令和元年の前線に伴う大雨、そして、今回の令和2年7月豪雨。近年は想定を上回る豪雨による水害が頻発している。もう「想定外」という言葉を逃げ道にしてはならない。
もちろん迅速な避難は欠かせないが、避難して人命が助かっても、生活の場は失われるかもしれないのだ。

地球温暖化の影響で、気象は一昔前の常識は通用しなくなっている。日本中どこで豪雨災害が起きるか分からないし、一度被災した地域が、二度と豪雨災害に合わないとは言えない。
現に、福岡の或る農家は、4年連続畑が水害被害を受けたということだ。それでもなお農家として頑張っているのは、どんなにか大変なことだろう。

逃げ伸び、生き残ることが出来た命。生活再建のためには、泥を掻き出し、家の中を住める状態にする必要がある。
けれど、もう二度と水害に合わない保証はない。再建が済む前に再び次の災害に遭うことも考えられるし、再建したのも束の間、再び……ということになったら、せっかく助かった人たちの気持ちもくじけてしまうだろう。
被災者が安心して生活再建できるためには、抜本的な対策が必要だ。
政府には是非、災害給付金だの地方交付税の前倒しだのお金だけではなく、たとえ想定外の豪雨があっても災害を起こさない治水対策をしっかりとやって欲しい。

それから、足りないボランティアの問題がある。
コロナさえなければ、全国から多くのボランティアが訪れ、被災者の大きな支えとなることは間違いないが、コロナ禍により移動を制限せざるをえず、密集も避けなければならず、十分なボランティアが確保できない。
けれど、ボランティアが確保できないのは、コロナ禍のせいばかりではない。全国的に災害が頻発すれば、当然のことながら、ボランティアは分散されるし、そもそも、近年の災害規模を考えると、ボランティアの善意にばかり頼るわけにはいかないと思う。災害地は衛生状態も悪化し、怪我を負うリスクもあるし、加えて今はコロナ感染のリスクもある。
ボランティアは被災地に負担を掛けないために、自己完結することが正しいとされる。交通も作業道具も食事も宿泊もボランティア保険も全てである。慣れた人ならよいが、そうでない人にはハードルが高い。
やはり、被災地の災害復興、生活再建は、ボランティアの善意だけに頼るのではなく、ある程度は国や自治体が予算を使って行うべきだと思う。
そうしなければ、近年の拡大する災害から、被災者の迅速な生活再建を図るのは困難だろう。
政府には、予算の使い道をしっかりと考えてほしい。

小説家の才能2020/07/16

パソコンによる自作カバーイラスト(左)と、出版会社のデザイナーの名前によるカバー(右)
昨夜、芥川賞と直木賞のニュースを見た。
きっと、多くの方が、受賞作を読みたいと、関心を持ってニュースを見たことと思う。

私には、一方的にだが、苦い(と言うのも変だが)記憶がある。

2003年下半期の発表の後、新聞の見開き全面の「小説は、1にも2にも才能で、努力なんて関係ない」という見出しが私の目に飛び込んできた。それは、瀬戸内寂聴先生と、最年少記録で芥川賞を受賞された方(名前はあえて書かない)との対談だった。
瀬戸内寂聴先生の言葉はこうだった。
「小説は1にも2にも才能で、努力なんて関係ない。あなたが非常に若くして賞を取ったのも、あなたに才能があったから」

たぶん、誰もが、「そんなの当たり前」と思って、気にも留めないだろう。
けれど、私は打ちのめされた。
ああ、そうなんだ。凡人がどんなに頑張っても無駄なんだ。だって、瀬戸内寂聴先生がおっしゃるのだから。

私は、中学生の頃からノートに小説を書いていた。村岡花子先生訳「赤毛のアン」シリーズを全部読み、いつかモンゴメリのように小説家となり、ギルバートのような人(モンゴメリ自身の結婚相手は牧師だったと思うけれど)と結婚し、たくさんの子供たちと幸せに暮らすのが夢だった。どうすれば小説家になれるか当時は情報も無く、ただひたすらノートに書いていた。
しばらく後に、ノートではダメで、練習であっても原稿用紙でなければならないと知り、原稿用紙を多量に買った。立原えりか先生の童話の後書に書かれていたと思う。

