青空が恋しい。2020/07/14

6月に見た梅雨の晴れ間の青空
昨日は、多分日中は雨は降らなかったと思うが、どんよりと暗く曇った一日で、夜には雨が降った。
今日は、朝から降ったり止んだり。
この悪天候は、一体いつまで続くのだろう。
庭はビショビショジメジメで、雨の止み間に庭に出ても気分は晴れない。
庭仕事もできない。
私は感覚過敏で日差しは苦手だけれど、やはり朝は青空を見たい。最後に青空を見たのは7月1日だったと思う。

コロナ以前なら、買い物に行くと気晴らしにもなったけれど、三密を避けないといけないし、出入りごとに手の消毒もしなければならないし、外出時にスマホに触ればスマホの消毒もしなければならないし、マスクは蒸し暑いし、外出は全然楽しくない。外出したいとも思えない。
世間では「Go Toキャンペーン」が話題のようだけれど、感染リスクがあるのに旅行なんて気分にもなれない。
どのみち、一緒に行く人もいないしね。

昨夜は、いつもより早く寝たのに、頭の中に過去の出来事が次々と出現して、2時間経っても眠れなかった。
実は私は、2,3歳からの出来事や風景が映画のように記憶されていて、ちょっとしたことでフラッシュバックしてしまう。
朝起きてからも、ずっと眠かった。

雨が止んでから、久しぶりに買い物に行った。
本当は散歩がてら歩いて行きたかったが、また車のバッテリーが上がってしまうと困るので、近いけれど車を使った。ステイホームして車が動かなくなり、5月にバッテリーを交換したばかり。

プロテインシリアルと成分無調整豆乳とバナナ、豆腐とキュウリと鮭切り身を買った。
お惣菜のお弁当を買おうかと思ったが、脂っぽそうで見ただけで吐き気がするので、代わりにおにぎり1つ買った。
夕食をきちんと作るつもりで、メニューも決めていたのに、帰宅したら、とても疲れてしまって、豆乳にココアとケール粉末を入れて飲み、フィッシュソーセージ1本を食べ、買ってきたおにぎりをレンジで温めて食べ、お茶を飲んだ……らお腹が痛くなった。

現在も絶賛腹痛中(T_T)

梅雨寒にタケニグサ咲いた2020/07/15

タケニグサ(竹似草、竹煮草)有毒 しぶとい
今朝は半袖では寒くて、春物の八分袖の服にした。

腹痛は深夜には治まったけれど、朝食後にまた痛くなってしまった。
バナナと、成分無調整豆乳と自家製ヨーグルトをかけたにシリアルで、さっと済ませて買い物に行こうと思っていたのに…(T_T)

昼頃になんとか動けるようになって、雨も止んでいたので、長袖薄手のレインコート兼用ジャケットを着て、もちろんマスクをして近所のスーパーに徒歩で買い物に行った。

スーパーは案の定クーラーが効いて寒く、腹痛復活。
その上、土用の丑の日が近いので、いつもにも増して「うなうなギフト」のPRソングが店内に鳴り響き、感覚過敏には辛い。
購入するつもりだったものは、買い物に行ったのが遅かったので買えなかった。代わりに、賞味期限間近のフルーツゼリー¥158をなんと¥50で8個も買えたのでラッキー♪
フルーツゼリーなら食欲不振でも食べられそうだ。

帰宅後、腹痛と疲労でしばらくソファに横になっていたいたが、少し食べたほうがいいかなと思い、買ってきたパンを食べ、TVでニュース情報番組を見ていたら、いつの間にか寝てしまっていた。

夕方、バナナの皮など生ごみをコンポストに捨てに勝手口から庭に出ると、しばらく前に蕾ができていたタケニグサが咲いていた。

3年前、花壇のサツキの横に見知らぬ葉が成長していて、サツキの妨げになると思って彫り上げて処分しようとしたのだが、根が深くて途中で切れてしまった。すると、翌年の去年もまた生えてきて、根が深くて取り切れず、今年もまた生えてきた。
根は途中で切れたのだが、今までで一番長く取れ、試しに八号植木鉢に植えてみたら枯れずに成長し、蕾が付いたのだ。

植物名が分からず「大きな葉」で検索し、何とか答えに辿り着いた。「竹似草」もしくは「竹煮草」。山野に自生するものを愛好する人もいるようだった。毒があるようなので、開花まで観察して処分するつもりだったのだが、今日の開花はまだ一部なので、もう少し開花が進むまでは観察してみよう。
白くて細長いのは蕾で、写真左側の綿毛のようなものが開花した状態。菊の葉っぱにも似たでっかい葉の上の、露のような雨粒がキラキラして綺麗だ。
とは言え、2週間も雨続きなので、庭の手入れが全く出来ず、荒れ放題。

夕食には、雑穀黒米御飯を電子レンジで炊飯し、昨日買った鮭切り身に昨夜塩を振っていたのをIHグリルで焼き、マイタケと豆腐とレタスとネギの味噌汁を電子レンジで作った。
食後、腹痛にはならなかった。
昨日もそうだったけれど、自分で作った食事だと腹痛にならないようだ。なんでかな?

