新型コロナ第三波、政府への提言2020/12/02

65歳以上の高齢者や基礎疾患のある人に対して、東京発のGo To トラベルの停止または自粛が決まったようだ。
私は全く評価しない。片手落ちもいいとこだ。
第三波に対して積極的な対策を行っていないという批判をかわす為の、形だけの対応としか思えない。

政府は経済を止めたくない。それは分かる。観光や宿泊、飲食、交通などの従事者の経済生活を守るために、Go To トラベルは一定の効果を上げているらしい。収入が無くなって事業が立ち行かなくなったり、中には絶望して死を選んでしまう例もあるらしいから、それは避けなければならない。

一方で、新型コロナウイルス感染による死者の増加や医療のひっ迫という現実もある。こちらも深刻。

両者を天秤にかけるわけにはいかない。どちらも守らなくてはならない。
そうであるなら、まずは感染拡大を止める対策を実行し、その上で経済支援に力を入れるべき。

65歳以上の高齢者と基礎疾患のある人のGo To トラベル停止または自粛というのは、本人たちの感染を予防する意味しかない。若い人たちがGo To トラベルによって移動すれば、移動した先で感染拡大を引き起こす。その対策は全く考えられていない。

私の住む県も急速な第三波に襲われているが、きっかけは、感染拡大する大都市との間の移動で、それがクラスターを引き起こし、今では感染ルートを追えない市中感染が急増している。

65歳以上の高齢者や基礎疾患のある人は、感染すれば症状が出やすいから、体調が悪くなり、多くはGo To トラベルを控えるだろう。もちろん、体調が悪いのを押して旅行して感染源となった例は過去にあったが。
若い人は感染しても症状が出にくいから、もし感染していても気付かずに移動し、移動した先で感染を広めてしまう。けれども、政府は、その事に対する対策を打つ気は全くないらしい。

私の母がお世話になっているグループホーム。第二波終息後に一度は面会制限が解除されたが、急速な第三波の拡大により、ついに再び面会禁止となった。
自閉症スペクトラム障害の上にコロナ禍によって社会から孤立してしまっている私は、情緒不安定で母に会うことは難しい。代わりに姉や姪が面会してくれていたが、それも不可能となった。

第一波よりも第二波よりも急激で大きな第三波。これが下火になったとしても、また第四波がやってくるに違いない。
ワクチン接種が広がり、感染拡大が抑えられ、万一感染したとしても重症化が避けられる、という状態にならない限り、平穏は訪れないのだろう。

道のりは長い。政策を打つ政府も大変なのは分かるが、それが出来なければ政府としての意味は無いに等しい。

眠そうな目での釈明は、もう見たくない。飽き飽きだ。
対面や保身を捨て、熱意あふれる瞳で、使命感を持って立場に関係なくリーダー達が一丸となり全力を傾けて、今こそこの難局を乗り切るリーダーシップを発揮して欲しい。
尊敬するに足る指導者であると証明して欲しい。
そして、国民が勇気と希望を持って頑張れる国にしなければならない。

上記とは別に、以下の提言をしたい。

早急に、年越し村の設置支援を!
このままでは年を越せずに自殺を考える人が急増する。
これとは別に、DVに悩む女性と、自宅を失った人の為の宿泊場所の確保を! 
観光業が低迷して空いている低額な宿泊施設や、民間の研修施設、教育委員会が設置している青少年研修センター等の宿泊が出来る施設を借り上げ、無料で提供を!

限られるであろう予算は、本当に必要な対策に使って欲しい!

大人はいつも頭ごなしだった2020/09/28

私には物心ついた頃からの詳細な記憶が、映像と音声でビデオのように鮮明にある。
宴会や会議での会話や日常の会話も、音声付き映像で脳内で再現できるし、TVや映画も、暫くの間は脳内でほぼ再現出来て、その事を特別だとは思っていなかったけれど、十年くらい前、もしかして私の記憶力は普通ではないのかもしれないと気付いた。

膨大な記憶というのは、全く役には立たない。フラッシュバックに苦しむだけだ。
眠れない夜は特に困る。
多くの人が時間と共に忘れていく気まずい記憶も、私は記憶が薄れることがないので、目の前の相手がすっかり忘れていても、私の胸にはその人に辛い思いをさせられたことが刻まれている。相手に合わせて忘れた振りでもしなければ、社会生活も難しい。

大人は、幼児の頃は物が分かっていないし、記憶はすぐに薄れて忘れてしまうと思っているようだけど、私には、2,3歳頃からの記憶がある。幼児は、ただ表現して伝える術を持っていないか、その術が拙いために、幼児がまるで何も考えていないかのように大人は誤解するのだ。

