私を支えた言葉2020/07/18

雑草と呼ばれる草にも花が咲く
私は、幼い頃から辛いことが多かった。幼いゆえに理由は分からなかった。
動作が遅く声が小さく痩せていて体力もなかった。頭痛や腹痛にも悩まされた。
女の子たちの遊びであるオジャミ(お手玉みたいなの)や綾飛び(ゴム飛びの変形)は出来なかったし、ボールを投げてもヒョロヒョロ、走るとビリだった。

それは、自閉症という発達障害のせいで、脳と体の連結が上手くいかなかった為らしいと、最近になって知った。

小学校の昼休み、流行りのドッジボール遊びに入れてと声を掛けても
「え~~↑~( ̄д ̄)」とあからさまに嫌な顔をされた。戦力にならないから。
仕方なく、毎日図書室に通った。
田んぼに落とされた。墨汁を掛けられた。

中学校2年は苛めや仲間外れで毎日が針のムシロ。担任も何もしてくれない。
高校でも1、2年の頃は似た状態になった。
全クラス強制参加の合唱コンクール責任者が決まらず、帰りの会が終えられずに膠着状態になり、仕方なく私が手を挙げた。けれど、練習場所や時間の確保に悩む私に、クラスの皆は文句しか言わなかった。TVドラマや漫画なら、必ずヒーロー的な男子が助け舟を出してくれるけれど、誰も助けてくれなかったし担任もほったらかしだった。

中学校も高校も、3年生ではクラスメイトに恵まれたことがせめてもの救い。

大学では、苛めには合わなかったが、寮の同室の先輩に「going my way」と称され、それは良い意味ではなく悪い意味だったから、なぜそんな風に言われなければならないのか分からなかった。
私はいつも周りに気を使っていた。ただ、集団で慣れ合うことは苦手だっただけだ。
だから、四年生の先輩たちの卒業を祝う寮の追い出しコンパでは、無理して飲めない焼酎の一気飲みまでして、場を盛り上げた。それしかできなかったから。先輩たち大喜びで盛り上がった。翌日は二日酔いの頭痛で大変だったけれど。

大学の指導教官に言われた。
「(月)さんはいつ怒るの? 怒ることがあるの?」
私は、感情を荒らげることはしなかった。どんな事があっても。

私には支えてくれた2つの言葉がある。
1つは、今年の3月に亡くなられた、敬愛する宮城まり子先生の言葉。
「やさしく、やさしく、やさしくね。やさしいことは強いのよ」
この言葉は、強く印象に残り、私の支えとなった。どんな時でも優しくあろうと思った。そして、優しくある為には、強くあらねばならなかった。

中学2年生くらいの時、私は自転車に乗って買い物に行った帰り、バスから降りてきた老夫婦に声を掛けられた。
「Aサービスはどこですか?」
市内に不案内そうな、心細そうな二人だった。
「この橋を渡ってバス停2つ目です」
歩いて行こうとする2人に、私は声を掛けた。
「同じ方向なので、良ければ一緒に行きましょうか?」
私は自転車を押し、老夫婦と一緒に歩いた。
Aサービスの前で、老夫婦は何度もお辞儀してお礼を言った。あの時の幸せな気持ちは今も忘れない。

宮城まり子先生の著書「ねむの木の子どもたち」は、父が会社帰りに持ち帰った。購入したのか、誰かに貰ったのかは分からない。父は、障害者教育に関心がありそうもなかった。
私は夢中で読み、映画も見に行った。「続・ねむの木の子どもたち」も読んだ。将来は障害児教育を目指そうと思った。

2つ目は、米沢藩を再生させた上杉鷹山の言葉。上杉鷹山は、米沢藩主上杉家の養子となる前の生家は日向高鍋藩主秋月家だ。
「為せば成る、為さねばならぬ、何事も、成らぬは人の成さぬ成りけり」
私は、この言葉を座右の銘とした。

人に優しくあること、諦めないこと、私はこの2つを胸に頑張った。
それに、頑張るしかなかった。
大学生活は苦しく、何度も寮の屋上から飛び降りようかと思った。けれど、屋上から飛び降りたって、下は草木の生えた地面だったから、多分死なずに大怪我を負い、生き恥を晒すことになると推察できた。家族は情けなく恥ずかしく思うだろう。

私学で担任・副担任をしていた時、深夜でも電話が掛かってきて、電話恐怖症になった。
生徒が家出して行方不明、寮から居なくなって行方不明、生徒が深夜徘徊で補導された……。
その度に呼び出され、生徒指導部と一緒に探しに行ったりした。
その学校では、生徒を自宅謹慎にする代わりに学校謹慎とし、担任も一緒にマラソンや草むしりや掃除など一緒にやらなければならなかった。お盆も正月も郷里に帰れなかった。
往来で車の前に飛び出して死んでしまいたかった。
けれど、それをすると、何の関係もない車のドライバーを巻き込んでしまう。
生徒も自分を責めるかもしれない。

死ねないのなら、生きるしかないなら、働かないわけにはいかなかった。稼ぎなしには命は繋げなかったから。

私が死ななかった理由はもう一つある。死ななかった最大の理由。

アンデルセンの童話「海燕(パンを踏んだ娘)」で、悔いた娘は悟る。パンを返し終える(罪の償いとして善行を重ねる)まで、自分は死んではいけないのだと。
人は誰しも、生きていれば、自覚していようが無自覚であろうが、罪深い行為をしてしまう。私は自分の罪深い行為を月日が過ぎても忘れることはない。自分で自分を許せないし、情けない。だから、私も、パンを返し終えるまでは死んではいけないのだと思った。

パンを返すまで。

それが、私が苦しくても逃げずに、死なずに、生きることが出来た最大の理由。

生きていくつもりなら、完全自給自足ならまだしも、お金が無くては生きられない。
私は、年金受給までの生活費を、国民年金や健康保険税まで含めて1年間に概算で最低150万円と算出し、爪に火を点すように質素倹約に努めた。どんなに仕事が辛くても、体がきつくても、年金受給年齢までの生活費を確保できるまでは、仕事を辞めるわけにいかなかった。

だから、今、私は無職だけれど、一人で誰とも会話の無いひきこもりだけど、生きている。

私が高機能自閉症という発達障害で、記憶が何一つ薄れずに蓄積される、というのでなかったら、あるいはもっと生きやすかったのかもしれない。
けれど、そう生まれてしまった。
これ以上はもう努力しようもない。

誰も褒めてはくれないけれど、私が自分を褒めてあげよう。よく頑張って、逃げずに今まで生きてきたね。
もし、タイムマシンであの頃の自分に会いに行けるなら、私は、子供の私、若い私を、思い切り抱きしめてあげよう。
学校でいじめられても、一人で膝を抱え、声を殺して泣いていた小学生の私を。
アルバイト先のデパートで、突然現れたフロア部長に、社員でもないのに他の商品の事で理不尽な叱責を受け、トイレで泣くしかなかった大学生の私を。
先輩教師に無能だと叱責され、君が担任だから生徒が不幸になると言われ、トイレで声を殺して泣いた26歳の私を。
今まで誰にも抱きしめられることが無かったから、せめて自分で、あの頃の私を抱きしめてあげたい。

パンは返せたのかなぁ。

いつか誰かに言ってほしい。
大丈夫。もうパンはちゃんと返せたよ。

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