夕方、空を見ると星が1つ出ていたので、久しぶりに月が見られるかもしれないと楽しみにしていた。
今夜の月の出は月齢23.9で深夜過ぎ。残念ながら、また空は真っ黒に曇り、今夜も月は見られそうにない。
(T_T)

小説家の才能2020/07/16

パソコンによる自作カバーイラスト(左)と、出版会社のデザイナーの名前によるカバー(右)
昨夜、芥川賞と直木賞のニュースを見た。
きっと、多くの方が、受賞作を読みたいと、関心を持ってニュースを見たことと思う。

私には、一方的にだが、苦い(と言うのも変だが)記憶がある。

2003年下半期の発表の後、新聞の見開き全面の「小説は、1にも2にも才能で、努力なんて関係ない」という見出しが私の目に飛び込んできた。それは、瀬戸内寂聴先生と、最年少記録で芥川賞を受賞された方(名前はあえて書かない)との対談だった。
瀬戸内寂聴先生の言葉はこうだった。
「小説は1にも2にも才能で、努力なんて関係ない。あなたが非常に若くして賞を取ったのも、あなたに才能があったから」

たぶん、誰もが、「そんなの当たり前」と思って、気にも留めないだろう。
けれど、私は打ちのめされた。
ああ、そうなんだ。凡人がどんなに頑張っても無駄なんだ。だって、瀬戸内寂聴先生がおっしゃるのだから。

私は、中学生の頃からノートに小説を書いていた。村岡花子先生訳「赤毛のアン」シリーズを全部読み、いつかモンゴメリのように小説家となり、ギルバートのような人(モンゴメリ自身の結婚相手は牧師だったと思うけれど)と結婚し、たくさんの子供たちと幸せに暮らすのが夢だった。どうすれば小説家になれるか当時は情報も無く、ただひたすらノートに書いていた。
しばらく後に、ノートではダメで、練習であっても原稿用紙でなければならないと知り、原稿用紙を多量に買った。立原えりか先生の童話の後書に書かれていたと思う。

読み返すたびに書き直す私は、原稿用紙は書き直しだらけで読めなくなり、何度も1から書き直さなければならず、漸く家庭用のワープロが使える程度になった時、ボーナスをはたいて買った。なにしろ、それ以前のワープロは、ディスプレイが3行程度しか表示できなかった。

仕事が休みの日、ひたすらワープロに向かった。
けれど、ワープロで1文書に保存できる容量は限られており、いくつにも分けて保存しなければならなかった。ようやく家庭用カラーノートパソコンが発売されたが、100万円以上して、仕方なく最新のワープロに買い替えた。それでも、十分ではなかった。
ようやくパソコンに買い替え、ワープロ原稿も投稿が認められるようになり、短編や長編を投稿したが、全て没だった。

それでも、努力はいつか実るかもしれないと思っていた。
そんな前向きな気持ちが、打ち砕かれた瞬間だった。
しばらくは何も書けなくなった。

たとえ才能が無くても、何倍もの努力で頑張る!
私は再び書き始めた。
賞を取るだけが道ではないと、私はあらゆる可能性を模索した。
共同出版という形で、出版できることになった。
編集者は、私の文章が難解だと指摘した。その指摘を受けることは分かっていたが、万人向けではないと分かっていても、平易な文体にして作品世界のイメージを崩したくなかった。

大変な苦労の末、出版はされたが、私には大きな不満が残った。

1. カバー表紙は私がパソコンで作ってデータ送信したものを元にしたにも関わらず、出版会社のデザイナーの作になっていたこと。

2. 何の相談もなく、帯に「スペースオペラ」と書かれてしまったこと。読めば分かるがスペースオペラではない。おそらく、宇宙が舞台となるファンタジーだからと、安易にスペースオペラと書いたのだろうが、そもそもスペースオペラとは、昼ドラを、石鹸会社がスポンサーであることが多かった為にソープオペラ、西部劇をホースオペラと呼び、馬が宇宙船に変わっただけとの揶揄を込めて呼んだものだ。出版界にいて、そんなことも知らないとは。

3. 契約や打ち合わせにあたっては、会社が旅費を出して会社にて行うと文書には書かれていたが、初めて電話があった時、震える声でその事を尋ねると、「自分は契約担当だから、編集担当者からまた話がある」との答え。しかし、ついに一度も誰とも顔を合わせることは無かった。私が地方に住む為に、軽んじられたのだ。

4. 初めての出版であるというのに、校正に対する厳しい要求があり、校正の記入の仕方が悪い、見にくい、遅いと散々に言われ、「〇日までに郵送して下さい」とあるのでその通りにすると、「〇日までというのは〇日必着と言う意味だ。後のスケジュールが押して困るのはあなた自身だ」とのメール。向こうが郵送して私に届くまででも2日程かかるのに、それでは私は、300頁もの原稿の校正に3日もかけられないことになる。そもそも、後から校正でいくらでも直せるからとせかされ、不本意な原稿のままゲラ刷りに出したのに。

5. 最終的に製本されたものには、結局4か所の重大な校正ミスがあった。所詮は素人相手で、それなりにしか仕事をしてもらえなかったのかと思う。

私は悔しかったが、どうしようもなかった。せめて次の為にと、文部科学省認定社会通信教育「公正実務講座」を受講した。二度と屈辱的な扱いを受けることのないように。

教材が届いた数日後、父が急死した。
一人になった母を助ける為、私は実家に戻り、通夜や葬儀などを終えてから、アパートを引き払って実家に引っ越した。
私は鬱になった。中学生の頃から父に疎まれることの多かった私は、死に目に会えなかったことで、胸に大きなしこりが残った。既定の半年では講座を終えられる見込みがなく、3ヶ月の延長を申請し、死に物狂いで講座を終えた。

中学時代の同級生が、私の才能(有るか無いかは別として)を役立てたいというので、同窓会ホームページに、元同級生達を主人公や敵役脇役にしたライトノベルを連載した。ギャグ満載のライトノベルは初めてだったが、あふれ出る言葉を驚異的スピードで紡ぎだし、好評だった。
連載終了後は、別の元同級生に頼まれ、別の筆名で、ライトノベルではない不思議物語を連載した。ランキングではいつも上位になっていると元同級生には言われた。

