小説家の才能 ― 2020/07/16
昨夜、芥川賞と直木賞のニュースを見た。
きっと、多くの方が、受賞作を読みたいと、関心を持ってニュースを見たことと思う。
私には、一方的にだが、苦い(と言うのも変だが)記憶がある。
2003年下半期の発表の後、新聞の見開き全面の「小説は、1にも2にも才能で、努力なんて関係ない」という見出しが私の目に飛び込んできた。それは、瀬戸内寂聴先生と、最年少記録で芥川賞を受賞された方(名前はあえて書かない)との対談だった。
瀬戸内寂聴先生の言葉はこうだった。
「小説は1にも2にも才能で、努力なんて関係ない。あなたが非常に若くして賞を取ったのも、あなたに才能があったから」
たぶん、誰もが、「そんなの当たり前」と思って、気にも留めないだろう。
けれど、私は打ちのめされた。
ああ、そうなんだ。凡人がどんなに頑張っても無駄なんだ。だって、瀬戸内寂聴先生がおっしゃるのだから。
私は、中学生の頃からノートに小説を書いていた。村岡花子先生訳「赤毛のアン」シリーズを全部読み、いつかモンゴメリのように小説家となり、ギルバートのような人(モンゴメリ自身の結婚相手は牧師だったと思うけれど)と結婚し、たくさんの子供たちと幸せに暮らすのが夢だった。どうすれば小説家になれるか当時は情報も無く、ただひたすらノートに書いていた。
しばらく後に、ノートではダメで、練習であっても原稿用紙でなければならないと知り、原稿用紙を多量に買った。立原えりか先生の童話の後書に書かれていたと思う。
読み返すたびに書き直す私は、原稿用紙は書き直しだらけで読めなくなり、何度も1から書き直さなければならず、漸く家庭用のワープロが使える程度になった時、ボーナスをはたいて買った。なにしろ、それ以前のワープロは、ディスプレイが3行程度しか表示できなかった。
仕事が休みの日、ひたすらワープロに向かった。
けれど、ワープロで1文書に保存できる容量は限られており、いくつにも分けて保存しなければならなかった。ようやく家庭用カラーノートパソコンが発売されたが、100万円以上して、仕方なく最新のワープロに買い替えた。それでも、十分ではなかった。
ようやくパソコンに買い替え、ワープロ原稿も投稿が認められるようになり、短編や長編を投稿したが、全て没だった。
それでも、努力はいつか実るかもしれないと思っていた。
そんな前向きな気持ちが、打ち砕かれた瞬間だった。
しばらくは何も書けなくなった。
たとえ才能が無くても、何倍もの努力で頑張る!
私は再び書き始めた。
賞を取るだけが道ではないと、私はあらゆる可能性を模索した。
共同出版という形で、出版できることになった。
編集者は、私の文章が難解だと指摘した。その指摘を受けることは分かっていたが、万人向けではないと分かっていても、平易な文体にして作品世界のイメージを崩したくなかった。
大変な苦労の末、出版はされたが、私には大きな不満が残った。
1. カバー表紙は私がパソコンで作ってデータ送信したものを元にしたにも関わらず、出版会社のデザイナーの作になっていたこと。
2. 何の相談もなく、帯に「スペースオペラ」と書かれてしまったこと。読めば分かるがスペースオペラではない。おそらく、宇宙が舞台となるファンタジーだからと、安易にスペースオペラと書いたのだろうが、そもそもスペースオペラとは、昼ドラを、石鹸会社がスポンサーであることが多かった為にソープオペラ、西部劇をホースオペラと呼び、馬が宇宙船に変わっただけとの揶揄を込めて呼んだものだ。出版界にいて、そんなことも知らないとは。
3. 契約や打ち合わせにあたっては、会社が旅費を出して会社にて行うと文書には書かれていたが、初めて電話があった時、震える声でその事を尋ねると、「自分は契約担当だから、編集担当者からまた話がある」との答え。しかし、ついに一度も誰とも顔を合わせることは無かった。私が地方に住む為に、軽んじられたのだ。
4. 初めての出版であるというのに、校正に対する厳しい要求があり、校正の記入の仕方が悪い、見にくい、遅いと散々に言われ、「〇日までに郵送して下さい」とあるのでその通りにすると、「〇日までというのは〇日必着と言う意味だ。後のスケジュールが押して困るのはあなた自身だ」とのメール。向こうが郵送して私に届くまででも2日程かかるのに、それでは私は、300頁もの原稿の校正に3日もかけられないことになる。そもそも、後から校正でいくらでも直せるからとせかされ、不本意な原稿のままゲラ刷りに出したのに。
5. 最終的に製本されたものには、結局4か所の重大な校正ミスがあった。所詮は素人相手で、それなりにしか仕事をしてもらえなかったのかと思う。
私は悔しかったが、どうしようもなかった。せめて次の為にと、文部科学省認定社会通信教育「公正実務講座」を受講した。二度と屈辱的な扱いを受けることのないように。
教材が届いた数日後、父が急死した。
一人になった母を助ける為、私は実家に戻り、通夜や葬儀などを終えてから、アパートを引き払って実家に引っ越した。
私は鬱になった。中学生の頃から父に疎まれることの多かった私は、死に目に会えなかったことで、胸に大きなしこりが残った。既定の半年では講座を終えられる見込みがなく、3ヶ月の延長を申請し、死に物狂いで講座を終えた。
中学時代の同級生が、私の才能(有るか無いかは別として)を役立てたいというので、同窓会ホームページに、元同級生達を主人公や敵役脇役にしたライトノベルを連載した。ギャグ満載のライトノベルは初めてだったが、あふれ出る言葉を驚異的スピードで紡ぎだし、好評だった。