私が初めて知った哀しみは、3歳くらいの事だった。
当時の私は、父の勤める会社の社宅アパート南8棟の西端2階に住んでいて、アパートとアパートの間には広い緑地があり、小さい子達はその片隅でママゴトなどして遊んでいた。他の子達は、赤や青や綺麗な色で塗装されたブリキの台所セットなどを持っていたりした。私は今もそれを鮮明に覚えている。
その中の一人が、同じアパートの最上階に住んでいることが分かって、私は翌日に一緒にママゴトして遊ぶ約束をした。私のママゴト道具は、姉のお下がりのオレンジ色のプラスチック片手鍋の折れた持ち手を絆創膏でつないだものや、母の資生堂化粧品の空きビンなどしかなかったけれど、それらを古いビニルのテーブル掛けに包んで抱え、コンクリートの階段を最上階まで登った。けれど、約束したのに、その子は遊びに行って居なかった。私は、次第にほどけていく包みを引きずって階段を下りたけれど、途中で、黒い蓋の白い資生堂の瓶が一つ、また一つ、包みから零れて落ちて、コンクリートの階段で粉々に割れた。
私は泣きながら自宅に帰りつき、「約束したのに居なかった」と訴えたのだが、母は「そんなことで泣かんでいいが」と言っただけだった。私の哀しみは分かって貰えなかった。初めて裏切りに会った哀しみ、みすぼらしくても私にとっては大事なママゴト道具が割れてしまった悲しさ、気持ちを母親に分かって貰えないもどかしさ。私が母親だったら、「辛かったね」と抱きしめてあげるのに。

5歳の頃、深夜過ぎに母に起こされ、「じいちゃんが死んで、ばあちゃんが、おーい、って呼んだからばあちゃん所に行くよ」と言われて、父の運転する軽自動車で祖父母の家に行き、それから後の約1年間は父の実家で暮らしたのだが、幼稚園に入る直前、説明会に行った母が、近所で同じ幼稚園に通う女の子の名前を教えてくれた。
「ア○○○ミ○○ちゃん、ア○○○ミ○○ちゃん」
私は、その名前を何度も声に出して覚えた。今も覚えている。その子の顔も覚えている。

母がその子の家に連れて行ってくれて、私はすぐに場所を覚え、翌日に一緒に遊ぶことになった。母は、迷惑をかけるから家には上がらずに外で遊ぶことと、夕方4時には絶対に帰ることを約束させた。
私は、母に言われた通りに、ミ○○ちゃんと庭で遊んだけれど、時間が気になって仕方なかった。外では時間が分からない。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
けれども、暫くするとまた気になった。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
どれくらいで4時になるのか分からない私は、気になって気になって、また訊いた。
「小母ちゃん、4時になった?」
「なってないて何回言えば分かるとね!!!」
私は小母ちゃんに怒鳴られ、怖くてすぐに帰宅した。

幼稚園に通い始めて、ミ○○ちゃんとはクラスも別で、その後一度も一緒に遊んだことはない。あの時に小母ちゃんに怒鳴られた声と表情、心に刻まれた恐怖は今も忘れることがない。

5歳の私は時計は読めたけれど、庭では時計は見えない。小学校2年生くらいになっていれば、「小母ちゃん、4時になったら教えてね」と言えただろうけれど、まだ幼稚園に通う前の5歳児の私には、そこまで気は回らなかった。
母も悪い。「4時になったら帰りなさい」って、5歳児がどうやったらそれができるというのか。ミ○○ちゃんの小母ちゃんだって、「そんなに気にせんでも、4時になったら教えてあげるよ」と言ってくれれば良かったのだ。

幼稚園は、スクールバスなどは無く市内バスで通わなければならなかった。定期券もしくは片道10円往復で20円の運賃を幼稚園カバンのポケットに入れて、一人で歩いてバス停に行き、他の園児と一緒にバスに乗って幼稚園に行き、帰りもまた市内バスに乗って、バス停からはまた一人で歩いて帰る。
母はしつけに厳しくて、小さな子供がよく座席に後ろ向きに乗って外の景色を見ているのを指して、座席を靴で汚すから絶対にしてはいけないと言った。だから、私は絶対にしなかった。けれど、当時の降車ボタンは大人に合わせた位置にあり、幼稚園児の私には、座席に膝をついて手を伸ばして押すしかなかった。ある日、そうやって降車ボタンを押そうと手を伸ばした途端、隣に座っていた見知らぬおじいさんに、いきなり無言でふくらはぎを強くつねられた。とても痛かったけれど、私は声も上げられずに、降車ボタンを押して慌ててバスを降りた。
見知らぬおじいさんに無言でふくらはぎをつねられたことは、帰宅しても母に言うことができなかった。きっと、母がしてはいけないと言っていたのに座席に後ろ向きに膝をついたから、おじいさんは罰として私をつねったのだと思った。でも、あまりにも理不尽。そうしなければ降車ボタンを押せなかったのに。