読み返すたびに書き直す私は、原稿用紙は書き直しだらけで読めなくなり、何度も1から書き直さなければならず、漸く家庭用のワープロが使える程度になった時、ボーナスをはたいて買った。なにしろ、それ以前のワープロは、ディスプレイが3行程度しか表示できなかった。

仕事が休みの日、ひたすらワープロに向かった。
けれど、ワープロで1文書に保存できる容量は限られており、いくつにも分けて保存しなければならなかった。ようやく家庭用カラーノートパソコンが発売されたが、100万円以上して、仕方なく最新のワープロに買い替えた。それでも、十分ではなかった。
ようやくパソコンに買い替え、ワープロ原稿も投稿が認められるようになり、短編や長編を投稿したが、全て没だった。

それでも、努力はいつか実るかもしれないと思っていた。
そんな前向きな気持ちが、打ち砕かれた瞬間だった。
しばらくは何も書けなくなった。

たとえ才能が無くても、何倍もの努力で頑張る!
私は再び書き始めた。
賞を取るだけが道ではないと、私はあらゆる可能性を模索した。
共同出版という形で、出版できることになった。
編集者は、私の文章が難解だと指摘した。その指摘を受けることは分かっていたが、万人向けではないと分かっていても、平易な文体にして作品世界のイメージを崩したくなかった。

大変な苦労の末、出版はされたが、私には大きな不満が残った。

1. カバー表紙は私がパソコンで作ってデータ送信したものを元にしたにも関わらず、出版会社のデザイナーの作になっていたこと。

2. 何の相談もなく、帯に「スペースオペラ」と書かれてしまったこと。読めば分かるがスペースオペラではない。おそらく、宇宙が舞台となるファンタジーだからと、安易にスペースオペラと書いたのだろうが、そもそもスペースオペラとは、昼ドラを、石鹸会社がスポンサーであることが多かった為にソープオペラ、西部劇をホースオペラと呼び、馬が宇宙船に変わっただけとの揶揄を込めて呼んだものだ。出版界にいて、そんなことも知らないとは。

3. 契約や打ち合わせにあたっては、会社が旅費を出して会社にて行うと文書には書かれていたが、初めて電話があった時、震える声でその事を尋ねると、「自分は契約担当だから、編集担当者からまた話がある」との答え。しかし、ついに一度も誰とも顔を合わせることは無かった。私が地方に住む為に、軽んじられたのだ。

4. 初めての出版であるというのに、校正に対する厳しい要求があり、校正の記入の仕方が悪い、見にくい、遅いと散々に言われ、「〇日までに郵送して下さい」とあるのでその通りにすると、「〇日までというのは〇日必着と言う意味だ。後のスケジュールが押して困るのはあなた自身だ」とのメール。向こうが郵送して私に届くまででも2日程かかるのに、それでは私は、300頁もの原稿の校正に3日もかけられないことになる。そもそも、後から校正でいくらでも直せるからとせかされ、不本意な原稿のままゲラ刷りに出したのに。

5. 最終的に製本されたものには、結局4か所の重大な校正ミスがあった。所詮は素人相手で、それなりにしか仕事をしてもらえなかったのかと思う。

私は悔しかったが、どうしようもなかった。せめて次の為にと、文部科学省認定社会通信教育「公正実務講座」を受講した。二度と屈辱的な扱いを受けることのないように。

教材が届いた数日後、父が急死した。
一人になった母を助ける為、私は実家に戻り、通夜や葬儀などを終えてから、アパートを引き払って実家に引っ越した。
私は鬱になった。中学生の頃から父に疎まれることの多かった私は、死に目に会えなかったことで、胸に大きなしこりが残った。既定の半年では講座を終えられる見込みがなく、3ヶ月の延長を申請し、死に物狂いで講座を終えた。

中学時代の同級生が、私の才能(有るか無いかは別として)を役立てたいというので、同窓会ホームページに、元同級生達を主人公や敵役脇役にしたライトノベルを連載した。ギャグ満載のライトノベルは初めてだったが、あふれ出る言葉を驚異的スピードで紡ぎだし、好評だった。
連載終了後は、別の元同級生に頼まれ、別の筆名で、ライトノベルではない不思議物語を連載した。ランキングではいつも上位になっていると元同級生には言われた。