連載終了後は、別の元同級生に頼まれ、別の筆名で、ライトノベルではない不思議物語を連載した。ランキングではいつも上位になっていると元同級生には言われた。
母の認知症を見過ごせなくなってきた頃、東日本大震災が起きた。
私はニュース映像でしか見ていない。それでも、書けなくなった。書きたいと強く願う内容はいくつもあり、気持ちもあった。けれど書こうとしても、真実に程遠い絵空事に思えて、書き綴ることが出来なかった。
そして、母の認知症が重くなり、壮絶な介護生活が始まった。
家族介護者の中には、介護の実態をブログや書籍で公開している例も多いようだ。私にはそんな余裕は無かった。介護だけで精一杯だった。月に一度もパソコンを開けなかった。
今もTVで震災の映像が流れると、私は涙がこぼれ、正視できない。自分が体験したわけでもないのに。
全て言い訳にしかならない。
実際に候補となりながら落選した方々の悔しさは、私には推し量ることもできない。
皆きっと、命を削って書いているから。
報われるのは、一握りの才能の持ち主だけ。
それでも、この受賞者発表の時期になると、私には苦い記憶が蘇る。
多くの人は時間と共に記憶が薄れゆくのだろうと思うが、自閉症ゆえに、私の記憶は少しも薄れない。記憶と共に、その時の想いも全て。
きっと、多くの方が、受賞作を読みたいと、関心を持ってニュースを見たことと思う。
私には、一方的にだが、苦い(と言うのも変だが)記憶がある。
2003年下半期の発表の後、新聞の見開き全面の「小説は、1にも2にも才能で、努力なんて関係ない」という見出しが私の目に飛び込んできた。それは、瀬戸内寂聴先生と、最年少記録で芥川賞を受賞された方(名前はあえて書かない)との対談だった。
瀬戸内寂聴先生の言葉はこうだった。
「小説は1にも2にも才能で、努力なんて関係ない。あなたが非常に若くして賞を取ったのも、あなたに才能があったから」
たぶん、誰もが、「そんなの当たり前」と思って、気にも留めないだろう。
けれど、私は打ちのめされた。
ああ、そうなんだ。凡人がどんなに頑張っても無駄なんだ。だって、瀬戸内寂聴先生がおっしゃるのだから。
私は、中学生の頃からノートに小説を書いていた。村岡花子先生訳「赤毛のアン」シリーズを全部読み、いつかモンゴメリのように小説家となり、ギルバートのような人(モンゴメリ自身の結婚相手は牧師だったと思うけれど)と結婚し、たくさんの子供たちと幸せに暮らすのが夢だった。どうすれば小説家になれるか当時は情報も無く、ただひたすらノートに書いていた。
しばらく後に、ノートではダメで、練習であっても原稿用紙でなければならないと知り、原稿用紙を多量に買った。立原えりか先生の童話の後書に書かれていたと思う。
読み返すたびに書き直す私は、原稿用紙は書き直しだらけで読めなくなり、何度も1から書き直さなければならず、漸く家庭用のワープロが使える程度になった時、ボーナスをはたいて買った。なにしろ、それ以前のワープロは、ディスプレイが3行程度しか表示できなかった。
仕事が休みの日、ひたすらワープロに向かった。
けれど、ワープロで1文書に保存できる容量は限られており、いくつにも分けて保存しなければならなかった。ようやく家庭用カラーノートパソコンが発売されたが、100万円以上して、仕方なく最新のワープロに買い替えた。それでも、十分ではなかった。
ようやくパソコンに買い替え、ワープロ原稿も投稿が認められるようになり、短編や長編を投稿したが、全て没だった。
それでも、努力はいつか実るかもしれないと思っていた。
そんな前向きな気持ちが、打ち砕かれた瞬間だった。
しばらくは何も書けなくなった。
たとえ才能が無くても、何倍もの努力で頑張る!
私は再び書き始めた。
賞を取るだけが道ではないと、私はあらゆる可能性を模索した。
共同出版という形で、出版できることになった。
編集者は、私の文章が難解だと指摘した。その指摘を受けることは分かっていたが、万人向けではないと分かっていても、平易な文体にして作品世界のイメージを崩したくなかった。
大変な苦労の末、出版はされたが、私には大きな不満が残った。
1. カバー表紙は私がパソコンで作ってデータ送信したものを元にしたにも関わらず、出版会社のデザイナーの作になっていたこと。
2. 何の相談もなく、帯に「スペースオペラ」と書かれてしまったこと。読めば分かるがスペースオペラではない。おそらく、宇宙が舞台となるファンタジーだからと、安易にスペースオペラと書いたのだろうが、そもそもスペースオペラとは、昼ドラを、石鹸会社がスポンサーであることが多かった為にソープオペラ、西部劇をホースオペラと呼び、馬が宇宙船に変わっただけとの揶揄を込めて呼んだものだ。出版界にいて、そんなことも知らないとは。
3. 契約や打ち合わせにあたっては、会社が旅費を出して会社にて行うと文書には書かれていたが、初めて電話があった時、震える声でその事を尋ねると、「自分は契約担当だから、編集担当者からまた話がある」との答え。しかし、ついに一度も誰とも顔を合わせることは無かった。私が地方に住む為に、軽んじられたのだ。
