変な夢を見た2021/03/25

数年前から庭に沢山咲くようになったタンポポ
変な夢を見ることが多いです。
子供の頃から、私の見る夢は総天然色、カラー。
映画のような夢を見ることも有れば、
夢の中で漫画を読んでいることもある。

昨日の仮眠の夢はただの日常だったけれど、
今朝の夢は訳の分からない変な夢。


昨日は朝目が覚めた時、だるくて眠くて身体が動かず、
それでも起きてお湯を沸かして仏壇にお茶と水を上げて、
朝食を作って食べて、半分しか食べれず、

パソコンを開いて

でも、だるさ眠さは解消されず、

一応、昼食を少し食べて

でも、だるさ眠気は覚めず、
TVでニュースやデータ放送や情報番組を見ながら
お昼寝でもと思ったけれど眠れず。

電話がなったので出ようと思ったけれど、
スマホかと思ったら違ってて、電話の子機かと思ったらテレビドアホンの子機で、
やっと電話の子機を手に取ったけれど頭が働かず
留守録に切り替わって「また電話します」
通話ボタンを押そうと思ったんだけれど、慌てたら
「あれ? どうやって通話するんだっけ?」
間に合いませんでした。


トイレに入っている時に限って電話や玄関のピンポンが鳴ったり、
庭に出ている時に限って電話があったりするので、

スマホ、テレビドアホンと電話の子機という3点セットを小さいカゴに入れて、
家ではいつも傍に置いているのですが、慌てると違うものを手に取ってしまったり。
失敗失敗。

そのあと、ようやく10分ほどお昼寝できたけれど、
その時の夢に両親が出てきました。

10年ちょっと前に亡くなっている父と
グループホームに入っていてもう1年以上会っていない母。

2人がまだ元気で、
食事の支度をしなくてはと思ったけれどご飯を炊いていなくて
電子レンジ用ミニ炊飯器を食洗器から出そうと思ったけれど、
数時間吸水させないと芯が出来てしまうので間に合わない、
どうしよう、ああそうだ、IH電気炊飯器を使おう、
と思ったところで目が覚めました。

体調はその後も悪くて、
10分ほどの仮眠をしたのに全然眠気も覚めず、
食欲も全く無かったのでバナナ1本だけ食べてそのまま再び寝てしまい、
とうとう夕食を食べませんでした。


今朝も変な夢を見ました。

コタツに入って母が寝ているので、私が枕代わりに使っているでっかいクッションを持ってきて上げて、そしたら母が動くので、またクッションを当て直して、
その後で掃き出し窓の所の掃除をしようとしたら、
何故か庭に出ていて、
庭がコンクリート張りになっていて、
振り返ると、家が、5階建てくらいの灰色なマンモス団地みたいになっていて、
私は箒をもってコンクリートの駐車場を掃除しようと箒を持ったら、
駐車場の中ほどの東の隅に群青色っぽい5cmほどの丸い石が落ちていて、
少し離れた所には20cmほどの角の丸い三角な灰色の石が落ちていて、
拾ってみたら石をくりぬいた器になっていて、
青いバケツに目をやると、
緑色のアブラムシのような小さな卵が産みつけられるところで、
薄いまゆに包まれた白っぽい幼虫も2匹くっついていて、
持っていた箒でこすり取ろうとするのに取れなくて……
という訳の分からない夢でした。

やっぱりダルクて眠くて起き上がりたくなかったけれど、
食料品の買い出しに行かなければならなかったので、
起きてお湯を沸かして、仏壇にお茶と水、
100%トマトジュース(無塩)を電子レンジで温めて、
オリーブオイルとレモン汁を1滴入れて飲んで、
富士リンゴ半分と、ミルクコーヒーと、
買い物に行くのに気が急いたのでチョコパイ。

買い物はさっと済ませて、
お昼は、キャベツと人参と豚肉を炒めて、
中華スープの素とウスターソースと料理酒と煮干しだしの素でスープを作って、
ちゃんぽん麵を入れて、
ちゃんと食べました。

昨日の電話を待っていたけれど、電話は無かったです。
明日、連絡してみよう。

コロナ禍の外出自粛で何処にも行かないし、誰も来ないし、
一昨日は久しぶりにミニ畑の手入れをしたけれど、
すっかり意欲が低下して何をする気にもなれないので、
見る夢も暗いのかな。

新年おめでとうございます2021/01/01

新年おめでとうございます
コロナ禍だし、あまりおめでたくはないと言う方もおられるかもですね。
私自身も全然おめでたくはないけれど、地球が無事に新年を迎えられたことに感謝を。

変異ウイルスの猛威もあり、感染拡大に歯止めがかかりませんね。医療従事者の皆様の捨て身の努力により何とか持ちこたえられていることに、心からの敬意を。

ワクチンも次々に承認を受けて、日本でも2月から接種が始まるとか。
特異体質の私はワクチン接種は無理ですが、
ワクチンの効果で一日も早く今の状況が改善され、世界中の人達が、安心して楽しい日常に戻れますように。

私の母は要介護5となって自宅介護が不可能となり、令和元年11月半ばにグループホームに入りました。
その後、インフルエンザ予防の為に面会ができなくなり、次には新型コロナウイルスで面会禁止となり、もう1年以上母と会えていません。

世界が平和になりますよう、心からの祈りを。

そして、数年に一度の最強寒波が来襲中ですが、豪雪地帯の皆様、どうぞこの冬を無事でお過ごしください。
雪の無い地域でも、どうぞ寒波にお気を付けください。

穏やかで暖かな平和な春を待ち望んで。

寒波に思う母の入浴2020/12/26

昨年は暖冬と言われ、それでも寒いと思ったけれど、今年の寒波は数年に一度の最強寒波らしい。
雪で関越自動車道に取り残された車に乗っていた人達からは、体調不良者は出ても、どうやら死者は出なかったようでほっとしたけれど、屋根からの落雪や雪かき中、雪下ろし中の事故などで、何人もの方が亡くなられたことは、本当に痛ましく思う。
私などは、雪国ではないので、たまに雪が降っても、少し交通が麻痺する程度だけれど、雪国に住む方は、この冬をどうか無事に過ごしてほしいと願うばかり。

雪は滅多に降らない地域に住んでいるけれど、それでも、冬のこの時期は、近くの山から吹き下ろす北風で、外は凍える寒さとなる。
特に、冬の夜の浴室は寒い。

母の介護をしていて、母が一人で入浴できなくなり、始めは一緒に入浴していたが、それも無理になって、私はTシャツ短パンの軽装で母を入浴させ、身体を拭き、髪を乾かし、服を着せた。
冬、風呂場が寒いと母が何度も言った。確かに、その年の浴室は、例年になく寒かった。
窓の外を北風が吹き抜け、保温にしてもお湯がすぐに冷めて、浴室の床は冷たくなり、お湯に浸かっていないと体が凍えた。

家を新築する際、母は浴室暖房乾燥機を希望したのだが、父が不要だと言った為に、うちの浴室は温めることが出来なかった。
私は、母の為に、浴室と寝室のリフォームを計画し、住宅業者に相談した。
ところが、業者は忙しかったのか、リフォームはあまり儲けにならないと考えたのか、全然返事をくれなかった。

母がデイケアに行っている時間を利用して、私は再度業者に連絡し、その業者も含めて4業者に見積もりを取り、計画を進め、業者を決定しようとしていた矢先、母の健康状態が急激に悪化した。認知症も急速に進んだ。