幼稚園の同じクラスに、家は少し離れていたけれど同じ町内の活発な女の子がいた。
実を言うと、私は可愛かったらしくて、男の子達が私を隣に居させたがったけれど、私にはその自覚もなく、大人しくて口数も少なかった。その活発な女の子は、登園すると貼ることになっている出席帳のシールを、翌日の分まで貼るように私に迫った。
「明日の分まで貼らないと、もう遊んであげない」
いつもは出席帳を見せろと言わない母が、その日に限って見せるように言った。翌日の分までシールが貼ってあるのを見て、母は火のように怒った。
「だって、そうしないともう遊ばないって言われたんだもん」
泣きじゃくりながら答える私に、母は火のように怒ったまま言った。
「そんな子とは遊ばんでいいと!!」
私は、母の事がとてもとても怖かった。
翌日の分までシールを貼ったのは良くない事だけれど、烈火のごとく叱りつけるほどの事ではない。大人になって、そう思った。相手は6歳の幼児。穏やかに言い聞かせれば済むことだったのにと。

母はその後もちょっとした事で頭ごなしに怒った。
小学2年生の頃、学校の先生から、いらなくなった色々な色のチョークをもらった。私は、父からもらった板切れにそのチョークで絵を描いて遊んだけれど、黒板消しが無かった。押し入れの中に、大きさも厚みも丁度良さそうな物があるのを知っていたので、それを一つ持って、台所で夕飯の支度をしている母に訊きに行った。
「これ、黒板消しに使っていい?」
母は、いきなり烈火のごとく怒った。
「あんた、何言よるとね!!!」
何年も後に知ったのだが、私が手にしていたのは生理用ナプキンだった。けれど、幼い私はそれを知らなかったのから、頭ごなしに怒鳴ることは無かったのにと思う。
母は、私が大人になっても、自分の意に沿わないと途端に声を荒らげた。

私は、祖母からも頭ごなしに怒られた。
幼稚園の頃、父方の祖母と住んでいた。祖母は手間仕事に赤ちゃんの子守を請け負っていた。可愛いクミちゃんという赤ちゃんが、ベビーパウダーの缶のふたの絵にそっくりだった。
「婆ちゃん、見て見て、クミちゃんにそっくりだよ」
祖母は返事さえしてくれず、私は、可愛いクミちゃんがベビーパウダーの絵にそっくりだと祖母に伝えたくて、ベビーパウダーをクミちゃんの顔に近づけた。けれど、私も5歳だったので力加減がくるい、缶がクミちゃんのほっぺに軽く触れてしまって、クミちゃんは火が付いたように泣き、祖母は私を怒鳴りつけた。
けれど、今思うに、私は何も悪くは無かったと思う。祖母が最初から私の声に耳を傾けて「あら、本当じゃね。そっくりじゃね」と言ってくれていたら、一緒に幸せに笑えるはずだった。

祖母は、実の孫なのに私に厳しかった。
ある日、母が彼岸の団子を作った。昔の事で、ご飯や団子は、ショウケという手提げの柄と蓋のある大きな竹籠に入れていたのだが、「はい、祖母ちゃん」と私が一つ祖母に渡して几帳面に蓋をしめた事が祖母の逆鱗に触れた。
「なんと意地の悪い子じゃ。1つしかくれんで蓋を閉めた」

小学生の頃までは一緒にバドミントンをして遊んでくれていた父も、ちょっとしたことで不機嫌になったから、いつ機嫌を悪くするか分からなくて、私はいつもビクビクした。

ある日、シャックリが全然止まらなくて、近くに居た父に「お父さん、シャックリが止まらないから、驚かせて」と頼んだ。
その途端に、父は「こらあ!!」と大声を上げた。
私は、自分が変な事を言ったので父が機嫌を悪くして本当に怒ったのだと思い、恐怖に縮み上がった。
「どうや。止まったじゃろが」
父は怒った振りをしただけだと分かって安堵し、シャックリも止まっていた。
学校が休みのある日、父と母は、浜に流れ着く薪を拾いに行っていた。風呂を沸かすのに薪を使っていたからだ。私は姉が買ってもらったステレオを聞こうとしたら、音が出なかった。
浜から帰ってきた父に「お父さん、ステレオの音が出ない」と言ったら、いきなり怒鳴られた。
「お父さんは疲れて帰ってきたばかりじゃろが!!!」

夕飯の時は、機嫌が悪くて一言の会話もない重苦しい夕飯が珍しくなかった。
学校の図書室で借りたお菓子作りの本を見て「バナナのパイ包み焼き」を作り、会社から帰宅して食卓に着いた父に出した。甘い物が好きな父は喜んでくれると思っていた。
「へねよな物は作らんでいい!!」
テーブルの上のお皿の上で、父に見向きもされず、ただ冷めていく「バナナのパイ包み焼き」。
父は、ただの一口も食べてはくれなかった。

私は大学を選ぶとき、父がお金にうるさいので、教育特別奨学金があって学費も安い国立大学教育学部を選ぶしかなかった。家からは遠く、アパートを借りる人もいたけれど、私は、古くて二人部屋で食事も自炊の、月6千円の安い女子寮に入るしかなかった。