4. 初めての出版であるというのに、校正に対する厳しい要求があり、校正の記入の仕方が悪い、見にくい、遅いと散々に言われ、「〇日までに郵送して下さい」とあるのでその通りにすると、「〇日までというのは〇日必着と言う意味だ。後のスケジュールが押して困るのはあなた自身だ」とのメール。向こうが郵送して私に届くまででも2日程かかるのに、それでは私は、300頁もの原稿の校正に3日もかけられないことになる。そもそも、後から校正でいくらでも直せるからとせかされ、不本意な原稿のままゲラ刷りに出したのに。
5. 最終的に製本されたものには、結局4か所の重大な校正ミスがあった。所詮は素人相手で、それなりにしか仕事をしてもらえなかったのかと思う。
私は悔しかったが、どうしようもなかった。せめて次の為にと、文部科学省認定社会通信教育「公正実務講座」を受講した。二度と屈辱的な扱いを受けることのないように。
教材が届いた数日後、父が急死した。
一人になった母を助ける為、私は実家に戻り、通夜や葬儀などを終えてから、アパートを引き払って実家に引っ越した。
私は鬱になった。中学生の頃から父に疎まれることの多かった私は、死に目に会えなかったことで、胸に大きなしこりが残った。既定の半年では講座を終えられる見込みがなく、3ヶ月の延長を申請し、死に物狂いで講座を終えた。
中学時代の同級生が、私の才能(有るか無いかは別として)を役立てたいというので、同窓会ホームページに、元同級生達を主人公や敵役脇役にしたライトノベルを連載した。ギャグ満載のライトノベルは初めてだったが、あふれ出る言葉を驚異的スピードで紡ぎだし、好評だった。
連載終了後は、別の元同級生に頼まれ、別の筆名で、ライトノベルではない不思議物語を連載した。ランキングではいつも上位になっていると元同級生には言われた。
母の認知症を見過ごせなくなってきた頃、東日本大震災が起きた。
私はニュース映像でしか見ていない。それでも、書けなくなった。書きたいと強く願う内容はいくつもあり、気持ちもあった。けれど書こうとしても、真実に程遠い絵空事に思えて、書き綴ることが出来なかった。
そして、母の認知症が重くなり、壮絶な介護生活が始まった。
家族介護者の中には、介護の実態をブログや書籍で公開している例も多いようだ。私にはそんな余裕は無かった。介護だけで精一杯だった。月に一度もパソコンを開けなかった。
今もTVで震災の映像が流れると、私は涙がこぼれ、正視できない。自分が体験したわけでもないのに。
全て言い訳にしかならない。
実際に候補となりながら落選した方々の悔しさは、私には推し量ることもできない。
皆きっと、命を削って書いているから。
報われるのは、一握りの才能の持ち主だけ。
それでも、この受賞者発表の時期になると、私には苦い記憶が蘇る。
多くの人は時間と共に記憶が薄れゆくのだろうと思うが、自閉症ゆえに、私の記憶は少しも薄れない。記憶と共に、その時の想いも全て。
豪雨災害に認知症の母を想う ― 2020/07/10
今朝目覚めると、天気予報とは違って雨がやみ、わずかに薄日が差していた。
チベット高気圧と太平洋高気圧に挟まれた梅雨前線は、もう7日間も停滞しているらしい。そのせいで「令和2年7月豪雨」は、九州のみならず列島全域へと被害を拡大させつつあるようだ。
被災地のニュースを見ると、本当に辛くなる。浸水した施設で亡くなった高齢者の方々、一度は避難しながら家に戻り、奥様が息子さんの骨壺を抱いて亡くなられていたというニュース。胸が締め付けられる。
そして、施設の高齢者が自衛隊員に抱きかかえられて無事に救出されたというニュース。見るたびに涙があふれ出る。私には、自衛隊員に抱きかかえられた白髪の高齢者が、どうしても自分の母親と重なってしまうのだ。
もう8年程も前になるが、母に認知症の兆候があることはすぐに気付いた。
かつて高等学校教諭だった私は、家庭用ノートパソコンが普及し始めたWindows3.1の頃には生活情報化設置準備のために3か月間の内地留学を命じられ、新学科設置の責任を果たすとすぐに異動を命じられて、次には介護福祉士養成のための福祉学科で生徒に指導するために医科大学での2週間の集中講義等を受け、生徒の実習先である老人介護施設等へも頻繁に訪問していた。
教育委員会や学校の都合で、私自身には何の打診もなく、パソコン、次には福祉と、時代のニーズにそった教科を担当することになってしまい、苦労の連続ではあったが、全て自分の役にも立ち、幸運だったとも言える。そのおかげでパソコンが扱え、高齢者の病気や介護保険制度に関する知識もあったのだから。
母は、特定検診でコレステロール値が高めだと言われただけで食欲を無くしてしまうほどだった。母の心を傷付けずに在宅介護サービスに繋げるには半年を要した。母は予想通り要介護1で、膝関節変形症などの薬のほか認知症の進行を遅らせる薬も処方されるようになったが、やがて要介護2となり、生活の全てに見守りと援助が必要となった。
母はデイケアでの入浴を嫌がったので、私が汗だくになって入浴させ、私自身の入浴は母が寝入ってから5分ほどで済ませた。母がいつ目を覚ましてトイレを探すか分からなかったからだ。
二年目には薬の副作用で内臓も弱り、救急搬送を依頼して2か月も入院生活を余儀なくされ、私は毎日面会に行って、病院では不十分だった歯磨き目薬などのケアをした。
退院後は、せん妄や徘徊などの症状も現れず、再びデイケアにも通えるようになったが、安心も束の間、認知症は進行して要介護3となり、体調も再び悪化した。