もういよいよ救急搬送しかない状況に追い込まれ、私は半分泣きながら姉に電話し、母は、救急搬送先での入院を余儀なくされた。
病院は、完全看護と言いながら、介護の面は全く不十分だった為に、私は毎日病院に通い、病院の不足を補った。住宅リフォームどころではなくなった。
業者には、訳を話して計画を中断した。

その後、母は、一度は退院して自宅に戻ったが、体調悪化によりデイケアに行っても帰されたり、ショートステイも断られたり、認知症の進行により母がデイケアに行きたがらなくなったり、私が毎日一日中母の介護をするようになった。
私は、夜も母に付き添い、ほぼ寝る時間もなくなった。

母が一旦回復して自宅に戻った為に、姉は心配いらない状況になったと思ったらしく、姉に電話をしても状況を理解しなかったのか2週間たってもそのままだった。
いよいよ困り、再び半泣きで姉に電話した。母を私一人で隣の市の認知症専門病院に連れていくことは不可能だったのだ。

母はそのまま入院した。
私は、母が再び自宅に戻る日の為に、中断していたリフォームを再始動した。
相談相手も無く、全て一人で考え、調べ、交渉する。
それは大変ではあったけれど、その最中は、ただその事だけに集中すれば良かった。
哀しみも苦しみも置き去りにして。

業者を決め、リフォームの詳細を決め、渡されるカタログから部品や製品を選ぶ。日程を調整し、工事開始日と終了予定日を決める。
リフォームに関わる室内外の荷物の片付けと、庭木などの整理。テラス設置場所の庭木の撤去を業者が出来ないと言うので、年末、私が自分で撤去した。作業着と防寒着を着て、ノコギリで切ってスコップで根を撤去した。

リフォーム中は、極力、作業を見守り、時には簡単な手伝いもし、1日に2回のお茶とお菓子を出した。作業を見守った理由は、目を離した間に手抜き工事をされては困るからだ。正解だったと思う。
新築後十年ちょっとの住宅だったが、台所のリフォームでシンクを撤去したところ、間違って開けられた穴が、塞がれないまま残っていた。同じようなことがあっては困る。

私が片時も目を離さないとも言えるくらいだったので、工事担当者はやりにくかったかもしれないが、お茶やコーヒーやお菓子は存分に出し、親しく会話もし、大工さんや壁紙屋さんや左官屋さん達の技術は惚れ惚れするほど素晴らしく、私が感嘆の声をあげると、とても喜んでくれた。
だから、細かいところも注文することが出来、一生懸命に私の注文に応えてくれた。

毎日のリフォーム作業後、掃除はするけれど、室内は埃っぽく、私がもう少し年をとっていたら、見積もりや計画や荷物整理ももちろん大変だったけれど、埃にまみれた生活と、作業中の騒音に、きっと耐えられなかったと思う。今なら、もう耐えられない。

リフォームに当たっては、工事車両や騒音など隣近所に迷惑をかけるので、事前に挨拶に行ったが、
「お母さんの為にそこまでしなくても、あと何年かも分からないのに」と、心無い言葉も聞いた。
「私自身も、やがて年をとりますから」と答えた。
リフォームには大いに満足している。大変だったけれど、して良かった。
ただ、思うのだ。もう少し早く、母が介護状態になる前にしておけば良かったと。

浴室のリフォームは、当初は浴室暖房乾燥機能の物に取り替えるつもりだった。
ところが、介護するのにふさわしいものが無かった。
手すりは洗い場と浴槽の前で連続しておらず、手をいったん放して持ち替えなければならない。浴槽に入る為に一度腰かけた状態で足を入れられるようにしたかったが、台があっても、腰かける過重には対応していないという。湯船は、持ち手が2つから1つに減っていた。
わざわざリフォームする利点が何も無かった。
大工さんが教えてくれた。寒さ対策なら、二重窓にするのが一番だと。
うちの硝子窓は断熱ペアグラスだったので、浴室も当然そうだろうと思っていたら、浴室の窓ガラスは違うという。
私は、半信半疑な面もあったが、大工さんの進言に従って二重窓にした。他はそのまま。

嬉しい驚き!
浴室は、大工さんの言葉通り、段違いに暖かくなった。二重窓の間の空気の層が、外の冷たい北風から守ってくれた。二重窓の内窓を開けると、外側の窓は閉まっているのに、冷蔵庫のように冷たかった。
ああ、お母さんがいる間に、二重窓にしておけば……。

母は、退院後、病院の隣の介護老人保健施設に入り、何度か自宅に連れ帰ったけれど、とても私が一人で入浴介助できる状態ではなく、だから、温かくなった浴室を、母は知らない。

リフォーム後、冬に入浴するたびに、私の胸を小さく刺す棘。
お母さんを、この温かくなったお風呂に入れてあげたかった。

不運多過ぎ人生2020/12/25

幸運な人、不運な人っているのだろうか。
幸運も不運も本人の捉え方次第と言う人もいるようだ。
幸運と捉えれば未来が開けるし、不運と捉えればそこまでと。
「人生万事西欧が馬」ってことわざもある。

でも、やっぱり私は、ちょっと不運多過ぎじゃないかって思ってしまう。

生まれた時、仮死状態だった。お腹の中に2週間も長くいて、臍帯つまりへその緒が首にグルグルと2回巻き付いていて、足をもって逆さにして背中をバンバン叩いて、初めて産声を上げたのだと、幼い頃、笑い話のようにして聞かされた。

私が生まれて1週間後くらいに、4歳半ほど年上の姉が父に連れられて初めて面会に来たそうだが、父がふと気付くと、生後間もない赤ちゃんの私が、口をモグモグさせていたという。なんと、姉が、自分が持っていた飴玉を、生後間もない私の口に入れたのだと分かり、慌てて取り出したという。姉は可愛い妹に美味しい飴玉を食べさせようとしただけで、目を離した大人達が悪い。
私は生まれた時も仮死状態だったのに、生後1週間で再び死ぬ目にあった。

私がこんな風に昔のことを語れるのは、成長してから聞かされたからではなく、2,3歳頃からの鮮明な記憶を持っているからで、出生時の事は幼児期に親から聞いて知っていたが、親は笑い話のように語っていたので、私も「へぇーそうだったんだ」くらいの認識しかなかった。
それが実はとても危険な事だったと知ったのは、大学で「小児保健」という授業を受けてからだ。死亡に至らなかったとしても、小児まひや知的障害など、心身に影響を及ぼす危険が高かったのだと初めて知った。

私は、幼いころ、暗がりに不思議なものを見ていた。とても綺麗で、虹色の様々な形のものがたくさんたくさん流れるように浮かんでいて、私はそれを掌で包んで捕まえることもできた。布団にもぐって、一番綺麗なそれを捕まえて、握った手の隙間から覗くと、捕まえたその綺麗なものが手の中にちゃんと見えた。
今は幼い頃ほどは綺麗ではないけれど、やはり暗闇は闇ではなくて、カラフルな虹色の模様で溢れている。
小学校の低学年で気付いたのは、明るい所では透明なシャボン玉のような〇が空中を動き回っていることだ。参観日で授業は早く終わり、母親は懇談会に出ていて、一人で南向きの和室でぼうっと宙を見ていて気付いた。空気が見えるのかな、と思った。
大人になって分かったのだが、私には五感全てに強い感覚過敏があり、目に見える世界が普通ではなかったらしいのも、感覚過敏によるものだった。匂いにも敏感だったし、他人に触れられるのも苦手だった。