私は幼い頃から洋服もスクール水着も中学の制服も姉のお下がりで、私服は殆ど持っていなかったし、授業で使う教科書やノート、食器や鍋、肌着から通学用の私服や靴、米や味噌や牛乳や肉や野菜や全ての食料品も自分で買いそろえなければならなかったのに、ひと月に4万円以上を通帳から引き出すと、父から頭ごなしに怒られた。4万円のうち3万7千円は奨学金なのに、帰省したりするたびに、父は、私がお金を使いすぎるとうるさく言った。
「荷物は風呂敷ひと包みあればいいと!!!」

両親が寮に電話してくることは殆ど無かったし、寮に来たのも数回だけだったけれど、私が帰省するたびに父から怒られるので、私は帰省したくなくなって、アルバイトばかりしていた。自宅通学の級友たちが遊んでいるのを見かけることもあり、アルバイトに明け暮れるしかなくて辛かったけれど、そうしなければ食費も十分にはなかった。
大学生協には安い定食もあったけれど、私にとっては高額だったので、殆ど利用しなかった。昼は寮に帰ってインスタント袋ラーメンを食べたし、夕ご飯も刻みキャベツにフイッシュバーグを1㎝幅くらいに切って3枚をフライパンで焼いてマヨネーズとケチャップを塗ったものをよく食べた。お金が無くなった時には、残っていた小麦粉と砂糖と卵で得意のホーットケーキを焼いて翌月までの1週間を食いつないだ。

「お金が無かったら、お父さんにそう言いよ。親に甘えるのも親孝行ってものよ」
寮の同室の先輩に、そう言われたけれど、それは叶わぬ夢だった。

父親というものは、娘を目に入れても痛くない程可愛がると、よく耳にする。けれど、少なくとも、父は私にそんな愛情は示してくれなかった。父にも母にも、私は甘やかされたことが無い。
私は勉強は出来たし、大人しくて従順で反抗期も無かったし、一体何が不満で両親は私に厳しかったのだろう。

私は、慣れない寮生活を始めて数か月で48㎏から43㎏にまで痩せたけれど、子供の頃から小食で標準より痩せていた為か、誰からも心配されなかった。その後は、ストレスからか、甘いものを我慢できなくなった。お徳用チョコレートや袋菓子など、途中で気持ち悪くなっても、目の前にあるものを全て食べてしまうまで、止めることが出来なかった。
無意識に左手で髪を引っ張って抜いてしまった。すぐにゴミ箱一杯抜いてしまったが、元から髪の量が多かったので、傍目には気付かれなかった。

女子寮ではアルバイト苦学生は私だけではなかったし、高額なアルバイト料が貰える家庭教師は英語と数学が苦手な私には無理だったし、女子寮や学生課にたくさんのアルバイト案内があったから、私は、日教組大会の書記、食品の店頭宣伝販売、蚤の市の販売員、デパートの食品フェアー販売員、食堂や喫茶店のウエイトレス、書店の雑用など、様々なアルバイトをした。真面目な仕事ぶりで手際も良かったので、アルバイト先には毎回気に入られ、一度アルバイトを受けると、二度目からは直接名指しで依頼があった。連休も夏休みも冬休みも春休みも、帰省せずに幾つものアルバイトを掛け持ちした。
女子寮に居たので、都合が悪くなった他の寮生のアルバイトの助っ人を頼まれることも多く、ビジネスホテルの客室清掃、公文式教室、日本料理店の皿洗いなどもした。毎晩書店で雑用のアルバイトをしていた時には、名指しで土日のデパートでの試食販売を頼まれ、仕方なく、試食販売のバイトを終えてパンをかじりながら自転車で書店に移動した。アルバイトのし過ぎで勉強できず、2回生に進級するときに3つ単位を落とした。

ある日、学生課に小学生の姉弟の住み込み家庭教師の募集があった。夢見がちな私は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に憧れて面接に行った。ご両親が不動産業と夜の仕事をしているために、夜に子供たちと一緒に居て勉強を見てくれる住み込み家庭教師が必要なようだった。
私は、父にお金の事を言われるのが嫌だった。朝夕二食付きでアルバイト料も貰える住み込み家庭教師なら、寮費も食費も助かるし、掛け持ちでアルバイトをする必要も無くなるし、父に文句を言われなくて済む。