母の認知症を見過ごせなくなってきた頃、東日本大震災が起きた。
私はニュース映像でしか見ていない。それでも、書けなくなった。書きたいと強く願う内容はいくつもあり、気持ちもあった。けれど書こうとしても、真実に程遠い絵空事に思えて、書き綴ることが出来なかった。
そして、母の認知症が重くなり、壮絶な介護生活が始まった。
家族介護者の中には、介護の実態をブログや書籍で公開している例も多いようだ。私にはそんな余裕は無かった。介護だけで精一杯だった。月に一度もパソコンを開けなかった。

今もTVで震災の映像が流れると、私は涙がこぼれ、正視できない。自分が体験したわけでもないのに。

全て言い訳にしかならない。

実際に候補となりながら落選した方々の悔しさは、私には推し量ることもできない。
皆きっと、命を削って書いているから。
報われるのは、一握りの才能の持ち主だけ。

それでも、この受賞者発表の時期になると、私には苦い記憶が蘇る。
多くの人は時間と共に記憶が薄れゆくのだろうと思うが、自閉症ゆえに、私の記憶は少しも薄れない。記憶と共に、その時の想いも全て。

豪雨災害に認知症の母を想う2020/07/10

柏葉紫陽花(スノーフレーク) もうすぐ花の季節も終わる
今朝目覚めると、天気予報とは違って雨がやみ、わずかに薄日が差していた。
チベット高気圧と太平洋高気圧に挟まれた梅雨前線は、もう7日間も停滞しているらしい。そのせいで「令和2年7月豪雨」は、九州のみならず列島全域へと被害を拡大させつつあるようだ。

被災地のニュースを見ると、本当に辛くなる。浸水した施設で亡くなった高齢者の方々、一度は避難しながら家に戻り、奥様が息子さんの骨壺を抱いて亡くなられていたというニュース。胸が締め付けられる。
そして、施設の高齢者が自衛隊員に抱きかかえられて無事に救出されたというニュース。見るたびに涙があふれ出る。私には、自衛隊員に抱きかかえられた白髪の高齢者が、どうしても自分の母親と重なってしまうのだ。

もう8年程も前になるが、母に認知症の兆候があることはすぐに気付いた。
かつて高等学校教諭だった私は、家庭用ノートパソコンが普及し始めたWindows3.1の頃には生活情報化設置準備のために3か月間の内地留学を命じられ、新学科設置の責任を果たすとすぐに異動を命じられて、次には介護福祉士養成のための福祉学科で生徒に指導するために医科大学での2週間の集中講義等を受け、生徒の実習先である老人介護施設等へも頻繁に訪問していた。
教育委員会や学校の都合で、私自身には何の打診もなく、パソコン、次には福祉と、時代のニーズにそった教科を担当することになってしまい、苦労の連続ではあったが、全て自分の役にも立ち、幸運だったとも言える。そのおかげでパソコンが扱え、高齢者の病気や介護保険制度に関する知識もあったのだから。