母の認知症を見過ごせなくなってきた頃、東日本大震災が起きた。
私はニュース映像でしか見ていない。それでも、書けなくなった。書きたいと強く願う内容はいくつもあり、気持ちもあった。けれど書こうとしても、真実に程遠い絵空事に思えて、書き綴ることが出来なかった。
そして、母の認知症が重くなり、壮絶な介護生活が始まった。
家族介護者の中には、介護の実態をブログや書籍で公開している例も多いようだ。私にはそんな余裕は無かった。介護だけで精一杯だった。月に一度もパソコンを開けなかった。

今もTVで震災の映像が流れると、私は涙がこぼれ、正視できない。自分が体験したわけでもないのに。

全て言い訳にしかならない。

実際に候補となりながら落選した方々の悔しさは、私には推し量ることもできない。
皆きっと、命を削って書いているから。
報われるのは、一握りの才能の持ち主だけ。

それでも、この受賞者発表の時期になると、私には苦い記憶が蘇る。
多くの人は時間と共に記憶が薄れゆくのだろうと思うが、自閉症ゆえに、私の記憶は少しも薄れない。記憶と共に、その時の想いも全て。

薬と朝食と洗濯と青空2020/07/17

朝食の冷や汁、雑穀御飯、きんぴら、ぬか漬けと、午後の青空
昨日も雨で夜も曇っていたが、今朝起きると薄日が差していて、期待した通りに晴れそうだった。

昨夜は、ブログを書いた後にネットを調べていたら、ひきこもりに関するアンケートを発見し、地方の現状を訴えたいと記入した。
けれど、自由記述欄が狭すぎて見えにくく記述しにくい上に、どんな悩みか、どんな不安があるか、どんな対処をされたか、など記入しているうちに、どんどんネガティブな気持ちになってしまい、入浴も出来ず、久しぶりにアルプラゾラム錠0.4mg「サワイ」を更に4分の1に割ったものを服用して就寝した。

この薬は、精神科で処方された物ではなく、好酸球性副鼻腔炎で喘息を併発し、夜間に約2時間おきに発作が起きて眠れず、「シムビコートターピュヘイラー60吸引」によって喘息発作が治まっても、発作のあった時間に必ず目が覚めて眠れなかった時に内科医院の先生が処方してくれた。先生によると、脳に刻まれた発作の記憶は容易には消えないのだという。

このアルプラゾラム錠0.4mg「サワイ」という薬は、現在私が飲める唯一の不安や緊張をやわらげて寝つきを良くしてくれる薬だが、0.4mgの錠剤を4分の1に割っているのは、そうしないと副作用で頭痛吐き気食欲不振が起きてしまうからだ。
0.4mgの4分の1すなわち0.1mgだが、おかげでぐっすり眠ることができた気がする。

精神科で処方された抗うつ薬は、副作用が少ないという低容量のリーゼ錠5mgを薬剤部で無理して2分の1に切断してもらっても、頭痛吐き気胃もたれ異常な眠気という副作用が生じて翌日は一日中動けなくなる為、飲まずに鬱をやり過ごす方がましだった。
この薬、20年前は大丈夫だったんだけど。年齢と共に薬に弱くなっているのかな。

前夜に入浴できず少し気持ち悪いが、今日は久しぶりに日差しが出て洗濯物を日に当てられそうな予感。朝食の準備をする前に洗濯をした。

朝食は、数日ぶりに梅雨寒ではなく気温が上昇しているので、久しぶりの冷や汁。普通は青魚で作る冷や汁だが、私は鮭で作るので色も綺麗だし臭みも無い。

洗濯が終わって洗濯機が止まり、干す頃にはすっかり曇ってしまい、今日も気象情報通りの曇りなのかと思っていたら、昼頃には空がうっすらと水色になり、強い日差しが出てきて、3時頃には青空になった。
梅雨の合間の日差しは眩しい。
雨天曇天続きで日差しに目が慣れないせいもあるだろうが、感覚過敏の私は目が眩む。郵便物を取りに庭には出たが、それで精一杯。剪定しなければならない紫陽花と伸びすぎパッションフルーツグリーンカーテンの手入れは、夕方まで待つしかない。

今日は月齢25.8で月没は15時49分。
さすがに爪のように細い月は見ることはできなかった。

洗濯物は気持ちよく乾いた。

被災者の生活再建のために2020/07/17

明るい未来はあるのだろうか?
総務省消防庁の17日正午現在のまとめによると、令和2年7月豪雨の被害は「住宅被害 九州中心に全国25県 計1万5356棟確認」とのこと。多くの人命も失われている。
ニュースでは、被災者やボランティアが、使えなくなってしまった家財道具を運び出し、泥を掻き出し、水洗いして、なんとか生活再建しようとする姿が伝えられている。
やるせない気持ちになる。
もし私の家がこのようになってしまったら、私には、果たして、泥を掻き出し、泥にまみれた家財を運び出し、前を向いて頑張る気力が持てるだろうか。途方に暮れて泣き明かすのではないか。火を付けて全てを燃やして終わりにしてしまいたくなりはしないか。

平成29年7月九州北部豪雨、平成30年7月豪雨、令和元年の前線に伴う大雨、そして、今回の令和2年7月豪雨。近年は想定を上回る豪雨による水害が頻発している。もう「想定外」という言葉を逃げ道にしてはならない。
もちろん迅速な避難は欠かせないが、避難して人命が助かっても、生活の場は失われるかもしれないのだ。

地球温暖化の影響で、気象は一昔前の常識は通用しなくなっている。日本中どこで豪雨災害が起きるか分からないし、一度被災した地域が、二度と豪雨災害に合わないとは言えない。
現に、福岡の或る農家は、4年連続畑が水害被害を受けたということだ。それでもなお農家として頑張っているのは、どんなにか大変なことだろう。