体調が悪いと、デイケアもショートステイも断られる。私は24時間付ききりとなった。母がデイケアに行っていた頃は、迎えが来て送り出し、送られて帰宅するまでの6時間に家事を済ませ買い物に行き足りない睡眠を昼寝で補うことも出来たが、それも出来なくなった。
昼は転倒しないように気を配り、トイレを探す素振りを見せれば連れて行き、好物の柔らかく食べやすい食事を用意し、夜間は数時間ごとに目を覚ます母に対応し、トイレに連れて行き、汚したパジャマを着替えさせ、トイレを掃除し、漸く眠っても、すぐに目を覚まし、部屋の明かりが気に入らないと言い、消すと今度は暗いと言い、寝てくれなかった。一晩に8回もトイレに連れて行った。母は私を起こさない。起こすことを思いつけない。だから私が気配で察し、「お母さん、どうしたの?トイレ?」と声を掛けるのだ。母自身が悪いわけではなく全ては認知症のせい。私は決して母を責めはしなかった。
私自身は眠る時間もなく限界になっていた。寝てくれない母を残して寝室の戸を閉め、真夜中の廊下で泣き叫んだ。それから涙を拭き、寝室に戻って母に添い寝し、肩に手を置いて優しく子守唄を歌った。
地域の病院は当てにならず、隣の市にある認知症指定病院の予約を取って受診し、2回目の受診を待たずに、止まらない下痢や嘔吐のために母は入院することになった。
全ての薬を中止して経過観察をすること3ヶ月、母の体調は良くなったが、認知症は更に進行した。勧められるまま、同じ敷地内にある介護老人保健施設に入所した。
けれど、私はあの時の選択を後悔している。
病院や姉の反対を押し切っても、母を連れ帰り、あの時に小規模多機能型居宅介護を選択すべきだったと。
カンファレンスで聞く説明とは裏腹に、体力も弱って表情も虚ろになっていくように見えた母。面会に行くと、汚れた服を着ていることも多く、私が着替えさせたり、着替えを頼んだりした。適切なトイレ誘導がされず、汚れたままの紙オムツが何時間もそのままだったりしたようだった。ズボンの洗濯物が半端なかった。時には1週間で16枚も。
地域包括支援センターに相談の電話をするも相談自体を拒否され、しばらくは私自身に様々な病気が表れて動けなかったが、事態は深刻さを増し、私は自力で母のための施設を探した。地域包括支援センターが提供してくれない資料をインターネットでダウンロードし、その資料を基に条件に合いそうな施設を丹念にネットで検索して探し出し、詳細情報をプリントアウトして電話でアポを取り、見学に行った。介護体制や職員の人柄は勿論大事だったが、それらがどんなに良かったとしても、私には外せない条件があった。
高齢者施設は、ハザードマップ浸水域にあることも珍しくないのだ。土地代が安く、利用料を押えられるからだ。そして、見学に行ってみると、浸水域であるにも関わらず、かさ上げ等の対策はおろか、水害時の避難先など対応が未定という施設さえあった。
自力での避難が不可能な母のケアをお願いする施設は、ハザードマップ浸水域ではなく、万一の時には垂直避難が可能なこと、それは私の中で絶対条件だった。
事情により1か月の間で4回も施設が変わるという事態になってしまったが、幸いにして、全ての条件を満たすグループホームが見つかり、奇跡的なタイミングで待機者のキャンセルがあって、早くても3か月待ちと言われるのに見学した当日に入所が決まって、母は今、そのホームで笑顔で暮らしている。
私は、本当は支援を受けながら在宅で母の介護をしたかった。もう一度、母に自宅での日々を思い出してほしかった。私を思い出し、笑顔で名前を呼んでほしかった。
けれど、私はそれらを諦める決断をした。
母を自宅に連れ帰った数日間、気分が良ければ手を引いてトイレに誘導でき、美味しそうに食事をし、ちぐはぐな言葉に相槌を打っていると笑顔があふれ、時折は話がかみ合って、また笑顔となった。けれど、母の気が向かなければ、着替えもトイレ誘導も出来ず、母に辛い思いをさせるだけだった。紙オムツが汚れても分からずに交換を嫌がる母を、私では幸せにしてあげられなかった。
母の幸せは、自宅や私を思い出すことではない。毎日を笑顔で穏やかに暮らせることなのだ。
「いくら支援を受けても、要介護5のお母さんを在宅で一人で介護するのは無理ですよ。要介護3でもです。うちでは3人がかりですよ」
そう話す担当の介護士の前で、私は涙をこらえることができなかった。
介護のプロでさえ3人で行う介護が、少しばかり知識と技術があるだけの私一人に出来るわけがなかった。
水害の中、自衛隊員に抱きかかえられて無事に救助される白髪の高齢者。
私は、自分で介護することの叶わない母を想う。
私自身の体調悪化とコロナ禍で、半年も会うことが出来なかった母。先日、要請のあったタオルケット等を持って行った際に、食堂でTVを見ている母を、離れた戸口から眺めた。見違えるように快活になり、隣の席の入所者と笑いあっていた。
以前よりスムーズに介護出来るようになったと聞いた。
再び私の名前を呼んでくれることがあるだろうか。
半夏生が過ぎ、雨の七夕も過ぎて、今日、庭でニイニイゼミの初鳴きを聞いた。しばらくして止んだと思ったら、再び雨が降り出した。
チベット高気圧と太平洋高気圧に挟まれた梅雨前線は、もう7日間も停滞しているらしい。そのせいで「令和2年7月豪雨」は、九州のみならず列島全域へと被害を拡大させつつあるようだ。
被災地のニュースを見ると、本当に辛くなる。浸水した施設で亡くなった高齢者の方々、一度は避難しながら家に戻り、奥様が息子さんの骨壺を抱いて亡くなられていたというニュース。胸が締め付けられる。