中学生になって自転車に乗れるようになって気付いたのは、目の中に細い線路のようなものが見えることだった。視線を動かすと付いてきて、それが何なのかは分からなかった。
成人して家庭の医学を読んでいて、胎児期に網膜内の血管が消えずに残ることがあると知った。それのようだった。数年後に眼科を受診したが、やはり飛蚊症などの異常ではなかった。
なぜ読んでいたかと言うと、最初のページから最後のページまで読んだからで、小学校の頃から、教科書なども配布されたその日に全部読んでいた。
その家庭の医学を読んでいて、「卵巣嚢腫」という病気が目に留まった。胎児期に卵巣の中に表皮細胞が入り込み、成長とともに毛髪や脂肪や爪になって肥大し、重みで卵管を引っ張り、撚れることで激痛を起こすと書かれていて、これはもう30年も昔の記述だから、最新の医学書では違うかもしれない。

えーっ、卵巣の中に髪の毛や脂肪や爪が詰まっていたら気持ち悪いなあ……と思っていたら、その1年後くらいに、まさに私自身がそれであることが分かり、左側の卵巣を摘出した。
最近再放送されたグッド・ドクター第7回に出てきた伊代ちゃんが、たぶん同じ病気だったと思う。私の場合、摘出後に検査に回されたが、幸いにも悪性ではなかったようだった。
(この記事は、ブログを中断していた7月半ばに書き、投稿していなかったものです)

20代の若さで卵巣を片方だけとはいえ失ってしまう哀しみ。しかし、誰も分かってはくれなかった。特に年配の女性職員は「手術といったって子宮口から出来るから簡単でしょ」と冷たく、「お腹を切ります」と答えても無神経な態度や言葉は変わらず、入院や手術のための仕事の調整を泣く泣く自分でやっていたら、ようやく一人の人が「それはあなたのやることじゃなくて私達のやること」と言って代わってくれた。
最初に受診した近所の婦人科では「子宮筋腫」と診断されていて、治療などだんだん信用できなくなり、遠くの婦人科で「子宮筋腫じゃないよ」と言われて初めて発覚した。
私はその数年前から度々ひどい腹痛を起こし、救急搬送され、胃カメラまで飲まされて、「異常なし」で帰されたこともあり、やっと腹痛の原因が分かったのだった。
手術当日のこともよく覚えている。手術室で自ら全裸になって手術台(分娩台)に横たわらねばならず、音楽は掛かっているし、胸部麻酔ですぐに意識は朦朧となったけれど、冗談を言い合ったりしているのも聞こえて嫌だった。「卵管は温存」と言われたのは強く印象に残っている。
手術後、両親の顔を見ると、張り詰めていた気持ちが切れ、私はワアワア泣いてしまった。そして、麻酔が切れると、地獄のような痛みが待っていた。
回復し、自宅療養中に一時実家に戻っていたが、手ぶらで顔を出した義理の兄は、見舞いを言うでなく「へえ、痩せたね。やっぱ大変じゃったっちゃね」と言っただけだった。

回復してからも、私はとても疲れやすく、たびたび倒れて、職場でもベッドで休ませてもらったりした。浮遊感のあるめまいにも悩まされ、緊張をほぐす漢方薬など処方された。

子供の頃から呼吸器系が弱く、たびたび肺炎や気管支炎、胸膜炎になった。

職場のレクリエーションでバレーボール大会に参加したところ、膝をひねって半月板損傷となったが、担当者が保険に加入するのを忘れていて、保険金が貰えなかった。
町内唯一の総合病院に行ったが、炎症により溜まった水を抜くだけという10年遅れの治療をされ、何年経っても痛みが無くならず、歩いていると突然膝がガクンとなった。別の病院で、スポーツをするなら手術しなければならないと言われた。

病気ではないのだが、祖母が亡くなった際も厚生担当者が忘れていて「弔電」を貰えなかったことがある。私の祖母が亡くなって2週間ほど後に別の職員が朝礼時に「この度は祖母の葬儀で弔電を頂き、有難うございました」と挨拶したのを聞き、「えっ、弔電なんて私もらってないけど?」と思っていたら、厚生担当者が跳んできて「ゴメ~ン。あなたの時は忘れてたぁ」と言われた。
ゴメンで済む? 私は職場の皆に、弔電を貰っても挨拶もできないダメ人間と思われたに違いないのだ。
どうも私は運が悪いらしく、数えたらきりがない。多過ぎて、とても書ききれない。

若い頃からの無理(生活のため肉体労働など)がたたってか、悪い左膝をかばってしまうせいか、右足は進行性膝関節症になり、一時期は歩くのも困難だった。体重は軽いのに。

体質に合わない薬が多くて副作用が出やすく、高熱で点滴を打った際には、何かの薬が薬を点滴に足された途端にひどい吐き気で苦しみ、その足した薬を抜いたら治まった。吐き気止めの薬だと言われた。吐き気止めで吐き気が強くなったのだ。
他にも、「きんぴらごぼう」にはまり、唐辛子は1本だけでそれほど辛くしなかったのに初期の痔になり、専門医に処方された薬で治るはずだったのに、薬を塗ったらヒリヒリして、翌日にはひどく悪化して手術する羽目になり、2週間分の薬は体質に合わなかったのに返品できず、さらには、当時の私は歯科の麻酔さえ炎症を起こしていたために局部麻酔は使えないと言われて全身麻酔での手術となった。

飲み薬にも合わない物が多いし、初めはよくても、使っているうちに副作用が出てきて使えなくなる。副作用が殆んどないという薬でも副作用が出てしまう。薬だけでなく、化粧品も、塗った瞬間からヒリヒリするものが多く、今は通販で無添加の肌に合うものが見つかって助かっている。どうも私は、体の中も外も過敏すぎるようだ。

甲状腺の病気である橋本病であることも分かった。橋本病とは、自己免疫疾患の1つで、甲状腺機能が低下することにより全身の代謝が低下し、身体活動と精神活動が全般的に活動的でなくなり、疲れやすく、鬱になったりもするらしい。

母の介護をするようになって数年して、体中の痛みや起床後の手足のこわばりなどの症状が出るようになった。動き回っていると痛みやこわばりもなくなるし、母の介護のために自分のことは全部後回しだったので、母の状態が悪化して入院し数か月してから、漸く自分の症状について調べて間接リウマチを疑い、リウマチを見てくれる整形外科を受診し、神経障害性疼痛と診断された。
ところが薬が体に合わず、2回目に処方された薬の激しい副反応で救急搬送されることとなり、複数の病院に拒否されて最後に県立病院に受け入れられたが、病室に空きがなかったらしく、二日目は何の説明もなく運ばれた病室が、会話の内容から察するに重症癌患者の病室で、肩身の狭い辛い夜を過ごし、しかも、救急外来との間で申し送りが無かったらしく、当直の看護師に訴えても「聞いていない」の一点張りで入眠剤ももらえず、明け方まで一睡もできない苦しい夜を過ごさねばならなかった。

母は入院中から徘徊などの症状が悪化し、同じ敷地内の介護老人保健施設への入所を勧められたが、体調は良くなったものの認知症は進行し、それなのに、一年も経つと、状態が良いから今のうちに在宅へ戻れと面会の度に言われるようになった。
その秋、地域包括支援センターに相談の電話をしたが、「インターネットで見られる情報以上に提供できる情報はない。結局は家族が自分で見学して決めることだから」と、相談を拒否された。そのショックで、私は数か月間体調を崩し、外出もままならなくなった。

翌年の7月、40度近い高熱で、動けなくなった。お独り様のために自分でどうにかするしかなく、買い置きの経口補水液ゼリーや薄めたスポーツ飲料を飲みながら、2日後に熱は微熱にまで下がったが、頭痛や倦怠感、咳は治らなかった。
また肺炎か気管支炎かと思い、行きつけの内科を受診したら、好酸球性副鼻腔炎と診断され、さらに数日後には激しい喘息の発作を併発して夜も眠れなくなった。