逃げ伸び、生き残ることが出来た命。生活再建のためには、泥を掻き出し、家の中を住める状態にする必要がある。
けれど、もう二度と水害に合わない保証はない。再建が済む前に再び次の災害に遭うことも考えられるし、再建したのも束の間、再び……ということになったら、せっかく助かった人たちの気持ちもくじけてしまうだろう。
被災者が安心して生活再建できるためには、抜本的な対策が必要だ。
政府には是非、災害給付金だの地方交付税の前倒しだのお金だけではなく、たとえ想定外の豪雨があっても災害を起こさない治水対策をしっかりとやって欲しい。

それから、足りないボランティアの問題がある。
コロナさえなければ、全国から多くのボランティアが訪れ、被災者の大きな支えとなることは間違いないが、コロナ禍により移動を制限せざるをえず、密集も避けなければならず、十分なボランティアが確保できない。
けれど、ボランティアが確保できないのは、コロナ禍のせいばかりではない。全国的に災害が頻発すれば、当然のことながら、ボランティアは分散されるし、そもそも、近年の災害規模を考えると、ボランティアの善意にばかり頼るわけにはいかないと思う。災害地は衛生状態も悪化し、怪我を負うリスクもあるし、加えて今はコロナ感染のリスクもある。
ボランティアは被災地に負担を掛けないために、自己完結することが正しいとされる。交通も作業道具も食事も宿泊もボランティア保険も全てである。慣れた人ならよいが、そうでない人にはハードルが高い。
やはり、被災地の災害復興、生活再建は、ボランティアの善意だけに頼るのではなく、ある程度は国や自治体が予算を使って行うべきだと思う。
そうしなければ、近年の拡大する災害から、被災者の迅速な生活再建を図るのは困難だろう。
政府には、予算の使い道をしっかりと考えてほしい。

私を支えた言葉2020/07/18

雑草と呼ばれる草にも花が咲く
私は、幼い頃から辛いことが多かった。幼いゆえに理由は分からなかった。
動作が遅く声が小さく痩せていて体力もなかった。頭痛や腹痛にも悩まされた。
女の子たちの遊びであるオジャミ(お手玉みたいなの)や綾飛び(ゴム飛びの変形)は出来なかったし、ボールを投げてもヒョロヒョロ、走るとビリだった。

それは、自閉症という発達障害のせいで、脳と体の連結が上手くいかなかった為らしいと、最近になって知った。

小学校の昼休み、流行りのドッジボール遊びに入れてと声を掛けても
「え~~↑~( ̄д ̄)」とあからさまに嫌な顔をされた。戦力にならないから。
仕方なく、毎日図書室に通った。
田んぼに落とされた。墨汁を掛けられた。

中学校2年は苛めや仲間外れで毎日が針のムシロ。担任も何もしてくれない。
高校でも1、2年の頃は似た状態になった。
全クラス強制参加の合唱コンクール責任者が決まらず、帰りの会が終えられずに膠着状態になり、仕方なく私が手を挙げた。けれど、練習場所や時間の確保に悩む私に、クラスの皆は文句しか言わなかった。TVドラマや漫画なら、必ずヒーロー的な男子が助け舟を出してくれるけれど、誰も助けてくれなかったし担任もほったらかしだった。

中学校も高校も、3年生ではクラスメイトに恵まれたことがせめてもの救い。

大学では、苛めには合わなかったが、寮の同室の先輩に「going my way」と称され、それは良い意味ではなく悪い意味だったから、なぜそんな風に言われなければならないのか分からなかった。
私はいつも周りに気を使っていた。ただ、集団で慣れ合うことは苦手だっただけだ。
だから、四年生の先輩たちの卒業を祝う寮の追い出しコンパでは、無理して飲めない焼酎の一気飲みまでして、場を盛り上げた。それしかできなかったから。先輩たち大喜びで盛り上がった。翌日は二日酔いの頭痛で大変だったけれど。

大学の指導教官に言われた。
「(月)さんはいつ怒るの? 怒ることがあるの?」
私は、感情を荒らげることはしなかった。どんな事があっても。

私には支えてくれた2つの言葉がある。
1つは、今年の3月に亡くなられた、敬愛する宮城まり子先生の言葉。
「やさしく、やさしく、やさしくね。やさしいことは強いのよ」
この言葉は、強く印象に残り、私の支えとなった。どんな時でも優しくあろうと思った。そして、優しくある為には、強くあらねばならなかった。

中学2年生くらいの時、私は自転車に乗って買い物に行った帰り、バスから降りてきた老夫婦に声を掛けられた。
「Aサービスはどこですか?」
市内に不案内そうな、心細そうな二人だった。
「この橋を渡ってバス停2つ目です」
歩いて行こうとする2人に、私は声を掛けた。
「同じ方向なので、良ければ一緒に行きましょうか?」
私は自転車を押し、老夫婦と一緒に歩いた。
Aサービスの前で、老夫婦は何度もお辞儀してお礼を言った。あの時の幸せな気持ちは今も忘れない。

宮城まり子先生の著書「ねむの木の子どもたち」は、父が会社帰りに持ち帰った。購入したのか、誰かに貰ったのかは分からない。父は、障害者教育に関心がありそうもなかった。
私は夢中で読み、映画も見に行った。「続・ねむの木の子どもたち」も読んだ。将来は障害児教育を目指そうと思った。

2つ目は、米沢藩を再生させた上杉鷹山の言葉。上杉鷹山は、米沢藩主上杉家の養子となる前の生家は日向高鍋藩主秋月家だ。
「為せば成る、為さねばならぬ、何事も、成らぬは人の成さぬ成りけり」
私は、この言葉を座右の銘とした。