そして、施設の高齢者が自衛隊員に抱きかかえられて無事に救出されたというニュース。見るたびに涙があふれ出る。私には、自衛隊員に抱きかかえられた白髪の高齢者が、どうしても自分の母親と重なってしまうのだ。
もう8年程も前になるが、母に認知症の兆候があることはすぐに気付いた。
かつて高等学校教諭だった私は、家庭用ノートパソコンが普及し始めたWindows3.1の頃には生活情報化設置準備のために3か月間の内地留学を命じられ、新学科設置の責任を果たすとすぐに異動を命じられて、次には介護福祉士養成のための福祉学科で生徒に指導するために医科大学での2週間の集中講義等を受け、生徒の実習先である老人介護施設等へも頻繁に訪問していた。
教育委員会や学校の都合で、私自身には何の打診もなく、パソコン、次には福祉と、時代のニーズにそった教科を担当することになってしまい、苦労の連続ではあったが、全て自分の役にも立ち、幸運だったとも言える。そのおかげでパソコンが扱え、高齢者の病気や介護保険制度に関する知識もあったのだから。
母は、特定検診でコレステロール値が高めだと言われただけで食欲を無くしてしまうほどだった。母の心を傷付けずに在宅介護サービスに繋げるには半年を要した。母は予想通り要介護1で、膝関節変形症などの薬のほか認知症の進行を遅らせる薬も処方されるようになったが、やがて要介護2となり、生活の全てに見守りと援助が必要となった。
母はデイケアでの入浴を嫌がったので、私が汗だくになって入浴させ、私自身の入浴は母が寝入ってから5分ほどで済ませた。母がいつ目を覚ましてトイレを探すか分からなかったからだ。
二年目には薬の副作用で内臓も弱り、救急搬送を依頼して2か月も入院生活を余儀なくされ、私は毎日面会に行って、病院では不十分だった歯磨き目薬などのケアをした。
退院後は、せん妄や徘徊などの症状も現れず、再びデイケアにも通えるようになったが、安心も束の間、認知症は進行して要介護3となり、体調も再び悪化した。
体調が悪いと、デイケアもショートステイも断られる。私は24時間付ききりとなった。母がデイケアに行っていた頃は、迎えが来て送り出し、送られて帰宅するまでの6時間に家事を済ませ買い物に行き足りない睡眠を昼寝で補うことも出来たが、それも出来なくなった。
昼は転倒しないように気を配り、トイレを探す素振りを見せれば連れて行き、好物の柔らかく食べやすい食事を用意し、夜間は数時間ごとに目を覚ます母に対応し、トイレに連れて行き、汚したパジャマを着替えさせ、トイレを掃除し、漸く眠っても、すぐに目を覚まし、部屋の明かりが気に入らないと言い、消すと今度は暗いと言い、寝てくれなかった。一晩に8回もトイレに連れて行った。母は私を起こさない。起こすことを思いつけない。だから私が気配で察し、「お母さん、どうしたの?トイレ?」と声を掛けるのだ。母自身が悪いわけではなく全ては認知症のせい。私は決して母を責めはしなかった。
私自身は眠る時間もなく限界になっていた。寝てくれない母を残して寝室の戸を閉め、真夜中の廊下で泣き叫んだ。それから涙を拭き、寝室に戻って母に添い寝し、肩に手を置いて優しく子守唄を歌った。
地域の病院は当てにならず、隣の市にある認知症指定病院の予約を取って受診し、2回目の受診を待たずに、止まらない下痢や嘔吐のために母は入院することになった。
全ての薬を中止して経過観察をすること3ヶ月、母の体調は良くなったが、認知症は更に進行した。勧められるまま、同じ敷地内にある介護老人保健施設に入所した。
けれど、私はあの時の選択を後悔している。
病院や姉の反対を押し切っても、母を連れ帰り、あの時に小規模多機能型居宅介護を選択すべきだったと。
カンファレンスで聞く説明とは裏腹に、体力も弱って表情も虚ろになっていくように見えた母。面会に行くと、汚れた服を着ていることも多く、私が着替えさせたり、着替えを頼んだりした。適切なトイレ誘導がされず、汚れたままの紙オムツが何時間もそのままだったりしたようだった。ズボンの洗濯物が半端なかった。時には1週間で16枚も。
地域包括支援センターに相談の電話をするも相談自体を拒否され、しばらくは私自身に様々な病気が表れて動けなかったが、事態は深刻さを増し、私は自力で母のための施設を探した。地域包括支援センターが提供してくれない資料をインターネットでダウンロードし、その資料を基に条件に合いそうな施設を丹念にネットで検索して探し出し、詳細情報をプリントアウトして電話でアポを取り、見学に行った。介護体制や職員の人柄は勿論大事だったが、それらがどんなに良かったとしても、私には外せない条件があった。
高齢者施設は、ハザードマップ浸水域にあることも珍しくないのだ。土地代が安く、利用料を押えられるからだ。そして、見学に行ってみると、浸水域であるにも関わらず、かさ上げ等の対策はおろか、水害時の避難先など対応が未定という施設さえあった。
自力での避難が不可能な母のケアをお願いする施設は、ハザードマップ浸水域ではなく、万一の時には垂直避難が可能なこと、それは私の中で絶対条件だった。
事情により1か月の間で4回も施設が変わるという事態になってしまったが、幸いにして、全ての条件を満たすグループホームが見つかり、奇跡的なタイミングで待機者のキャンセルがあって、早くても3か月待ちと言われるのに見学した当日に入所が決まって、母は今、そのホームで笑顔で暮らしている。