けれど、3日目に朝起きて台所に行くと、子供たちのパンと飲み物はあったけれど、私の分は無く、私を見た奥さんは何も言わなかった。私の朝食はもう準備されないのだと知った。私は子供たちの勉強を見るのに色々工夫もしたし、お風呂にも入れたし、ある日夕食後に奥さんが忙しそうだったので食器洗いを申し出たら、それ以降、全員分の食器洗いを一人でするのが私の仕事になってしまったけれど、黙って頑張った。
夕食の準備も手伝ったし、「今日は私がグラタンを作ります」と言って、全員分のグラタンを作ったこともあったし、クリスマスにはケーキも手作りした。私は土日も自由にはならず、頼まれて子供たちを映画に連れて行ったこともある。
ある日、食事の準備が出来たのに、何かで忙しいらしく、1時間経っても夕飯にならなかった。私は試験前で時間が惜しかった。
「試験勉強があるので、先に夕飯を頂いては駄目ですか?」と訊きに行った。
「ここに住んじょる以上あんたも家族と同じじゃろが!! 一人だけ先に食べるとか、そんな勝手が許されると思うのか!! 勉強があるなら勉強しときなさい。後で呼びに行く」
私は頭ごなしに怒られて、涙が出そうになった。
けれど、ある日、風邪を引いたらしく熱で起き上がれず、夕飯の時間に階下に降りられずに布団で寝ていたら、奥さんが部屋の前に来て「何故降りてこんの?!」と言うので、「すみません、熱で食欲が無いから夕飯はいりません」と言ったら、「それならそうと先に言わんと分からんでしょう!!」とまたも頭ごなしに怒られ、少しの心配さえしてもらえなかった。

私は家庭教師として子供たちが意欲をもって勉強するよう色々工夫し、子供達は懐いてくれたけれど、本来仕事には含まれていない家事も担い、土日もほぼ外出できず、気を遣うばかりで、まるで明治大正時代の奉公人のようだった。
映画やドラマでは、他人であっても本当の家族のように思いやり、互いに深い絆が生まれていくけれど、所詮はフィクションなのだと私には思える。

女子寮でもちゃんと自分で朝ご飯を作って食べていたのに、朝食抜きが毎日当たり前となってしまい、大学の健康診断で私は初めて貧血と診断された。精神的にも追い込まれ、再び髪を引っ張って抜くようになっていた。ラジオで、それが自傷行為と呼ばれるものだと知った。無意識に引っ張って抜くので、自分では止めることが出来なかった。

心身ともに限界となり、半年ほどで住み込み家庭教師は止める決心をして、「自宅から電車で通うので来月一杯で止めたいと思います」と伝えた。
「もっと怖い大人の家庭教師を雇わないかんね」と言われた。
引っ越しの日、義理の兄がトラックで荷物を運んでくれたけれど、家庭教師先のご夫婦は起きて来ず、手伝いどころか挨拶も見送りも無く、最後の月のアルバイト料も貰えないままだった。

女子寮に居る頃はどんなバイト先でも雇い主からは気に入られたのに、なぜそんな扱いを受けなければならなかったのか、全く分からない。小銭が落ちていたって盗んだりしなかったし、朝ご飯が無くても文句も言わずに、最初の条件に無いことまで快く引き受けて、どんなことも一生懸命にやったのに、病気で寝込んでいる時さえも、その事を頭ごなしに叱られるような、そんな理由が全く分からない。

他人は仕方がないとしても、ただ一人の祖母(母型の祖父母は私が生まれた頃には亡くなっていて、父方の祖父も私が5歳の時に亡くなった)にも、冷たくされ、謂われ無く頭ごなしに叱られていた私。
私には背中と左手首の甲に傷跡があり、アイロンの火傷痕と教えられた手首の半月型の変色は、成人しても濃くくっきりと人目を引いて、同僚や生徒に、それは何?と訊かれることもあった。もしかしたら幼い頃に虐待があったのではないかと思う。
今でも思う。無邪気に両親や祖母に甘えて、抱きしめてもらいたかったと。

大学の卒業式を前にして、私は「来なくてもいいよ」と電話した。父は血圧が高く、女子寮に両親が訪れた帰りに父が倒れた事もあり、私は父の健康を気遣って遠慮したのだ。
来て欲しくなかったわけではない。けれど、両親は本当に私の大学卒業式に来なかった。

私は晴れ着も無く、自分で縫ったチャコールグレイのテーラードスーツを着たけれど、他の学生達は、振袖や袴の晴れ着で着飾り、両親と一緒に記念写真を撮ったりしていた。私にとって、卒業式は晴れの日でも何でもなかった。

今思えば、若い大学時代にはもっと青春を謳歌すべきだったと思う。けれど、私に出来たのは、毎日を必死に藻掻きながら、どうにか生きていくことだけだった。
いつも、どこか遠い所に行ってしまいたかった。死を夢想して詩を書き綴り、風のように自由になることを夢見た。
詩を書くことをしなかったら、心は行き場を失い、本当に死んでしまったかもしれなかった。

眠くて眠くて2020/09/26

昨日はブログを書けませんでした。

日差しが強くて外に出られなかったし、眠くて眠くて、朝食も米麹甘酒で済ませてしまいました。前の晩に冷凍室から冷蔵庫に移しておいたご飯は、まだコチコチでした。

数日前に「マイナンバーカードの準備ができたので受け取りに来るように」という葉書が来ていて、昨日は行けなかったけれど、金曜日を逃したら週明けしかないので、なんとか金曜日の内に行きたいなと思っていました。

昼食は、午後2時頃に、電子レンジでお味噌汁を作り、塩を振って焼いてチルドに入れておいた鮭とご飯を一緒に電子レンジで温めて食べました。

夕方少し雲が出て日差しが弱まってきたので、市役所が午後5時15分までだから4時半に家を出ようと準備していたら、結局4時50分になってしまい、退社時間と重なって道路が渋滞していて、市役所に着いたのは5時を過ぎていました。