その数か月後、要介護5となった母を、ようやくグループホームに入れることが出来て安心したのも束の間、突然左耳が聞こえなくなり、突発性難聴になった。

そして、NHKの発達障害に関する番組を見てまさに自分だと思い、自分は自閉症スペクトラム障害に違いないと思っていたのだが、受診の結果、高機能自閉症と診断された。
私には五感全てに強度の感覚過敏があり、記憶をたどると幼児期にすでにあったが、自分も周囲も気付いていなかっただけだったと分かった。五感全ての感覚過敏だけにとどまらず前庭覚過敏もあるし、聴覚情報処理障害もある。詳細はとても書ききれないので、別の記事で。
つまり、私が無口でノロマダだったり、運動音痴だったり、疲れやすいのを我儘や怠惰に思われたり、ゴーイング・マイウエイと言われたり、生き辛い日々を送らねばならなかったのは、自閉症スペクトラム障害や感覚過敏によるものだった。
その上、IQが高く、脳の情報処理速度が速い為に、周囲の人達とのずれが生じる。まさか自分のIQが高いなんて知らなかったし、どうせなら、IQ150とか180とかなら超越できたかもしれないけれど、130程度では中途半端すぎる。

高校を卒業して自炊するようになってから、健康や食生活には人一倍気を付け、高校卒業時の体重をほぼ維持しているし、たまに貧血や過呼吸を起こす以外は健康体だと自負していたのに、いくら何でも病気や障害の数が多すぎないか?

出生時に仮死状態だったこと
幼児期から感覚全てに強い感覚過敏があること
網膜に血管が残っていること
卵巣嚢腫(皮様性嚢腫・奇形腫)による20代の若さでの卵巣摘出
聴覚情報処理障害
橋本病 → 経過観察中
神経障害性疼痛 → 2つ目の薬の副反応で救急搬送。治療断念。
好酸球性副鼻腔炎(喘息併発) → 薬の副反応で治療休止
突発性難聴 → 一応の回復はしたが、聴覚過敏増強
自閉症スペクトラム障害(高機能自閉症)
金属アレルギー(鉄、プラチナ)
体の中も外も過敏すぎるのか薬の副作用が異常に強く、使えない薬が多いこと

これ全部、自分自身ではどうしようもないものばかり。

いくら何でも、一人の人間に多すぎるような気がするのだが?

髪を切りました2020/12/18

1週間ほど前、髪を切りました。

ヘアドネーションしようかなと、4月以降伸ばしていたのですが、小説を書いていると、つい神経質になって、自傷行為で抜いてしまいます。
髪を抜く自傷行為は、以前の記事にも書きましたが、大学1年生の頃からです。

なので、夜に入浴する前、思い切って、髪切り鋏で自分でバッサリ切りました。20cmちょっとくらい。
後ろ髪はバラバラだけど、どうせコロナ禍でほぼ外出しないので、別にいいや。
昔よく自分で髪を切っていた頃もあったけれど、去年までの10年間くらいは美容室に行っていたんですけどね。
元々出無精なんだけれど、コロナ感染も怖いし、外出自粛生活で、ますます外出がおっくうになりました。

母の髪を、母が施設に入ってもずっと私がカットしに行っていたので、自分の頭をテーブルの上にでも置けるなら、セミプロ並みの腕はあると思うのですが。


母は、7,8年前に、美容室に髪のカットに行ったら、顔の染みの事を美容師に言われて、それ以来、美容室に行くのが嫌になり、だから私が髪をカットしていたのです。

美容師は悪気は無かったのだろうけれど、うかつ過ぎですよね。
80歳になろうと、90歳になろうと、女性に顔の染みの事を言うなんて、傷付いて当たり前です。

「鼻の頭、それどうしたんですか?」って言われたそうです。

母は、鼻の頭にできた染みをとても気にしていたのです。
シミ取りクリームや染み隠しのコンシーラーを、私と買い物に行くたびに欲しがって、いくつも買ったのだけれど、すでに軽い認知症だった母は、買ってもほとんど使わなかったんですよ。
思い出すと、染みが気になって化粧品を買うけれど、家に帰ると、数日もせず忘れてしまう。
その繰り返し。



髪が短くなったら、軽くなったし、ゴムで結ぶ必要も無いので後れ毛も気にならないし、引っ張って抜くことも無くなりました。

執筆も順調です。
執筆活動の報告は、また別の記事で。

新型コロナ第三波、政府への提言2020/12/02

65歳以上の高齢者や基礎疾患のある人に対して、東京発のGo To トラベルの停止または自粛が決まったようだ。
私は全く評価しない。片手落ちもいいとこだ。
第三波に対して積極的な対策を行っていないという批判をかわす為の、形だけの対応としか思えない。

政府は経済を止めたくない。それは分かる。観光や宿泊、飲食、交通などの従事者の経済生活を守るために、Go To トラベルは一定の効果を上げているらしい。収入が無くなって事業が立ち行かなくなったり、中には絶望して死を選んでしまう例もあるらしいから、それは避けなければならない。

一方で、新型コロナウイルス感染による死者の増加や医療のひっ迫という現実もある。こちらも深刻。

両者を天秤にかけるわけにはいかない。どちらも守らなくてはならない。
そうであるなら、まずは感染拡大を止める対策を実行し、その上で経済支援に力を入れるべき。

65歳以上の高齢者と基礎疾患のある人のGo To トラベル停止または自粛というのは、本人たちの感染を予防する意味しかない。若い人たちがGo To トラベルによって移動すれば、移動した先で感染拡大を引き起こす。その対策は全く考えられていない。

私の住む県も急速な第三波に襲われているが、きっかけは、感染拡大する大都市との間の移動で、それがクラスターを引き起こし、今では感染ルートを追えない市中感染が急増している。

65歳以上の高齢者や基礎疾患のある人は、感染すれば症状が出やすいから、体調が悪くなり、多くはGo To トラベルを控えるだろう。もちろん、体調が悪いのを押して旅行して感染源となった例は過去にあったが。
若い人は感染しても症状が出にくいから、もし感染していても気付かずに移動し、移動した先で感染を広めてしまう。けれども、政府は、その事に対する対策を打つ気は全くないらしい。

私の母がお世話になっているグループホーム。第二波終息後に一度は面会制限が解除されたが、急速な第三波の拡大により、ついに再び面会禁止となった。
自閉症スペクトラム障害の上にコロナ禍によって社会から孤立してしまっている私は、情緒不安定で母に会うことは難しい。代わりに姉や姪が面会してくれていたが、それも不可能となった。

第一波よりも第二波よりも急激で大きな第三波。これが下火になったとしても、また第四波がやってくるに違いない。
ワクチン接種が広がり、感染拡大が抑えられ、万一感染したとしても重症化が避けられる、という状態にならない限り、平穏は訪れないのだろう。

道のりは長い。政策を打つ政府も大変なのは分かるが、それが出来なければ政府としての意味は無いに等しい。

眠そうな目での釈明は、もう見たくない。飽き飽きだ。
対面や保身を捨て、熱意あふれる瞳で、使命感を持って立場に関係なくリーダー達が一丸となり全力を傾けて、今こそこの難局を乗り切るリーダーシップを発揮して欲しい。
尊敬するに足る指導者であると証明して欲しい。
そして、国民が勇気と希望を持って頑張れる国にしなければならない。

上記とは別に、以下の提言をしたい。

早急に、年越し村の設置支援を!
このままでは年を越せずに自殺を考える人が急増する。
これとは別に、DVに悩む女性と、自宅を失った人の為の宿泊場所の確保を! 
観光業が低迷して空いている低額な宿泊施設や、民間の研修施設、教育委員会が設置している青少年研修センター等の宿泊が出来る施設を借り上げ、無料で提供を!