人に優しくあること、諦めないこと、私はこの2つを胸に頑張った。
それに、頑張るしかなかった。
大学生活は苦しく、何度も寮の屋上から飛び降りようかと思った。けれど、屋上から飛び降りたって、下は草木の生えた地面だったから、多分死なずに大怪我を負い、生き恥を晒すことになると推察できた。家族は情けなく恥ずかしく思うだろう。

私学で担任・副担任をしていた時、深夜でも電話が掛かってきて、電話恐怖症になった。
生徒が家出して行方不明、寮から居なくなって行方不明、生徒が深夜徘徊で補導された……。
その度に呼び出され、生徒指導部と一緒に探しに行ったりした。
その学校では、生徒を自宅謹慎にする代わりに学校謹慎とし、担任も一緒にマラソンや草むしりや掃除など一緒にやらなければならなかった。お盆も正月も郷里に帰れなかった。
往来で車の前に飛び出して死んでしまいたかった。
けれど、それをすると、何の関係もない車のドライバーを巻き込んでしまう。
生徒も自分を責めるかもしれない。

死ねないのなら、生きるしかないなら、働かないわけにはいかなかった。稼ぎなしには命は繋げなかったから。

私が死ななかった理由はもう一つある。死ななかった最大の理由。

アンデルセンの童話「海燕(パンを踏んだ娘)」で、悔いた娘は悟る。パンを返し終える(罪の償いとして善行を重ねる)まで、自分は死んではいけないのだと。
人は誰しも、生きていれば、自覚していようが無自覚であろうが、罪深い行為をしてしまう。私は自分の罪深い行為を月日が過ぎても忘れることはない。自分で自分を許せないし、情けない。だから、私も、パンを返し終えるまでは死んではいけないのだと思った。

パンを返すまで。

それが、私が苦しくても逃げずに、死なずに、生きることが出来た最大の理由。

生きていくつもりなら、完全自給自足ならまだしも、お金が無くては生きられない。
私は、年金受給までの生活費を、国民年金や健康保険税まで含めて1年間に概算で最低150万円と算出し、爪に火を点すように質素倹約に努めた。どんなに仕事が辛くても、体がきつくても、年金受給年齢までの生活費を確保できるまでは、仕事を辞めるわけにいかなかった。

だから、今、私は無職だけれど、一人で誰とも会話の無いひきこもりだけど、生きている。

私が高機能自閉症という発達障害で、記憶が何一つ薄れずに蓄積される、というのでなかったら、あるいはもっと生きやすかったのかもしれない。
けれど、そう生まれてしまった。
これ以上はもう努力しようもない。

誰も褒めてはくれないけれど、私が自分を褒めてあげよう。よく頑張って、逃げずに今まで生きてきたね。
もし、タイムマシンであの頃の自分に会いに行けるなら、私は、子供の私、若い私を、思い切り抱きしめてあげよう。
学校でいじめられても、一人で膝を抱え、声を殺して泣いていた小学生の私を。
アルバイト先のデパートで、突然現れたフロア部長に、社員でもないのに他の商品の事で理不尽な叱責を受け、トイレで泣くしかなかった大学生の私を。
先輩教師に無能だと叱責され、君が担任だから生徒が不幸になると言われ、トイレで声を殺して泣いた26歳の私を。
今まで誰にも抱きしめられることが無かったから、せめて自分で、あの頃の私を抱きしめてあげたい。

パンは返せたのかなぁ。

いつか誰かに言ってほしい。
大丈夫。もうパンはちゃんと返せたよ。

三浦春馬さんの死2020/07/20

Flowers for ……
一昨日、俳優の三浦春馬さんが亡くなった。
4月5日に30歳になったばかりだという。
謹んで哀悼の意を表したい。

私は、特にファンというわけではないし、ひきこもっているので映画もあまり見ていないし、TVドラマもそんなに見ない。
けれど、昨日まで元気そうに活躍していた若い人が、自ら命を絶ったと思われるというのは、本当にショックだった。

私が三浦春馬さんを初めて知ったのは、2008年のTBSドラマ。
三浦春馬さん初主演で、佐藤健さんと共演していた「ブラッディ・マンデイ」を毎週楽しみに見ていた。
NHK「世界はほしいモノにあふれてる」も時々見ていた。
昨日はTVで詳しい報道は無かった。ネットならあるだろうと思ったけれど、興味本位の記事などは見たくなかった。

今日、昼の情報番組で取り上げられていた。留学先で、ルームメイトに涙を見せて悩んでいたという。東スポWebに書かれていた記事は、もし本当であれば、哀しすぎる。
私は涙を止められなかった。
知らない人はいない程の人気俳優なのに。
そこに至るまで、どんな苦しみを一人で抱えていたのだろう。

芸能人は、24時間衆人環視に等しい。ちょっとした事で、マスコミやネットで叩かれる。芸能人も人間なのに、仕事とは関係のないプライベートも記事にされる。刑事事件を起こしたわけでもないのに、家庭内の問題などは他人がとやかく言うべきではないと思うのに、週刊誌は付け狙い、ワイドショーのネタにされる。
常に聖人君子であらねばならないとでも言うように。

私は、教員という仕事を長年していた為に、地域では顔と名前がけっこう知られていた。
特に小さな町の学校に勤めていた頃は、夕方買い物に行くと、買い物カゴの中身がバレバレで、「先生、今日の夕ご飯は魚ね?」などと言われ、レジに行く前にカゴの中身を吟味しなければならなかった。
同僚は、冠婚葬祭事典を買っただけで、「来週の大安は結納らしい」という噂が地域に広まったという。教員たちは、恋人が出来ても、わざわざ他県でデートするという。私は、どこかに似た人がいたらしく、「昨日の日曜、車でデートしてたやろ」と生徒に言われたことがある。火が無くても煙が立つのだ。