マイナンバーカードの手続きを終えて、マイナポイントの予約もして、帰り道にイオンに寄ってマイナポイントの手続きを済ませて、買い物はせずに帰宅しました。

夕飯は、昼の残りのご飯を電子レンジで温め、半額で買った熊本県産赤茄子を2つきりにして鹿の子に切れ目を入れてグリルで焼いてエゴマ油と鰹節の振り掛け、半額で買った黒豚もも切り落としで生姜焼きを作って食べました。

眠くて疲れて、入浴が深夜2時になってしまい、ようやく寝入った頃、ふと目が覚めて、あれって思っていたら揺れを感じ、それから揺れが激しくなり、「どうか大きな地震じゃありませんように」と思いながらやり過ごし、時計を見たら、今朝の午前4時58分、隣の部屋に行ってTVをつけ、NHKの番組で地震速報を待ったけれど、なかなか速報が出ず、やっと出た速報(震度2)を見て、他所で大きな地震があった訳ではなかったことに安心して、もう一度寝ました。

その後、もう一度目が覚めた時には、もう昼前でした。

また米麹甘酒だけ飲んで、仏壇にお茶とお水と線香を上げて、オカワカメの花が咲いていたのでデジカメで写真を撮って、ニュースなど見ていたけれど、眠くて眠くて。
オカワカメの花はヤマノイモの花に似ているけれど、丸い蕾が開くと花びらがちゃんと分かれていて、白くてとても綺麗で、眠気が覚めたら後日載せます。

コーヒーと素炒りナッツと高カカオチョコレート2粒とミカンと、昨夜の残りの赤茄子と冷奴に鰹節を掛けて食べたけれど、ソファーでTVを見ていたらそのまま寝てしまって、気が付いたら午後3時半で、コーヒーを飲んだけれど、また寝てしまって、次に気が付いたら夕方5時前で、それでも眠くて眠くて。

今日は米麹甘酒くらいしか炭水化物を食べていなかったので、簡単にミニサイズの三色どんぶりを作り、手作りしたプレーンヨーグルトに半額で買ったキウイを入れて少しオリゴ糖を掛けて食べたけれど、眠気は覚めず、まだ食器を洗えていません。

今も眠くてほぼ頭が働いていない状態。
こんなにも眠いのは、やっぱり二次障害の鬱?
私は大学生の頃から、自分の双極性障害に自覚がありました。その頃は躁うつ病と言われていて、自分では、その傾向があるだけで病気と言うほどではないと思っていたし、度々過呼吸などで倒れても病院に行ったことは無かったけれど。

明日はちゃんと朝早く起きて洗濯をして朝食を食べて買い物にも行きたい。

台風に思う2020/09/24

台風12号は、24日15時に関東の東で温帯低気圧に変わったとのこと。
温帯低気圧に変わったからと言って油断はできませんが、ともかくも、昨年に大変な被害を受けてまだブルーシートのままの家屋も多い千葉県に再び大きな被害が出ることは避けられるようで、本当に安心しました。
前線で繋がった別の低気圧により九州は大雨の真っ最中ですが、明朝には晴れる予報です。

九州では、先日の台風10号で大変な被害がありました。最大915ヘクトパスカルに発達して九州に接近し、特別警報級の超巨大台風になるとの予報で、衛星写真ではくっきりと大きな目のある雲の渦が画面を覆いつくすほどで、昨年9月22日に竜巻が起こった台風17号と進路も似ていたので、一人で台風対策をして一人で過ごすしかない私は、外回りを対策した後で早々に南側の窓は全てシャッターを閉めたけれど、台風10号は東風が長時間続く予報なのに東側にはシャッターが無くて、本当に怖くて、眠ることも出来ないくらいでした。
もしも昨年の千葉での被害のように、屋根が壊れたりしたらどうしよう。雨が家の中に流れ込んでも、私は途方に暮れて何も出来ないのではないかと。

そんなに怖いなら避難所に行けば?と思われるかもしれません。
私の場合、避難所には行けません。
子供の頃から、修学旅行など集団では眠れなかったし、大人になっても、職場のキャンプでバンガローやログハウスに皆で泊まったり、職場の小旅行で一部屋で数人で寝たりすると、ほぼ一睡も出来ないのです。枕が変わると寝られないとかいうレベルではなく、他人の気配で眠れないのです。静かな一人部屋でないと。

それに、台風の最中に自宅を離れていると、自宅で被害が起きていないか心配でたまらなくて落ち着いていられません。自宅に帰ったら凄い被害を受けているかもしれないという不安を抱えて過ごすよりも、被害が起きるならその場にいる方がマシに思えるのです。
勤務していても、消防車の音を聞くと、留守中に自宅が火事になっているのではないかと不安になりました。
出張などで自宅を数日離れると、帰宅途中、自宅が目に入るまで不安で堪りませんでした。