限られるであろう予算は、本当に必要な対策に使って欲しい!

口腔ケアとインフルエンザ予防接種2020/10/08

しばらくブログを書けませんでした。
パソコンも数回しか開けませんでした。
9月30日にとても不安なことがあり、10月5日にも心配な事がありました。
どちらも母の介護に関することです。

話し相手もなくコロナ禍で他人と顔を合わせることも殆ど無い私は、不安と心配から負のスパイラルに陥って、どんどん深みにはまって、食欲も無くなり、食事を作って食べても、味覚はあるのに何を食べても味がしないような感じで、死なない程度に食べていました。
生きていても甲斐の無い毎日で、この先も何も変わらないだろうし、生きていたいとは思わないのだけれど、前にも書いたように、母の介護の責任もあるし、生前整理もまだ出来ないし、今はまだ生きていくしかないから。

9月30日は、母がお世話になっているグループホームで口腔ケアをお願いしているクリニックからの電話でしたが、活舌が悪くてサシスセソが聞き取れず、おまけに電話の向こうの背後で大声で喋ったり笑ったりしていて、何度も聞き返さなければなりませんでした。

母がグループホームに入所した時の、クリニックの契約書の内容に変更があるので署名捺印し直してほしいとのこと。
「今からご自宅に行きたいのですがいらっしゃいますか?」
そう聞かれたので
「後で買い物に行きたいと思っていますが、まだ暫くは家に居ます」
と答えたら
「うちのクリニックの場所は分かりますか?」
え?来てくれるんじゃなかったの?と思ったけれど、クリニックに行った事がないので分からないと答えると、道順を説明されました。
?????
まあいいや、コロナ禍だし、自宅に入れるより、私が行ったほうがコロナ対策出来る、と思って、夕方行くと伝えました。
睡眠時間的には足りているはずなのに、眠くて眠くて、車を運転できる状態ではなかったからです、

ボールペンと印鑑と朱肉をポーチに入れて準備し、ソファで少し寝てからクリニックに行ったのですが、行ってみたらビックリでした。
出て来た担当者はマスクをしておらず、手指の消毒も置かれていませんでした。
十数名が仕事をしている机に案内され、書類を広げて椅子を勧められました。おそらくは、その担当者の座席です。
「椅子はいりません。立ったままで大丈夫です」と答えました。
「書きにくくないですか?」
「いえ、慣れていますから」
それじゃあ、と、出入り口のカウンターに案内されて、そこで説明を始めたので、
「すみませんが、マスクを付けて貰えませんか?」とお願いしました。もちろん私はマスクしてましたよ。
「ああ、すみません。このままで仕事してたので、つい忘れてました」
え? いつもマスクせずに仕事してるの? 三密じゃないの? 迂闊すぎるでしょう。
さらに驚きは続きます。
母がグループホームに入ったのは昨年の10月半ば過ぎだったのですが、新しくなったという契約書は、既に昨年10月1日から使用されていた物だったのです。
「つまり、契約書の内容が変更されたのは、最近になってではなくて、私が契約書を書いた時から、間違って古い物を渡されていたということですか?」
「ドクターが変わったものですから、引継ぎが上手くいってなくて。日付も違っているので直して下さい」
え?????と思いました。
「これ私の字じゃないですよ。署名捺印だけして、日付はクリニックさんの方で後で記入すると言われたから、私は書いてないですよ」
「そうですか。令和2年10月30日になっているので令和1年に書き変えて下さい」
「これ、ホントに私の字じゃないですから」
私は不信感を抱かずにいられませんでした。
つまり、古い契約書に署名捺印させた上に、その事に気付かず、おそらくは年が明けて令和2年になってから日付を記入したから間違ったのだと思われるし、書類が古い形式であることにも1年近く気付いていなかった?!

持参したボールペンと印鑑と朱肉で署名捺印し、日付も令和1年で書いて、気を取り直して、母の口腔ケアについて最近の様子を聞きました。
「月に4回ほど行っていますが、しばらくはコロナで入室出来なかったので口腔ケアも中断していましたが、また再開して、中断していたわりには悪化も無くて良い状態です。泡が立つのがダメなので、泡の立たないジェルの歯ブラシに変えてます」
ん?ジェルの歯ブラシ?
「ジェルの歯ブラシじゃなくて、歯磨きでは?」
「あ、そうです。歯磨きです」
歯磨きの事なら、11か月前の入所後すぐにホームから了承を求められたから以前から知っていました。
「ドクターは、どのくらいの頻度で診て下さっているのですか?」
「月に1度は診ています。私がだいたい週4回で、ドクターもそのうち1回は同伴してますから」
あれっ?前の話と合わない。週4のうち1回はドクターが同伴してたら、ドクターは週1の月4になる。
「週4回ケアしてくださってるんですか? 月に4回ですよね?」
「ああ、そうです。週に2回の時もありますけど」
「ドクターは月に1回なんですね?」
「だいたいそうです」
気を取り直して、母の事をお願いしました。
「私が自宅で介護していた頃は、定期的に近所の歯科でケアしてもらっていたんです。でも、介護老人保健施設に入ってからはそれが出来なくなって、使っていた入れ歯も下の入れ歯が傷んで使えなくなって、施設では上の入れ歯だけ使っていて、上の入れ歯だけでは噛めないから使わないほうがいいって伝えたんですけど、施設ではずっと上の入れ歯だけ入れていたんです。認知症が進んで入れ歯を入れていることが分からなくなったりしていて、自宅に一時帰宅させた時にやっと上の入れ歯を外したら、食べかすが上あごに一杯付いていて、それ以来、もう入れ歯は施設に持たせずに、上だけの入れ歯は意味が無いし不衛生になるから、使わないで下さいって伝えて、本当はきちんと上下の入れ歯を入れてきちんと噛めたほうが認知症にも良いと思うんですが、認知症が進行して新しい入れ歯は作れなかったので、こちらのクリニックでは認知症のケアに慣れていて入れ歯も作れると聞いたので、今すぐには無理でも、どうぞその方向で宜しくお願いします」
「そうですか。普段は話を聞く機会もないので、色々聞けて良かったです。ドクターに伝えておきますね」
「契約時にお話ししてありますので、多分御存知と思いますが、意向は契約時と変わっていませんので、もし入れ歯を作れる状態に好転しましたら、どうぞ宜しくお願いします」

その後、クリニックの近くで買い物をさっと済ませてから帰宅して、ありあわせの食べ物でさっと夕食を準備して食べたけれど、クタクタになったし、色々な面で不安ばかりが残りました。
あんなに間違いだらけで大丈夫なの?
どこのクリニックもあんなものなの?
私が細かすぎるの?