県内のあちこちの病院などには、かつての生徒が何人も居て、更年期障害の治療のために近所の産婦人科病院に行ったら、未婚か既婚かどころか性交頻度まで記入しなければならず、「一体なんでこんな質問まで答える必要があるよ!」と内心怒りながら仕方なく記入していたら、受付の看護師が、「(月)先生! (月)先生ですよね。覚えてます? 私○○中学校で先生の授業受けたんですよ」って、超恥ずかしい思いを。

担任した生徒なら忘れないけれど、週に2時間程度の授業をした生徒は数え切れない。全員を覚えているのは無理。それに、先生は既に大人だからあまり容貌が変わらないが、中学生は大人になったらほぼ別人ということもある。さらに、そんな生徒達の保護者の顔までは到底分からない。
不特定多数の人に知られているというのは、ある意味脅威だ。どこで誰が見ているか分からない。私は、大学時代までは書店でよく立ち読みをした(その何倍も購入した)が、教員になってからは、一度もしていない。教員として、常に模範でなければならないと思ったから。それに、
「(月)先生が○○書店で立ち読みしてた」なんて噂になったら恥ずかしい。

しがない地方の教員でさえ、それほど人目が気になるのだ。
人気俳優の日常がどれほど神経を使うものかは、想像に難くない。

真面目で努力家で誠実で、繊細な方だったという三浦春馬さん。
今後どれだけ多くの活躍があったかしれないのに、誰にも相談できずに命を絶ってしまった。未来を閉じてしまった。
辛さを表に出せなかった苦しみを想うと、胸が張り裂けそうになる。

どうか安らかな眠りにつかれますように。

土用の丑の日2020/07/21

陽光に映えるハイビスカス
今日は土用の丑の日らしい。
母が比較的元気だった頃には、私も「鰻の蒲焼」を買って母と一緒に食べていた。

鰻と言えば、小学2年生くらいの頃の思い出がある。
「となりのトトロ」と同じ「ととろ」という地域の川の近くに父の会社の同僚がいて、釣りに2回連れて行ってもらったことがあった。
枝を落とした竹の釣り竿で、私は初めて釣りをした。と言うか、その2回しか釣りをしたことないけれど。
私は針にミミズやゴカイを付けることが出来なくて、父の同僚の助けを借りながら釣りをした。私を含め、釣れたのはフナやハゼ、エビばかりだったのだが、母が、2回とも鰻を1匹釣った。
50年も昔のことだし、母の料理のレパートリーは少なく、釣れた魚は全部、砂糖と醤油で甘辛く煮付けて家族で食べた。「鰻は本当は蒲焼にすると美味しいんだけどね」と母が言ったのを覚えている。当時は、蒲焼といったら、竹輪の蒲焼しか食べたことが無かったし、土用の丑の日とか全然知らなかった。
貧しい時代だった。電話も無かったし。

私が初めて鰻の蒲焼を食べたのはいつだっただろう。鰻重と言うものを初めて食べたのは、私が県の教員採用試験に合格し、初任校が天然鰻で有名な地域だったので、鰻専門店に案内されて食べた27歳の時が初めてだったと思う。そして、土用の丑の日に蒲焼を食べたのは、多分15年くらい前が初めて。
両親は「蒸してあるから柔らかいです」と表示されている市販の鰻の蒲焼が気に入らなかった。市販されているのはほぼ関東風で、私も、鰻の蒲焼は関西風じゃないと!と思う。

母の要介護度が上がってからは、鰻の蒲焼は食べていない。度々嘔吐下痢をしていたから、食事は、柔らかくて消化の良いあっさりして飲み込みやすい物に限られるようになったから。それ以来、私も食べていない。

そもそも、土用の丑の日に鰻の蒲焼を食べる習慣は、土用の頃には暑さで食欲が落ち、売り上げが落ちて困った鰻屋が平賀源内に相談した事に始まっていて、暑さで体力が落ちるこの時期に栄養豊富な鰻を食べることは理にかなっているというが、別に鰻に限らず、栄養豊富なら良くて、実は鶏胸肉が一番良いらしい。

鶏胸肉は栄養価が高いだけではなく、抗酸化作用が高く疲労回復や夏バテにも効果のあるイミダペプチドが豊富に含まれ、しかも比較的安価。その効果がTVで宣伝されるようになってから、値段は4倍くらいに高くはなったけれど、それでも他の部位よりは安価だ。
私はまとめ買いして冷凍し、必要に応じて電子レンジで蒸し鶏にして食べる。

今日はどうしようかな。
限りなく猛暑日に近い真夏日が続き、コロナ禍もあってほぼ外出しないし、一人では何を作って食べても、あんまり美味しくは感じないし。
それに、長雨で野菜が例年の3倍くらいの値段。私の経済観念ではなかなか手が出せない。
裏庭に自分で開墾したミニ農園が無ければ、野菜不足になるかも。

病気になって病院に行くのは面倒だし、まだコロナ感染が不安だし、看病してくれる人もいないから、一応栄養はしっかり摂取しなければ。
1パック食べれば1回の食事OKなサプリ食品ないかなぁ。
サプリメントじゃなくて、食品。
現在市販されている栄養補助食品は、補助的に食べるにはいいけれど、毎日そればかり食べていると、糖質過多で健康を害するらしい。低カロリーにするために果糖が入っているのも気に入らない。皮膚の糖化の原因になるらしいから。