高機能自閉症(病名としてはアスペルガー症候群らしい)などの自閉症スペクトラム症候群では、不安や恐怖を健常者よりも強く感じるそうです。
その上私は子供の頃から超繊細(五感全て感覚過敏だけれど、五感だけでなく気配にも過敏でした)だから、仕方ないのでしょう。
避難所など集団で過ごすことは、大変な苦痛とストレスになり、子供の頃からよく腹痛や頭痛になったし、とても耐えられないのです。

台風10号では、近所の頑丈な避難所は開設後すぐに定員に達して満員になったと、登録している市の災害情報メールで連絡があり、近くの別の避難所になっている公民館よりもうちの家の方が頑丈だから、よほどの事が無い限り、自宅を離れる選択はありませんでした。

不幸中の幸いで、台風9号が海面をかき混ぜて海水温が下がったために、予想ほどには発達しなかったけれど、超巨大台風であることには変わりなく、昨年のような竜巻は起きなかったけれど、9月5日からの2日間以上に渡って猛烈な東風が吹き荒れ、庭の植栽のほとんどが大変な塩害を受けて、ほぼすべての葉が茶色くかさかさになって落ちてしまい、見るも無残な姿になってしまって、愕然としました。
一歩戸外に出ると、すえたような不快な臭いでいっぱいで、何だろうと思ったら、塩害による枯葉の臭いでした。

昨年の台風17号に伴う竜巻は、台風最接近までは1日くらいあって風雨が激しくなる前に置きました。9月22日朝、時計を見ると8時半、まだ雨風は無かったけれど、そろそろシャッターを閉めようとカーテンを開けて窓の外を見たその瞬間、木の葉や何かの破片が混じった猛烈な東風が真横に走ったのです。不意を突かれて私はそのまま固まってしまいました。ガラス窓越しの眼前で、頑丈なカーポートの屋根がガタガタガタガタと波のようにうねり、今にも壊れて飛ばされそうでした。すぐに竜巻だと分かりました。
この地域は過去に何度も竜巻の被害を受けていて、実は17号の前に接近した台風の対策を外でしていた夕方にも、規模は比較にならないほど弱かったけれど、ほぼ同じような東からの突風が数分間続いたのです。あれも弱い竜巻だったのかもしれないと思いました。

数分後にはぴたりと静かになり、近所の人達が道に出てきたので、私も外に出て「今の竜巻でしたよね」と話に加わりました。日頃そんなに親しくはしていないけれど、近所付き合いは大事だから。見上げると自宅2階の屋根近くの電線には、どこからか飛んできた天津すだれが引っかかっていて、九電に電話しても繋がりませんでした。隣の奥さんが「うちの後ろの社宅アパートは窓ガラスが割れている」と教えてくれて、見ると3階の窓ガラスが割れていた。うちの斜め前の2階建ての家は屋根瓦が何枚か割れていたし、公民館横の2階建て民家は瓦がごっそり飛んでいたし、公民館向かいの2階建て民家も瓦が飛んでいました。
うちでは、ワイヤーで固定していた郵便受けが曲がっていました。カーポートの自家用車のすぐそばには瓦やコンクリートの破片が落ちていて、車に傷が無かったのは奇跡でした。玄関前や2階ベランダや色々な場所に、瓦やコンクリートやガラスの破片が散らばっていて、網戸に破れも見つかったので、瓦が割れた場所があるのではないかと心配しましたが、自宅の壁や瓦はどうやら無事なようでした。
電線に引っかかっていた天津すだれは、その後の強風で庭に落ちてきました。

台風が接近すると、毎年思い出すことがあります。
私が高校3年生の時だったと思うので、もう40年も昔の事です。
今でこそ、台風が接近すると小中学校や高等学校は休校や自宅待機が前日から発表されるけれど、20年くらい前までは、台風でも学業や仕事が優先されていた気がします。

昭和55年ころの9月だったと思います。
台風が接近していて、月曜日に朝起きると猛烈な風雨で、高校からは休校の連絡は無く、父が電話してくれたけれど、休校の予定は無いということでした。仕方なく、私は体育ジャージーに着替えて雨カッパを着て、学校にロッカーが無かったのでパンパンに膨れた重い鞄を青いビニルゴミ袋に入れて自転車に括り付け、制服やお弁当や辞書を入れた重いスポーツバッグも青いゴミ袋に入れて自転車のカゴに入れ、暴風雨の中、日頃でも片道1時間近くもかかる大橋を2つ超えた10km先の高校に向かいました。

ところが、ようやく学校に到着すると、入り口は締まっていて「台風により休校となりました」との黒マジック手書き縦書きの貼り紙。仕方なく、暴風雨の中、2つの大橋を超えて自宅に戻ったのです。