母は、特定検診でコレステロール値が高めだと言われただけで食欲を無くしてしまうほどだった。母の心を傷付けずに在宅介護サービスに繋げるには半年を要した。母は予想通り要介護1で、膝関節変形症などの薬のほか認知症の進行を遅らせる薬も処方されるようになったが、やがて要介護2となり、生活の全てに見守りと援助が必要となった。
母はデイケアでの入浴を嫌がったので、私が汗だくになって入浴させ、私自身の入浴は母が寝入ってから5分ほどで済ませた。母がいつ目を覚ましてトイレを探すか分からなかったからだ。
二年目には薬の副作用で内臓も弱り、救急搬送を依頼して2か月も入院生活を余儀なくされ、私は毎日面会に行って、病院では不十分だった歯磨き目薬などのケアをした。
退院後は、せん妄や徘徊などの症状も現れず、再びデイケアにも通えるようになったが、安心も束の間、認知症は進行して要介護3となり、体調も再び悪化した。
体調が悪いと、デイケアもショートステイも断られる。私は24時間付ききりとなった。母がデイケアに行っていた頃は、迎えが来て送り出し、送られて帰宅するまでの6時間に家事を済ませ買い物に行き足りない睡眠を昼寝で補うことも出来たが、それも出来なくなった。
昼は転倒しないように気を配り、トイレを探す素振りを見せれば連れて行き、好物の柔らかく食べやすい食事を用意し、夜間は数時間ごとに目を覚ます母に対応し、トイレに連れて行き、汚したパジャマを着替えさせ、トイレを掃除し、漸く眠っても、すぐに目を覚まし、部屋の明かりが気に入らないと言い、消すと今度は暗いと言い、寝てくれなかった。一晩に8回もトイレに連れて行った。母は私を起こさない。起こすことを思いつけない。だから私が気配で察し、「お母さん、どうしたの?トイレ?」と声を掛けるのだ。母自身が悪いわけではなく全ては認知症のせい。私は決して母を責めはしなかった。
私自身は眠る時間もなく限界になっていた。寝てくれない母を残して寝室の戸を閉め、真夜中の廊下で泣き叫んだ。それから涙を拭き、寝室に戻って母に添い寝し、肩に手を置いて優しく子守唄を歌った。

地域の病院は当てにならず、隣の市にある認知症指定病院の予約を取って受診し、2回目の受診を待たずに、止まらない下痢や嘔吐のために母は入院することになった。
全ての薬を中止して経過観察をすること3ヶ月、母の体調は良くなったが、認知症は更に進行した。勧められるまま、同じ敷地内にある介護老人保健施設に入所した。
けれど、私はあの時の選択を後悔している。
病院や姉の反対を押し切っても、母を連れ帰り、あの時に小規模多機能型居宅介護を選択すべきだったと。

カンファレンスで聞く説明とは裏腹に、体力も弱って表情も虚ろになっていくように見えた母。面会に行くと、汚れた服を着ていることも多く、私が着替えさせたり、着替えを頼んだりした。適切なトイレ誘導がされず、汚れたままの紙オムツが何時間もそのままだったりしたようだった。ズボンの洗濯物が半端なかった。時には1週間で16枚も。

地域包括支援センターに相談の電話をするも相談自体を拒否され、しばらくは私自身に様々な病気が表れて動けなかったが、事態は深刻さを増し、私は自力で母のための施設を探した。地域包括支援センターが提供してくれない資料をインターネットでダウンロードし、その資料を基に条件に合いそうな施設を丹念にネットで検索して探し出し、詳細情報をプリントアウトして電話でアポを取り、見学に行った。介護体制や職員の人柄は勿論大事だったが、それらがどんなに良かったとしても、私には外せない条件があった。

高齢者施設は、ハザードマップ浸水域にあることも珍しくないのだ。土地代が安く、利用料を押えられるからだ。そして、見学に行ってみると、浸水域であるにも関わらず、かさ上げ等の対策はおろか、水害時の避難先など対応が未定という施設さえあった。
自力での避難が不可能な母のケアをお願いする施設は、ハザードマップ浸水域ではなく、万一の時には垂直避難が可能なこと、それは私の中で絶対条件だった。

事情により1か月の間で4回も施設が変わるという事態になってしまったが、幸いにして、全ての条件を満たすグループホームが見つかり、奇跡的なタイミングで待機者のキャンセルがあって、早くても3か月待ちと言われるのに見学した当日に入所が決まって、母は今、そのホームで笑顔で暮らしている。

私は、本当は支援を受けながら在宅で母の介護をしたかった。もう一度、母に自宅での日々を思い出してほしかった。私を思い出し、笑顔で名前を呼んでほしかった。
けれど、私はそれらを諦める決断をした。

母を自宅に連れ帰った数日間、気分が良ければ手を引いてトイレに誘導でき、美味しそうに食事をし、ちぐはぐな言葉に相槌を打っていると笑顔があふれ、時折は話がかみ合って、また笑顔となった。けれど、母の気が向かなければ、着替えもトイレ誘導も出来ず、母に辛い思いをさせるだけだった。紙オムツが汚れても分からずに交換を嫌がる母を、私では幸せにしてあげられなかった。
母の幸せは、自宅や私を思い出すことではない。毎日を笑顔で穏やかに暮らせることなのだ。