私は、本当は支援を受けながら在宅で母の介護をしたかった。もう一度、母に自宅での日々を思い出してほしかった。私を思い出し、笑顔で名前を呼んでほしかった。
けれど、私はそれらを諦める決断をした。
母を自宅に連れ帰った数日間、気分が良ければ手を引いてトイレに誘導でき、美味しそうに食事をし、ちぐはぐな言葉に相槌を打っていると笑顔があふれ、時折は話がかみ合って、また笑顔となった。けれど、母の気が向かなければ、着替えもトイレ誘導も出来ず、母に辛い思いをさせるだけだった。紙オムツが汚れても分からずに交換を嫌がる母を、私では幸せにしてあげられなかった。
母の幸せは、自宅や私を思い出すことではない。毎日を笑顔で穏やかに暮らせることなのだ。
「いくら支援を受けても、要介護5のお母さんを在宅で一人で介護するのは無理ですよ。要介護3でもです。うちでは3人がかりですよ」
そう話す担当の介護士の前で、私は涙をこらえることができなかった。
介護のプロでさえ3人で行う介護が、少しばかり知識と技術があるだけの私一人に出来るわけがなかった。
水害の中、自衛隊員に抱きかかえられて無事に救助される白髪の高齢者。
私は、自分で介護することの叶わない母を想う。
私自身の体調悪化とコロナ禍で、半年も会うことが出来なかった母。先日、要請のあったタオルケット等を持って行った際に、食堂でTVを見ている母を、離れた戸口から眺めた。見違えるように快活になり、隣の席の入所者と笑いあっていた。
以前よりスムーズに介護出来るようになったと聞いた。
再び私の名前を呼んでくれることがあるだろうか。
半夏生が過ぎ、雨の七夕も過ぎて、今日、庭でニイニイゼミの初鳴きを聞いた。しばらくして止んだと思ったら、再び雨が降り出した。
私がブログを始めた理由 ― 2020/07/09
初投稿は先月10日だったので、ブログを始めてほぼ1ヶ月。
今回は、私がなぜブログを始めようと思ったのか、その経緯について書きたいと思います。
パワハラと過重労働に耐えきれずに退職し、しばらくして父親が急死し、一人になった母親を放っておけないので実家に戻り、そしたら母親にも既に認知症の兆候があり、初めは私も臨時で働きながらだったけれど、それが不可能になって仕事を辞め、母親の気持ちを傷付けずに在宅介護サービスにつなげるまでに半年かかりました。
介護サービスを受けられるようになったからと言って、解決できる問題はわずかでした。認知症は進行し、私は自分の生活なんてほぼ無い状態となりました。
そうした中で、NHKの発達障害に関する番組を見て、「まさに私自身の事だ!」と思ったけれど、夜間も、何度も目を覚ます母に対応しなければならずに寝る間もなく、母親の介護だけで精一杯でした。
色々ありましたが、昨年11月、要介護5となった母が漸くグループホームに入所できました。介護費用はそれまでの約2倍となったので、私も働くことを考えましたが、介護をしていたとはいえ仕事はブランクがあり、海外では親の介護がキャリアとして認められる国もあるけれど、年齢的にも体力的にも再就職は難しいはずで、障害者雇用枠なら何とか救っていただけるのではないかと思いました。
それに、母親の介護をしていれば、その関係者と会って話をしたり事務手続きをしたりなどありましたが、施設探しの末にいくつもの契約を終えて抜け殻状態となった私に待っていたのは、ただ孤独だけでした。
多忙な姉は用事が無くなると訪ねてこなくなり、独身の私にはママ友などの地域の繋がりも無く、まだ老人クラブの年齢でもないので、一日中誰とも会話の無い状態となりました。
一人でいることを寂しいとは思わないけれど、世界から忘れ去られた孤独でした。
私のことを忘れた母は、私が居なくなっても、選び抜いたグループホームで幸せに暮らしていける。
長年教員として勤めた私は、かつては教育現場に様々な貢献もし、多くの生徒達に頼りにされた時期もあったけれど、すでに昔のこと。沢山の手紙をくれた生徒達も皆大人になり、結婚し、子供を育て、幸せに暮らしている。
私が生きていても死んでしまっても、もう誰も困りはしない。
息をするのも苦しい毎日が続き、ふとした事で涙がこぼれ、止められなかった……。
約20年ぶりに精神科受診予約の電話をしたとき、まさに、すがる思いでした。
そして、それを受け止めてくれたと感じられたのは、たった1つの病院だけでした。
「高機能自閉症」と診断され、「精神障碍者福祉手帳3級」となったわけですが、「障害者就業・生活支援センター」の職員からさえも理解されませんでした。
私に向けられた信じがたい言葉。
「障害があるからと言って、何でも考慮されるわけではない。個室くらいなら用意できるだろうけれど、それ以外は無いと思って欲しい。それに、能力があっても休む人より、能力が無くても休まない人の方がいい」
私はショックで何も言えませんでした。障害があれば怠慢が許されると私が考えているかのような口ぶり。私は無断欠勤なんてしたことは無いし、それに、今元気な人だって、いつ病気になったり事故に遭ったりして仕事を休むか、そんなことは誰にも分からないのに。
2年前には、母の介護で相談に乗ってくれるはずの「地域包括支援センター」から相談拒否に合っていました。
「ネット上にある情報以外に、提供できる情報はありません。それに、結局は決めるのは家族ですから、自分たちで施設を見学して決めてください」
「困ったら、まずは地域包括支援センターに相談」と書かれていた言葉は嘘だったの?