仕方ない、夕飯の支度をしよう。
焼いた鯖と鮭の切り身が冷蔵庫に残っているから、それに大根おろし添えようっと。

亡き父に線香を上げ認知症の母を想う2020/07/22

父への献花(造花)
今朝、仏壇に線香を上げていて、ふと思い出したことがある。

季節は今より少し前の、5月か6月の、父の月命日の頃だったと思う。

母には軽い認知症の症状は見られたが、認知症に対してやや知識のある私でなければ気付かない程度のものだった。

私はその頃、市の教育委員会からの依頼で、産休代替で高等学校の講師をしていた。父の月命日が近かったから、私の休日に車で墓参りに行く話をしていた。
父の墓は、車でも10分以上、自転車で20分ほどの場所だった。

仕事を終えて帰宅すると、疲れ果てた母が居た。
押し車を押して歩いて墓参りに行ったのだと言う。
母は、まだ腰は曲がっていなかったし、ちょうど一年前に手術した膝も痛がってはいなかった。
70歳直前まで愛用していた自転車は、引っ越しを機に、もう怖いからと処分していた。
「えー、車で一緒に行こうって言ってたのに」
「うん、そうだけど、影って暑くなかったし」
たぶん母は、休日の私の時間を潰したくないと思ったのだろう。高齢者らしい余計な遠慮をしたのだ。
「でも、歩いたら1時間以上かかったでしょう?」
「うん、かかった」
「押し車を押してあの距離を歩くなんて、疲れて当たり前よ。もう絶対に一人で行ったらだめよぉ」
「うん、もう行かん」
母は、さすがに堪えたらしかった。

普通の判断力があれば、山育ちや農家で日頃から足腰を鍛えているならともかく、散歩や週に2度のスイミング程度の運動しかしていない高齢者が、夏に押し車を押して歩ける距離ではないと分かるはずだった。それだけ、判断力が衰えていたのだ。
けれど、途中で倒れることもなく、往復3時間以上を、よくも自力で行って帰ってこられたものだと思った。
途中で苦しくなり、後悔したに違いない。けれど、ここまで来たら後少し、そう思って、引き返さずに墓地まで行ったのだろう。帰りのことまで考えられずに。行けば、同じ距離を帰らねばならないのだ。しかも、行きの行程と墓の掃除で疲れ果てた状態で。それを為し終えた母の精神力は脅威に値すると思う。
あるいは、初期とは言え認知症により後先が予見できないために、ただ夢中で歩くことができたのだろうか。

父が亡くなった当初は、母はしっかりしていたと思う。けれど、私が実家に引っ越してふた月ほどは、夜に一人で寝るのを怖がり、2階の和室で母と枕を並べて寝た。
私がまだ幼い頃、父が出張で数日家を空けると、母は決まって夜に金縛りになったと昔聞いた。母は、一人暮らしの経験が全く無く、口では父を嫌っていたが、精神的には父に依存していたと思う。

私が母の認知症の兆候に気付いたのは、引っ越しで持ち帰った自分の台所用品を、新築後5年ほどの実家の収納庫に片づけていた時の事だ。調味料や乾物や台所用品など、同じ物があちこちにあった。使用半ばで忘れられたままの物もあった。認知症が始まりかけていると思った。

決定的になった出来事は、ある日、私が近所のドラッグストアに買い物に行ってくると言ったときの事だった。ヘアクリームを買ってきて欲しいと母が言う。
しばらく前にも買っていたので、そんなに早く無くなるはずはないと思い、浴室脱衣場の洗面台を確認してみた。私自身は、2階にある洗面台を使っていたので、浴室脱衣場の洗面台は殆ど使わず、その物入れを開けてみることはあまりなかった。
ヘアクリームは、確かにもう量が少なくなっていたが、ピンク色のヘアスプレーがあった。女性用の、髪形を柔らかいカールに整えるヘアスプレーだ。
てっきり、母が自分のために購入して忘れているのだと思った。
「お母さん、このヘアスプレーは?」
「それは、お父さんに買うてきたとよ」
「これ、女性用だよ?」
「でも、お父さん、毎朝使いよったよ」
私はそれ以上聞き返すことが出来なかった。
ピンクのヘアスプレーを元の場所に仕舞いながら、私は涙をこらえることが出来なかった。

母も以前は、ちゃんと男性用のヘアスプレーを父に買っていた。

父には、亡くなる5,6年年前から既に軽い認知症の症状があった。以前の家では柑橘系の果樹を何本も栽培して沢山の実を成らせていたのに、新築した家の裏庭の砂利の中に甘夏の苗木を植え、肥料も腐葉土も施さず、そのままだった。右と左が分からなくなり、車の運転中に、右よ、と言っても左に曲がったという。死ぬまで、お金には細かかったが。

母も、周囲も本人も自覚しなくても、既に父が居た頃から認知症が始まっていたのだ。だから、父に、若い女性用のピンク色のヘアスプレーを買ってきた。
そして、父は、それが若い女性用とも分からずに、毎朝ピンク色の女性用ヘアスプレーを使ってシルバーグレイの髪を整えていたのだ。女性用だと気付いたなら、短気な父が、「こんな物が使えるか!」と母を叱責しないわけは無かったから。
父は、若い頃からハンサムでオシャレで、高齢になってもダンディだった。毎朝、鏡の前に長い時間立ち、足腰が弱ってからは椅子に腰かけて、身だしなみを整えるのに余念がなかった。

そんな父と母の様子が目に浮かび、涙を堪えきれなかった。

父に疎まれていたとは言え、私がもっと早く気付いてあげたかった。
そうすれば、ちゃんと男性用化粧品を買ってあげられたのに。

私は、涙を拭き、それ以上は母に何も言わずに、新しいヘアクリームを買った。
もう9年も前の事だ。

今月の父の月命日は過ぎたが、もうしばらくするとお盆が来る。
コロナ感染再拡大で、一時期解除されたグループホームの面会も、再び禁止になった。

そして父は竜になった2020/07/22

竜神様のジグソーパズル
最近、急に猛暑日が増え、昨日も今日も、農作業中の高齢者が熱中症で亡くなったニュースを見た。とても悲しく辛くなる。
昨日まで元気にしていた高齢者が、突然に熱中症で亡くなる。防ぎようは無かったのかと。