「いくら支援を受けても、要介護5のお母さんを在宅で一人で介護するのは無理ですよ。要介護3でもです。うちでは3人がかりですよ」
そう話す担当の介護士の前で、私は涙をこらえることができなかった。
介護のプロでさえ3人で行う介護が、少しばかり知識と技術があるだけの私一人に出来るわけがなかった。

水害の中、自衛隊員に抱きかかえられて無事に救助される白髪の高齢者。
私は、自分で介護することの叶わない母を想う。
私自身の体調悪化とコロナ禍で、半年も会うことが出来なかった母。先日、要請のあったタオルケット等を持って行った際に、食堂でTVを見ている母を、離れた戸口から眺めた。見違えるように快活になり、隣の席の入所者と笑いあっていた。
以前よりスムーズに介護出来るようになったと聞いた。
再び私の名前を呼んでくれることがあるだろうか。

半夏生が過ぎ、雨の七夕も過ぎて、今日、庭でニイニイゼミの初鳴きを聞いた。しばらくして止んだと思ったら、再び雨が降り出した。

今朝の収穫と豪雨に思う2020/07/08

ベゴニアと今朝の収穫
依然として大雨雷洪水注意報発令中だった。
ニュースを見ると九州各地の水害で辛くなるので、まだ体調は悪かったが、雨の止み間に青ジソを収穫することにした。虫に食べられる前に。

私は子供の頃から低気圧に弱い。一昨日だったか、大雨警報と竜巻注意情報が出された日の朝、起床時から具合が悪かったが、要介護5の母が入所中のグループホームよりタオルケット等の要請があり、幸い午後から日差しもあったので、新しいタオルケットは吸湿性が良くないので洗濯し、十分に乾かなかった部分はドライヤーで乾かして、夕方に持って行き、くたくたに疲れ頭痛も酷くなって、夜遅くまで食事も入浴も出来ずに横になっていた。
それ以来、体調が整わず、花や木や野菜の手入れがほぼできない。
もともと4月以降体調を崩しているのだ。コロナ禍もあって。

まだ母が比較的元気だった平成13年4月に、私は家の東側に小さな畑を作った。コチコチに踏み固められた砂利だらけの場所をスコップで掘り返し、父がコンクリートを張った部分も取り除き、溝を掘ってコンクリートブロックを並べ、1ヶ月近くもかかってコツコツと手作りした半坪程の小さな、畑とは呼べないほどの畑。そして、軒下のプランタースタンドや犬走などに並べたプランター。それらが私のミニ農園。

勝手口から外に出ると、滴る木の葉に触れて肩が濡れる。零れ種からどんどん増えるベゴニアが、雨に洗われ美しい。
雨の間に虫に食べられたのでは?と心配していた青ジソは無事だった。ピンと勢いがあり、手で摘むと、とても爽やかな良い香りが広がる。けれど、日照不足のせいか昨年に比べて葉が薄く柔らかい。
ついでに、赤くなったミニトマトが少しあったので収穫したが、やはり日照不足のせいか、熟すのが遅い。

早く梅雨明けして欲しい。
けれど、すぐにまた台風の季節となる。日本は災害列島。
しばらく雨は要りません。地震起きないで。台風も列島を避けて下さいと祈るばかりだ。

水害に合われた方々は、命のあった方々は何よりだが、一瞬にして全てを泥水に奪われた喪失感は如何ばかりかと思う。
仕事の機械や車、家財道具や思い出の品々、丹精込めた花や木や野菜。ニュースによると、目の前で家族が流されてしまった方もおられるという。

私自身の今の生活は、幸せには遠いけれど、それでも、住む家があり、食べ物も衣類もあり、庭に出れば花や木や野菜に癒されることができる。このささやかな幸せに今は感謝しよう。災害が起きれば、一瞬にして失ってしまうかもしれない儚い幸せだけれども。

今朝の収穫で冷や汁を作り、おいしく頂いた。