心が千切れ、何日も寝込みました。
法律や制度は整っているはずなのに、現実には指の隙間から砂のようにこぼれ落ち、見過ごされてしまっています。
世の中の誤解や無理解やいろいろな問題をブログで解決できるとは思わないけれど、少しでも多くの人に知ってもらえたら……。
そう思って、ブログを始めることにしました。
いざブログを始めようとすると、すっかりパソコン事情に疎くなっていました。なにしろ、パソコンを開くこともままならずに1ヶ月以上メールチェックさえ出来なかったりする日々が何年も続いたので。
それに、要領よく同時並行的に作業をこなせないので、とても時間がかかってしまい、他の事が出来なくなってしまいます。寝ること食べる事さえおろそかになってしまって。
前途多難。
頭の中には、伝えたいこと、知って欲しいこと、沢山あり過ぎで、どうやって記事にしていったらよいのやら……。うまく書いていける自信はないけれど、極力冷静な視点で、感情のおもむくままではなく、事実をできる限り正確に、書いていこうと思っています。
一人でも多くの方が読んでくださって、介護の現実や、自閉症スペクトラム障害のことを知っていただけたら嬉しいです。
今回は、私がなぜブログを始めようと思ったのか、その経緯について書きたいと思います。
パワハラと過重労働に耐えきれずに退職し、しばらくして父親が急死し、一人になった母親を放っておけないので実家に戻り、そしたら母親にも既に認知症の兆候があり、初めは私も臨時で働きながらだったけれど、それが不可能になって仕事を辞め、母親の気持ちを傷付けずに在宅介護サービスにつなげるまでに半年かかりました。
介護サービスを受けられるようになったからと言って、解決できる問題はわずかでした。認知症は進行し、私は自分の生活なんてほぼ無い状態となりました。
そうした中で、NHKの発達障害に関する番組を見て、「まさに私自身の事だ!」と思ったけれど、夜間も、何度も目を覚ます母に対応しなければならずに寝る間もなく、母親の介護だけで精一杯でした。
色々ありましたが、昨年11月、要介護5となった母が漸くグループホームに入所できました。介護費用はそれまでの約2倍となったので、私も働くことを考えましたが、介護をしていたとはいえ仕事はブランクがあり、海外では親の介護がキャリアとして認められる国もあるけれど、年齢的にも体力的にも再就職は難しいはずで、障害者雇用枠なら何とか救っていただけるのではないかと思いました。
それに、母親の介護をしていれば、その関係者と会って話をしたり事務手続きをしたりなどありましたが、施設探しの末にいくつもの契約を終えて抜け殻状態となった私に待っていたのは、ただ孤独だけでした。
多忙な姉は用事が無くなると訪ねてこなくなり、独身の私にはママ友などの地域の繋がりも無く、まだ老人クラブの年齢でもないので、一日中誰とも会話の無い状態となりました。
一人でいることを寂しいとは思わないけれど、世界から忘れ去られた孤独でした。
私のことを忘れた母は、私が居なくなっても、選び抜いたグループホームで幸せに暮らしていける。
長年教員として勤めた私は、かつては教育現場に様々な貢献もし、多くの生徒達に頼りにされた時期もあったけれど、すでに昔のこと。沢山の手紙をくれた生徒達も皆大人になり、結婚し、子供を育て、幸せに暮らしている。
私が生きていても死んでしまっても、もう誰も困りはしない。
息をするのも苦しい毎日が続き、ふとした事で涙がこぼれ、止められなかった……。
約20年ぶりに精神科受診予約の電話をしたとき、まさに、すがる思いでした。
そして、それを受け止めてくれたと感じられたのは、たった1つの病院だけでした。
「高機能自閉症」と診断され、「精神障碍者福祉手帳3級」となったわけですが、「障害者就業・生活支援センター」の職員からさえも理解されませんでした。
私に向けられた信じがたい言葉。
「障害があるからと言って、何でも考慮されるわけではない。個室くらいなら用意できるだろうけれど、それ以外は無いと思って欲しい。それに、能力があっても休む人より、能力が無くても休まない人の方がいい」
私はショックで何も言えませんでした。障害があれば怠慢が許されると私が考えているかのような口ぶり。私は無断欠勤なんてしたことは無いし、それに、今元気な人だって、いつ病気になったり事故に遭ったりして仕事を休むか、そんなことは誰にも分からないのに。
2年前には、母の介護で相談に乗ってくれるはずの「地域包括支援センター」から相談拒否に合っていました。
「ネット上にある情報以外に、提供できる情報はありません。それに、結局は決めるのは家族ですから、自分たちで施設を見学して決めてください」
「困ったら、まずは地域包括支援センターに相談」と書かれていた言葉は嘘だったの?