それから10月5日です。
グループホームからの電話。
先月9日に、母の要介護認定更新書類に署名捺印するために来て欲しいと連絡があり、その時に、インフルエンザ予防接種について尋ねました。
ホームからは、今年の事はまだ分からないとの回答でしたが、母は毎年10月初めに予防接種していたし、今年は新型コロナウイルスのこともあって高齢者は10月1日から、それ以外の人は10月26日以降の接種が政府からも呼び掛けられているので、とても気になったからです。
22日に書類に署名捺印しに行った時に、今年の予診票はまだ無いとのことで、昨年の物と様式は同じはずだからと言われて記名したのですが、10月5日の電話は、インフルエンザ予防接種の日程が11月8日になったという報告でした。
「まだ1か月以上も先なんですか?」
理由の一つとして予診票がまだ届いていないと言うので、私は自分で市役所に問い合わせをしようと電話帳で調べるまでしていたのですが、電話をする前に、不在だった施設長から電話がありました。予診票は先ほど届いて、予防接種を担当してくれる病院から提示された日程が11月8日だったと。
「それでは、11月8日を提示された時に、もう少し早い日程は取れないのかという確認はされていないという事ですか?」
「はい、していません」
そうか、11月8日を遅いとは思って貰えなかったのだなと、私は残念に思いました。
リスクの高い高齢者が集団生活をする施設だから、1日でも2日でも早く予防接種をする必要があると思うのに。
それから色々なやり取りがあり、結局、日程は11月8日で変えられないとのことでした。
「色々失礼な事を申し上げたと思うのですが、市内の高齢者施設でもコロナのクラスターが発生しているし、インフルエンザ予防接種を受ける前に一人でもインフルエンザに罹ってしまったらと心配するあまりの事なので、どうかご容赦ください」
「いえいえ、施設のクラスターもあったし、ドクターの感染もありましたからね」

実は、入所の際の契約書に署名捺印する際にも、私は細かい部分を指摘し、この契約内容では署名捺印できないと伝えたことがあったのです。
膨大な量の契約書の文面をきちんと細部まで読む人は少ないかもしれません。私は隅々まで読んで、不明な点は質問しました。
私が問題視したのは、「心肺停止状態になった時の対応について、延命治療を希望するかしないかの選択肢を選ぶようになっていた箇所です。
「心肺停止といっても状況は色々ありますよね。回復の見込みが無いのに機械に繋いで悪戯に延命するのは本人に辛い思いをさせるだけだと思うので、私も望みませんが、例えばAEDで蘇生が可能なら、迷わず使って欲しいです。この選択肢には選べるものがありません。それに、延命治療をするかしないかを契約書で誓約するのはおかしくないですか? この選択肢から今選んで〇を付けなければいけないなら、私は契約書に署名捺印できません」
「すみません。言われてみればそうですね。今まで気にしたことが無かったです」
実際はもっと細かい会話があって、記憶が消えない私は今も勿論覚えていますが、長くなるし、インフルエンザ予防接種とは関係ないのでこれくらいにしておきますが、要するに私は、多くの人達がスルーするであろう事をスルー出来ないのですよ。

私って重箱の隅をつつく嫌な性格って思われている?
細かすぎる性格で嫌われる?
けれど、決して難癖をつけたいわけではなく、疑問があるから聞き、変だと思うから指摘する、特に契約書なんて重要なものは斜め読みして簡単に署名捺印してはいけない。
隣近所との日常会話なら、ん?と思ってもスルーするけれど、母の介護に関することだから、「ヤな性格」と思われたとしても、細かい情報も見落としてはいけないと思うし、正しく受け取りたいし、思いはきちんと伝えたい、そう思うのです。

そばで見ていることが出来ないから、不安や心配は尽きず、そのことを誰かに話して、「そんな事があったんだ。大変だったね、心配だね」そんな言葉でも返して貰えたら、少しは心が軽くなれると思うのだけれど。

インフルエンザは本当に心配です。もし罹ってしまったら、新型コロナウイルスの症状と見分けが難しいというし、今までは早めの予防接種で罹らなかったのだけれど、どうかホーム内でインフルエンザもコロナもありませんように。
神様どうかお願いします。

追1:
グループホーム入所時の契約書は、一番近い選択肢に〇を付けて但し書きを付け加え、署名捺印しましたよ。

追2:
文面では、私がいかにも滑らかに質問したり答えたり説明したりしたように受け取られそうですが、すべて、震える声で精一杯に話してました。教員をしていた頃から、会議で司会をしたり質問したり自分で作った資料を説明したりする時は、声が震えるのを必死で堪えながらでした。高機能自閉症と診断されて、そのせいだったのかと納得しました。授業とか生徒と話す時とかは震えなかったんですけれどね。

苦しくても生きるしかないから2020/09/23

ずっとブロブを書けませんでした。
ブログだけではなく、パソコンをほぼ開けませんでした。
父のファミリーヒストリーを書くまではと、何とか8月15日までは頑張って書いたけれど、実は生きる気力さえ失っていました。

私は、昨年12月半ばから、銀行などでの事務的な会話と母の介護施設との連絡以外は、ほぼ会話が無い生活です。
どうか想像してください。
朝から晩まで、大晦日も、お正月も、お彼岸も、誕生日も、お盆も、巨大台風接近時も、家で一人ぼっちで誰とも会話の無い毎日。
それが、もう9か月以上。
自ら望んでそうなったわけではありません。

高機能自閉症や五感全ての感覚過敏などの診断を受け、障害者手帳を交付されたけれど、障害者就業・生活支援センターに相談しても心無い対応をされ、地域包括支援センターは母の事で相談を拒否された体験から信頼できず、市の障害福祉課に相談しても何も変わりませんでした。
地域社会との繋がりも最低限しかなく、近隣に親しい友人も居ないから、訪問者も電話もありません。
数日前、電話が鳴ったと思ったら、世論調査の自動通話でした。
ブロブを始めて想いを伝えれば、誰かが共感してくれて、何か変わるかもしれないと願ったけれど、世の中はそう甘くは無いのですね。

仕事をしていた頃は、真面目な性格ゆえに無理をしても全力を尽くし、超繊細ゆえに自分よりも相手を優先し、長年のキャリアにより仕事のスキルも高かったので成果も上げ、信頼もされ、退職時には惜しまれもしたけれど、母の介護のために退職すると、当然のことながら元同僚達は新しい人間関係に忙しいから、退職した元同僚の事など次第に忘れていきます。
子供の頃から苛めや仲間外れにされ、もともと人付き合いが苦手な私は、コロナ禍によって、社会との接点をほぼ無くしました。

昨年までは、日差しの弱くなった夕方に庭の手入れをしたり、買い物を楽しむことで、気晴らしができました。
けれど、今年は梅雨が2か月も続き、毎日雨が降り続いて庭の手入れも殆どできず、コロナ禍で不要不急の外出が制限されて、買い物も混まない時間帯の食料品の買い出ししか行けず、自粛を求められたからではなく怖いから外出できませんでした。

毎日、家でただTVを見るしかないけれど、そのTVは、不意に流れるCMさえもが、コロナ禍で離れていても繋がろうと絆を強調し、ニュースさえもが、会えなくてもビデオ通話で繋がる家族や恋人達を紹介し、私は見るたびに涙があふれた。
繋がれる家族も恋人も友人も居ない人は、きっと私以外にも居るはず。そんな人達の事は誰も気にしていないのですね。

外出制限が緩和されても、一人ぼっちの私は、どこかに遊びに行くこともできません。会話も無く、笑うこともなく、少しの食事をしてシャワーを浴びて寝るだけの毎日。
仕事をしていた頃から、苦しくて退職したかったから、退職しても年金受給までは自力で生きていけるように、爪に火を点すような節約生活をして、現在、無職ながら衣食住はつつましくもまだ困っていない。
コロナ禍で仕事を失い衣食住にも困っている人達を思えば、それ以上を望むのは贅沢だと思われるかもしれない。
私は学生時代、食べ物を買うお金が無く、やむなく過酷なアルバイトの掛け持ちをして単位を落とし、無保険で病院にも行けなかったから、お金が無い苦労は知っています。
けれど、世界中の誰からも顧みられない孤独は、家族や友人に支えられている人にはきっと分からない。
名前を呼ぶ相手も、呼んでくれる相手も居ない孤独を、誰か分かってくれますか?