高齢者は、暑さ寒さを感じにくくなり、たとえ暑いと感じても、取るべき行動の判断が出来なかったりする。エアコンがあってもつけずに熱中症で亡くなるのは、暑いことが分からなかったり、暑いと思ってもエアコンを付けるという考えに至らなかったりする場合もある。高温の農業用ハウスや日中の畑で亡くなるのは、暑いと思わないか、思ったとしても「これくらいは大丈夫」と思ってしまうのかもしれない。
どうか、高齢者の家族や近所に住む方は、見守り、助けてあげて欲しい。
高齢者本人が、たとえ「大丈夫だ」と言ったとしても。

私の父も、熱中症で倒れたことがある。
たまたま実家に帰っていた日で、父はいつも夕食前の夕方に入浴していたのだが、浴室で声がして、駆け付けてみると、父は浴室と脱衣所の間で倒れていた。
その時、直ちには熱中症とは判断できなかった。頭を打っているかもしれないし、父は狭心症で手術して通院もしていたし、祖父は私が5歳の頃に脳出血により69歳で他界している。すぐに動かすのは危険だった。
裸の父にバスタオルを掛け、呼びかけると、返事はできた。頭は打っていないと答え、呂律が回らない等の症状はなく、強い頭痛や胸の痛みなども無いようだった。
父はかなりの長風呂だった。熱中症だと思った。
氷水を作り、飲ませた。頭の下にバスタオルを重ねて枕にし、脇の下と足の裏も冷たいタオルで冷やすと、父は気持ちがいいと言った。うちわで風を送りながら、しばらくはその場所で様子を見た。
居間に冷房を付け、父が自分で体を動かせるようになって、肩を貸して居間で休ませた。
父は大丈夫だった。たまたま私が居る時で本当に良かったと思った。

私は中学生以降、父から様々な仕打ちを受けた。実の娘であるのに、敵であるかのように。
私が教員になって15年程経った頃、精神的に追い込まれて心療内科に通って休職することになり、さらに、当時住んでいたアパートの前の住人にストーカー行為をしていた男が、住人が変わったのに私にストーカー行為をし、仕方なくアパートを引き払って一時的に実家に身を寄せることになった時でさえ、父は、私に容赦がなかった。
けれど、私は父を許した。
子供の頃からの辛く悲しかった記憶は1ミリも薄れはしなかったが、高齢の父を恨み続けても、気持ちが楽になるわけではない。

父は、初めてではないかと思うが、私にありがとうと言った。
「あんたが居てくれて良かった」と。

父は、その後、私に対して急に態度を軟化させる、ということは無かったが、何かしてあげると、「ありがとう」を繰り返すようになった。
母には、次は私がいつ実家に帰ってくるかと、しきりに聞いていたという。私は2週おきくらいには帰っていた。

そして、父は、その1年後くらいに狭心症で亡くなった。
私は死に目に会えなかった。
もし、あの時、父が熱中症で倒れた時のように実家に居たら、心肺蘇生法をやれたのに。近所の歯科医に、すぐにAED(自動体外式除細動器)を持ってきて、と叫ぶことができたのに。(私は何度も研修を受け、生徒にも教えていた)
病院で、もう動かない冷たくなった父に一人再会した時、私はベッドにすがって泣いた。
家族皆で「百歳まで生きるよね」と言うほどに元気そうで、急に死ぬなんて、心の準備が全くできていなかったから。

父は、内心はきっと私を愛さないわけではなかったと思う。ただ素直に表現できなかったのだろう。姉に対しては出来たことを、なぜ私に対しては出来なかったのか、それは永遠に分からない。
けれど、辰年生まれの父は、きっと竜神様になって、私を守ってくれている。

写真の竜神様のジグソーパズルは、家を新築した数年後に量販店で見つけ、父のために買ったものだ。
私は、両親の認知症予防に役立つだろうと、両親が60代の頃からジグソーパズルをプレゼントしていた。始めは小さくて比較的簡単なものから、次第に大きな物へ。両親が好きそうな、富士山や桜の風景など。
両親はすっかり夢中になって、寸暇を惜しんで二人で、あっという間に完成させるようになったが、竜神様のジグソーパズルを完成させた後、父は、パズルをするのに疲れるようになったから、もう買ってこなくていいと言った。

父が亡くなって母と二人で毎朝毎夕仏壇に線香を上げる時、毎日色々と父に話しかけた。
「お父さん、明日、野外研修で○○に行くんだけど、天気予報は雨でね、お父さん、何とか雨降らないようにお願いします」
当日、天気予報は変わらずに雨だったのだが、雨は全く降らなかった。
その後も、雨が降ると都合が悪い時に仏壇で父に話すと、天気予報が雨でも、必ず天気に恵まれた。
「お父さん、台風がこっちに向かってきてるから、蹴飛ばして守ってね」
私の住む地域は、毎年台風が直撃し、竜巻で大きな被害を受けたこともあるのだが、父が亡くなって以来、一度も直撃が無い。まっすぐこちらに向かっていた台風が、直前で急にコースを曲げて直撃を免れたことが何度もある。10年間、本当に一度も直撃を受けていない。

だから、私は信じているのだ。父は竜神様になったと。
竜神様と言うのが言い過ぎなら、そのお使い?

父が亡くなったこの家に、一人きりで住んでいても、きっと父が見守ってくれていると思うから、怖くはない。

お父さん、お母さんのことも見守ってね。
私はコロナで会いに行けないけれど、お父さんなら会いに行けるよね。