心が千切れ、何日も寝込みました。
法律や制度は整っているはずなのに、現実には指の隙間から砂のようにこぼれ落ち、見過ごされてしまっています。
世の中の誤解や無理解やいろいろな問題をブログで解決できるとは思わないけれど、少しでも多くの人に知ってもらえたら……。
そう思って、ブログを始めることにしました。
いざブログを始めようとすると、すっかりパソコン事情に疎くなっていました。なにしろ、パソコンを開くこともままならずに1ヶ月以上メールチェックさえ出来なかったりする日々が何年も続いたので。
それに、要領よく同時並行的に作業をこなせないので、とても時間がかかってしまい、他の事が出来なくなってしまいます。寝ること食べる事さえおろそかになってしまって。
前途多難。
頭の中には、伝えたいこと、知って欲しいこと、沢山あり過ぎで、どうやって記事にしていったらよいのやら……。うまく書いていける自信はないけれど、極力冷静な視点で、感情のおもむくままではなく、事実をできる限り正確に、書いていこうと思っています。
一人でも多くの方が読んでくださって、介護の現実や、自閉症スペクトラム障害のことを知っていただけたら嬉しいです。
今朝の収穫と豪雨に思う ― 2020/07/08
依然として大雨雷洪水注意報発令中だった。
ニュースを見ると九州各地の水害で辛くなるので、まだ体調は悪かったが、雨の止み間に青ジソを収穫することにした。虫に食べられる前に。
私は子供の頃から低気圧に弱い。一昨日だったか、大雨警報と竜巻注意情報が出された日の朝、起床時から具合が悪かったが、要介護5の母が入所中のグループホームよりタオルケット等の要請があり、幸い午後から日差しもあったので、新しいタオルケットは吸湿性が良くないので洗濯し、十分に乾かなかった部分はドライヤーで乾かして、夕方に持って行き、くたくたに疲れ頭痛も酷くなって、夜遅くまで食事も入浴も出来ずに横になっていた。
それ以来、体調が整わず、花や木や野菜の手入れがほぼできない。
もともと4月以降体調を崩しているのだ。コロナ禍もあって。
まだ母が比較的元気だった平成13年4月に、私は家の東側に小さな畑を作った。コチコチに踏み固められた砂利だらけの場所をスコップで掘り返し、父がコンクリートを張った部分も取り除き、溝を掘ってコンクリートブロックを並べ、1ヶ月近くもかかってコツコツと手作りした半坪程の小さな、畑とは呼べないほどの畑。そして、軒下のプランタースタンドや犬走などに並べたプランター。それらが私のミニ農園。
勝手口から外に出ると、滴る木の葉に触れて肩が濡れる。零れ種からどんどん増えるベゴニアが、雨に洗われ美しい。
雨の間に虫に食べられたのでは?と心配していた青ジソは無事だった。ピンと勢いがあり、手で摘むと、とても爽やかな良い香りが広がる。けれど、日照不足のせいか昨年に比べて葉が薄く柔らかい。
ついでに、赤くなったミニトマトが少しあったので収穫したが、やはり日照不足のせいか、熟すのが遅い。
早く梅雨明けして欲しい。
けれど、すぐにまた台風の季節となる。日本は災害列島。
しばらく雨は要りません。地震起きないで。台風も列島を避けて下さいと祈るばかりだ。
水害に合われた方々は、命のあった方々は何よりだが、一瞬にして全てを泥水に奪われた喪失感は如何ばかりかと思う。
仕事の機械や車、家財道具や思い出の品々、丹精込めた花や木や野菜。ニュースによると、目の前で家族が流されてしまった方もおられるという。
私自身の今の生活は、幸せには遠いけれど、それでも、住む家があり、食べ物も衣類もあり、庭に出れば花や木や野菜に癒されることができる。このささやかな幸せに今は感謝しよう。災害が起きれば、一瞬にして失ってしまうかもしれない儚い幸せだけれども。
今朝の収穫で冷や汁を作り、おいしく頂いた。
ニュースを見ると九州各地の水害で辛くなるので、まだ体調は悪かったが、雨の止み間に青ジソを収穫することにした。虫に食べられる前に。
私は子供の頃から低気圧に弱い。一昨日だったか、大雨警報と竜巻注意情報が出された日の朝、起床時から具合が悪かったが、要介護5の母が入所中のグループホームよりタオルケット等の要請があり、幸い午後から日差しもあったので、新しいタオルケットは吸湿性が良くないので洗濯し、十分に乾かなかった部分はドライヤーで乾かして、夕方に持って行き、くたくたに疲れ頭痛も酷くなって、夜遅くまで食事も入浴も出来ずに横になっていた。
それ以来、体調が整わず、花や木や野菜の手入れがほぼできない。
もともと4月以降体調を崩しているのだ。コロナ禍もあって。
まだ母が比較的元気だった平成13年4月に、私は家の東側に小さな畑を作った。コチコチに踏み固められた砂利だらけの場所をスコップで掘り返し、父がコンクリートを張った部分も取り除き、溝を掘ってコンクリートブロックを並べ、1ヶ月近くもかかってコツコツと手作りした半坪程の小さな、畑とは呼べないほどの畑。そして、軒下のプランタースタンドや犬走などに並べたプランター。それらが私のミニ農園。
勝手口から外に出ると、滴る木の葉に触れて肩が濡れる。零れ種からどんどん増えるベゴニアが、雨に洗われ美しい。
雨の間に虫に食べられたのでは?と心配していた青ジソは無事だった。ピンと勢いがあり、手で摘むと、とても爽やかな良い香りが広がる。けれど、日照不足のせいか昨年に比べて葉が薄く柔らかい。
ついでに、赤くなったミニトマトが少しあったので収穫したが、やはり日照不足のせいか、熟すのが遅い。
早く梅雨明けして欲しい。
けれど、すぐにまた台風の季節となる。日本は災害列島。
しばらく雨は要りません。地震起きないで。台風も列島を避けて下さいと祈るばかりだ。
水害に合われた方々は、命のあった方々は何よりだが、一瞬にして全てを泥水に奪われた喪失感は如何ばかりかと思う。
仕事の機械や車、家財道具や思い出の品々、丹精込めた花や木や野菜。ニュースによると、目の前で家族が流されてしまった方もおられるという。
私自身の今の生活は、幸せには遠いけれど、それでも、住む家があり、食べ物も衣類もあり、庭に出れば花や木や野菜に癒されることができる。このささやかな幸せに今は感謝しよう。災害が起きれば、一瞬にして失ってしまうかもしれない儚い幸せだけれども。
今朝の収穫で冷や汁を作り、おいしく頂いた。
最近のコメント