私は、たった一人で生きているとは思っていません。要介護5の母がお世話になっているグループホームには本当に感謝しているし、コロナ禍でもスーパーのレジに立ってくれている方々や、電気や水道を管理してくれている方々や、食料を生産・流通してくださっている方々がいなければ、私は生きてはいけない。

ただ、生きていても少しの楽しみも無いのです。若い頃は、将来に夢をもって頑張ることができたけれど、もう、生きることに何の喜びも希望も見いだせないのです。
9か月間、誰も訪ねてこないということは、私が孤独死しても何ヶ月も発見されないということ。私が死んだら、家も家財道具も思い出の品々も全てこの世に必要のない物になってしまうから、生前整理をして、死ぬときには全てを処分しておきたいと願うけれど、それは無理な話で、誰かに託すしかないけれど、「〇君(姉の息子)はやってくれるかなあ」と以前姉に話したら、息子も娘も孫もいる楽観的な姉は、「死んだ後の事は死んだ後にどうにかなるよ」としか答えてくれませんでした。
一人だと心配だよね、大丈夫だよ、〇君はちゃんとやってくれるよと、答えてほしかった。
だから、今は、安心して死ねないから、細々とでも生きるしかない。
世界最高齢の120歳まで元気でいれば、私の死後の始末を誰かが世話してくれて、私も安心して死ねるかもしれない。
  
昨日、母のグループホームに行ってきました。
要介護認定の更新書類に署名捺印する為です。
インフルエンザ予防接種も毎年10月初めにはしていたので、政府からも高齢者は早めの接種を勧められているし、電話で聞いてみたら、まだ分からないとの回答だったけれど、去年の書類しかないけれど同じだと思うからと言われ、そちらにも署名して帰りました。

本当は、面会も条件付きで解除されたので、母に会って抱きしめてあげたかったけれど、身体接触はできないし、私は想いがあふれて涙がぽろぽろ溢れて止められなかったので、面会は断念しました。
認知症の進んだ母は、1年以上前から、私の事が分かりません。だから、電話やビデオ通話も無理だけれど、名前が分からなくても、娘と分からなくても、心の奥底のどこかでは、会えばきっと感じてくれると思うのだけれど。

ちなみに、私自身は、母と同居し始めた年の10月に母と一緒にインフルエンザ予防接種を受けたら、副反応で発熱して10日程寝込む羽目になりました。職場でインフルエンザが大流行しても、私自身は一度もインフルエンザに罹ったことはないので、もう二度と予防接種は受けないつもりだし、近い将来にコロナウイルスのワクチンが完成しても、ワクチン接種は受けないつもりです。
私には橋本病や好酸球性副鼻腔炎(喘息併発)などがあり、子供の頃から肺炎や気管支炎に何度も罹っているので、もし新型コロナウイルスに感染したら重症化リスクが高いけれど、多くの医薬品に酷い副反応を起こしてしまう私なので、そのリスクの方が怖いから。

新型コロナウイルスさえ無ければ、世界中が今よりずっと幸せだったはずなのに。
けれど、時間を巻き戻すことはできない。感染が少し落ち着いたとしても、もうコロナ以前には戻れない。少しでも油断すれば、再び感染は広がり、多くの人が苦しみ、多くの人が命を落としてしまうから。

コロナ対応で多忙な姉からは、連絡しても連絡しても何日も返信が無く、私はますます鬱に拍車がかかって、コロナのせいと分かっていても苦しくて、眠くても眠れず、食事もとれず、腹痛も続いていたいたけれど、やっと昨日の夜、短いけれど返信が来たので、それで良しとします。

このブログを読んでくださった方、短くても良いので、どなたかコメントをもらえないでしょうか。
長文の、こんな暗い内容では、誰も読んではくれないでしょうか。

梅雨とコロナ拡大2020/07/28

蝉の抜け殻
この梅雨いつまで続く?
第一波より急激な感染拡大のコロナに終わりはある?
自閉症じゃなくても、二次障害が無くても、みんなみんな憂鬱な毎日を送っているだろう。

今日は母のグループホームに行く予定にしていた。昨日は薬の副作用で一日中睡魔に襲われ、気分は持ち直したものの車の運転は無理だったので。
もちろんコロナ感染拡大で面会はできないが、後期高齢者医療被保険者証、介護保険負担割合証、後期高齢者医療限度額適用・標準負担額減額認定証の3つが連休前に届いていたので、7月中に持って行かなければ……と思って。

昨夜、漸くパソコンを立ち上げられる状態になってブログを書こうとしたら、パソコンのバッテリーパックやACアダプターの件で時間を取られてしまって、寝るのが明け方になってしまったのに、早朝から町内放送で起こされてしまった。
「婦人部からです。今日は墓掃除の日です」
時計を見ると午前7時15分。緊急時以外の町内放送は控えてもらいたいものだ。もともと災害時のために集金して整備された設備。ピンポンパンポーンと鳴るだけでビクッとする。
睡眠不足での車の運転は危ないので、頭を枕に戻すと、すぐに寝入ったようだった。

目覚めてから米麹甘酒を飲み、仏壇にお茶とお水を上げ、用事は早く済ませないと落ち着かないので、電子レンジでご飯を炊いて冷凍室のメカブと生卵をかけて簡単にブランチを済ませてから、グループホームに電話をした。
前述の3つを今からお持ちしたいと伝えると、「助かります」とのことだった。駐車場が3台分しかないので、空いているか訊いてみたら、大丈夫とのこと。

到着して保険証などをお渡しした後、母の様子を尋ねると、最近は会話がスムーズにできるようになり、体操にも元気に参加しているとのこと。デイサービスに行っていた頃は、体操などはほぼ参加していなかった。
「この間、『薬を持ってくる人が、若くてイケメンに変わったよ』と話したら、『そりゃあ好きになってしまうかも知れんね』って笑うんですよ。」と介護士の方に言われたので、
「そうなんですか。昔はそんな冗談とか言うタイプじゃなかったので、本気かもしれませんね。自分の歳が分からなくて、若いと思っているのかも」と答えると、
「それもなんですが、イケメンって言葉が分かるんだなって」
「イケメン分かりますよ。母は氷川きよしが大好きで、スイミングで一緒だった人が追っかけで、こっちでコンサートである時に『一緒に行って来たら?』って言ったんですけど、『そこまではせんでいい』って。家では毎日見てたんです」
「ああ、それでなんですね。体操の音楽が『きよしのズンドコ節』なんですよ」
「そうなんですか。それは母にとって凄く嬉しいと思います。本当にこちらでお世話になるようになって、見違えるように元気になって、本当に有難いです。コロナ感染が急に拡大して、職員の皆様には神経を使われて大変だと思いますが、こちらでお世話して頂けるので、本当に安心できます」

母は前の施設ではずっと要介護3と言われて、「在宅に戻るなら今です」と言われていたのだが、私には要介護3には見えず、小規模多機能型施設でお世話になることが決まった際に、要介護5ではないかと思うと話すと、施設の方からは、『いや、そこまでは。要介護4でしょう』と言われたのだが、結果は要介護5だった。それが昨年の11月。
半年余りで見違えるように元気になり、会話も成り立つようになって、現在のグループホームには本当に感謝している。費用は以前の2倍ほどかかってしまうけれど、コロナ感染拡大の今、不安無く母をお世話してもらえるのは本当に有難い。

感謝の言葉を伝えると、「職員にとって、何よりの言葉です。有難うございます」と、逆にお礼を言われてしまった。

グループホームでの用事を終え、車のバッテリー上がり防止のために遠回りして帰ることにした。カーポート内で2回エンジンは掛けたが、車を走らせるのは23日ぶりになる。

遠回りの途中で銀行に寄って現金を下ろし、買い物のためにコープに寄ると、駐車場が工事中で満車だった。やっと空きスペースを見つけて駐車し、月に一度のくじを引いた。
引換券を渡しながら、くじの箸立ての中から、向こう側にあるちょっと色の濃い箸を、「アレだ!」と思って引いたら、見事当たりだった。ただの炭酸水500ccをゲット。百円もしない景品だけれど、当たると嬉しい。ささやかな幸せ。
「ありがとうございます!」声も弾む。
先月はハズレでポケットティッシュ1個をもらったけれど、先々月はブレンド茶500cc当たった。夏の飲み物ペットボトルは、急な外出時など役に立つ。
米麹甘酒と、カルシウムと鉄分の多い牛乳と、高カカオチョコレートと、すりごまと、値引きのカボチャスライスとブロッコリーとバナナを買って帰った。

帰宅したら、ヤマアジサイの鉢増しとフェンスからはみ出たイチジクの剪定をしなければならなかったが、買い物品を冷蔵庫などに片づけて、水分補給して、少し休憩していたら、へとへとになっていて動けなくなっていた。体温は36.5度。ほぼ平熱で異常なし。
再び雨が降りだしてしまい、ソファーに横になって夕方のニュースをチェックしていたら、いつの間にか40分ほど熟睡していた。

写真は、車を出して出かけようとしてブロック塀で見つけたセミの抜け殻。
昨日は、雨の止み間の晴れ間があった時間に、クマゼミらしい鳴き声がうるさく響いていたが、雨が降りだしてすぐに止んだ。
蝉も、今年のように梅雨の長雨が続いては、思い切り泣くことができずにストレスが溜まっていることだろう。
1週間ほどしか命が無いらしいのに、可哀そうに。

亡き父に線香を上げ認知症の母を想う2020/07/22

父への献花(造花)
今朝、仏壇に線香を上げていて、ふと思い出したことがある。

季節は今より少し前の、5月か6月の、父の月命日の頃だったと思う。

母には軽い認知症の症状は見られたが、認知症に対してやや知識のある私でなければ気付かない程度のものだった。

私はその頃、市の教育委員会からの依頼で、産休代替で高等学校の講師をしていた。父の月命日が近かったから、私の休日に車で墓参りに行く話をしていた。
父の墓は、車でも10分以上、自転車で20分ほどの場所だった。

仕事を終えて帰宅すると、疲れ果てた母が居た。
押し車を押して歩いて墓参りに行ったのだと言う。
母は、まだ腰は曲がっていなかったし、ちょうど一年前に手術した膝も痛がってはいなかった。
70歳直前まで愛用していた自転車は、引っ越しを機に、もう怖いからと処分していた。
「えー、車で一緒に行こうって言ってたのに」
「うん、そうだけど、影って暑くなかったし」
たぶん母は、休日の私の時間を潰したくないと思ったのだろう。高齢者らしい余計な遠慮をしたのだ。
「でも、歩いたら1時間以上かかったでしょう?」
「うん、かかった」
「押し車を押してあの距離を歩くなんて、疲れて当たり前よ。もう絶対に一人で行ったらだめよぉ」
「うん、もう行かん」
母は、さすがに堪えたらしかった。

普通の判断力があれば、山育ちや農家で日頃から足腰を鍛えているならともかく、散歩や週に2度のスイミング程度の運動しかしていない高齢者が、夏に押し車を押して歩ける距離ではないと分かるはずだった。それだけ、判断力が衰えていたのだ。
けれど、途中で倒れることもなく、往復3時間以上を、よくも自力で行って帰ってこられたものだと思った。
途中で苦しくなり、後悔したに違いない。けれど、ここまで来たら後少し、そう思って、引き返さずに墓地まで行ったのだろう。帰りのことまで考えられずに。行けば、同じ距離を帰らねばならないのだ。しかも、行きの行程と墓の掃除で疲れ果てた状態で。それを為し終えた母の精神力は脅威に値すると思う。
あるいは、初期とは言え認知症により後先が予見できないために、ただ夢中で歩くことができたのだろうか。

父が亡くなった当初は、母はしっかりしていたと思う。けれど、私が実家に引っ越してふた月ほどは、夜に一人で寝るのを怖がり、2階の和室で母と枕を並べて寝た。
私がまだ幼い頃、父が出張で数日家を空けると、母は決まって夜に金縛りになったと昔聞いた。母は、一人暮らしの経験が全く無く、口では父を嫌っていたが、精神的には父に依存していたと思う。

私が母の認知症の兆候に気付いたのは、引っ越しで持ち帰った自分の台所用品を、新築後5年ほどの実家の収納庫に片づけていた時の事だ。調味料や乾物や台所用品など、同じ物があちこちにあった。使用半ばで忘れられたままの物もあった。認知症が始まりかけていると思った。

決定的になった出来事は、ある日、私が近所のドラッグストアに買い物に行ってくると言ったときの事だった。ヘアクリームを買ってきて欲しいと母が言う。
しばらく前にも買っていたので、そんなに早く無くなるはずはないと思い、浴室脱衣場の洗面台を確認してみた。私自身は、2階にある洗面台を使っていたので、浴室脱衣場の洗面台は殆ど使わず、その物入れを開けてみることはあまりなかった。
ヘアクリームは、確かにもう量が少なくなっていたが、ピンク色のヘアスプレーがあった。女性用の、髪形を柔らかいカールに整えるヘアスプレーだ。
てっきり、母が自分のために購入して忘れているのだと思った。
「お母さん、このヘアスプレーは?」
「それは、お父さんに買うてきたとよ」
「これ、女性用だよ?」
「でも、お父さん、毎朝使いよったよ」
私はそれ以上聞き返すことが出来なかった。
ピンクのヘアスプレーを元の場所に仕舞いながら、私は涙をこらえることが出来なかった。

母も以前は、ちゃんと男性用のヘアスプレーを父に買っていた。

父には、亡くなる5,6年年前から既に軽い認知症の症状があった。以前の家では柑橘系の果樹を何本も栽培して沢山の実を成らせていたのに、新築した家の裏庭の砂利の中に甘夏の苗木を植え、肥料も腐葉土も施さず、そのままだった。右と左が分からなくなり、車の運転中に、右よ、と言っても左に曲がったという。死ぬまで、お金には細かかったが。

母も、周囲も本人も自覚しなくても、既に父が居た頃から認知症が始まっていたのだ。だから、父に、若い女性用のピンク色のヘアスプレーを買ってきた。
そして、父は、それが若い女性用とも分からずに、毎朝ピンク色の女性用ヘアスプレーを使ってシルバーグレイの髪を整えていたのだ。女性用だと気付いたなら、短気な父が、「こんな物が使えるか!」と母を叱責しないわけは無かったから。
父は、若い頃からハンサムでオシャレで、高齢になってもダンディだった。毎朝、鏡の前に長い時間立ち、足腰が弱ってからは椅子に腰かけて、身だしなみを整えるのに余念がなかった。

そんな父と母の様子が目に浮かび、涙を堪えきれなかった。

父に疎まれていたとは言え、私がもっと早く気付いてあげたかった。
そうすれば、ちゃんと男性用化粧品を買ってあげられたのに。

私は、涙を拭き、それ以上は母に何も言わずに、新しいヘアクリームを買った。
もう9年も前の事だ。

今月の父の月命日は過ぎたが、もうしばらくするとお盆が来る。
コロナ感染再拡大で、一時期解除されたグループホームの面会も、再び禁止になった。