私はその後に高等学校教諭になって自らそういう事態に対応してきたので、その時の学校の対応が私には許せないのです。
たとえ休校が未定であったとしても、未成年である生徒の安全が一番大事であり、「休校になるかはまだ分からないけれど、しばらくは自宅で待機していなさい」と伝えるべきだったと思うのです。
私の両親にしても、「欠席や遅刻になってもいいから、風雨が弱くなるまで登校は止めなさい」と言ってくれるべきでした。両親は、とにかく遅刻や欠席を嫌いました。

翌朝登校すると、学校の窓ガラスが割れていました。新設されたばかりの新しくて頑丈な学校で窓ガラスにも金網が入っていたのに。
当時の校長の決断力の無さ、電話に出た事務職員の融通の利かなさ、担任の生徒への愛情の薄さを感じずにいられず、腹立たしささえ感じてしまうのです。

私が教員になった頃は、台風接近時には前日に休校を決めるか、当日の早朝に緊急連絡網で生徒に休校を連絡するなどの対応が取られるようになっていたけれど、職員は出勤もしくは有給休暇である年次休暇を取るようになっていました。学校が休校になっても、会議や研修などの出張は延期や中止にはならないから、私は、暴風雨でも、豪雪でも、遠く離れた県庁所在地まで自家用車で出張しました。私の住む県は、残念ながら公共の交通機関が不便で、電車を使おうとすると、自宅から駅までと、駅から出張先までをタクシーに乗るしかないので、自家用車を使うしかないわけです。
人権教育の九州大会が本県であった時には、会場の駐車場は他県からの参加者のみ利用可能で、本県参加者は会場から遠い駐車場を使ってそこから歩かなければならず、私は他県から引っ越ししてきて自家用車が県外ナンバーだったので、悪いとは思ったけれど、とにかく物凄い暴風雨だったので会場駐車場を使わせてもらいました。
出張を終えて翌日学校に出勤すると、通学路の電柱が根元から倒れていて、それほど凄い台風だったのでした。

今は、大きな台風が接近して危険が予測できる時には、小中学校や高等学校の休校や自宅待機はもちろん、公共交通機関も事前に運休を発表したりするし、企業や事業者にも従業員を無理に出勤させないようにとニュースで伝えられたりします。勉学より仕事より人命が大事だという意識が広がってきたのは本当に良いことだと思います。

大雨が、ますます激しくなってきました。
自宅付近は、山からも河川からも離れているので、土砂災害や洪水被害の心配はないけれど、台風10号で地盤が緩んでいる地域や雨水が溜まりやすい低地、河川の近くに住む人はさぞかし不安でしょう。それとも、長年住んでいると慣れてしまって不安など感じないという人も多い?
どうかくれぐれも、危険に鈍感にならず、少しでも危険があれば命を最優先して欲しいです。
台風10号による崖崩れに4人が巻き込まれ、しかも、そのうちの2人が、外国からの技能実習生であることが、私はとても辛いのです。

苦しくても生きるしかないから2020/09/23

ずっとブロブを書けませんでした。
ブログだけではなく、パソコンをほぼ開けませんでした。
父のファミリーヒストリーを書くまではと、何とか8月15日までは頑張って書いたけれど、実は生きる気力さえ失っていました。

私は、昨年12月半ばから、銀行などでの事務的な会話と母の介護施設との連絡以外は、ほぼ会話が無い生活です。
どうか想像してください。
朝から晩まで、大晦日も、お正月も、お彼岸も、誕生日も、お盆も、巨大台風接近時も、家で一人ぼっちで誰とも会話の無い毎日。
それが、もう9か月以上。
自ら望んでそうなったわけではありません。

高機能自閉症や五感全ての感覚過敏などの診断を受け、障害者手帳を交付されたけれど、障害者就業・生活支援センターに相談しても心無い対応をされ、地域包括支援センターは母の事で相談を拒否された体験から信頼できず、市の障害福祉課に相談しても何も変わりませんでした。
地域社会との繋がりも最低限しかなく、近隣に親しい友人も居ないから、訪問者も電話もありません。
数日前、電話が鳴ったと思ったら、世論調査の自動通話でした。
ブロブを始めて想いを伝えれば、誰かが共感してくれて、何か変わるかもしれないと願ったけれど、世の中はそう甘くは無いのですね。

仕事をしていた頃は、真面目な性格ゆえに無理をしても全力を尽くし、超繊細ゆえに自分よりも相手を優先し、長年のキャリアにより仕事のスキルも高かったので成果も上げ、信頼もされ、退職時には惜しまれもしたけれど、母の介護のために退職すると、当然のことながら元同僚達は新しい人間関係に忙しいから、退職した元同僚の事など次第に忘れていきます。
子供の頃から苛めや仲間外れにされ、もともと人付き合いが苦手な私は、コロナ禍によって、社会との接点をほぼ無くしました。

昨年までは、日差しの弱くなった夕方に庭の手入れをしたり、買い物を楽しむことで、気晴らしができました。
けれど、今年は梅雨が2か月も続き、毎日雨が降り続いて庭の手入れも殆どできず、コロナ禍で不要不急の外出が制限されて、買い物も混まない時間帯の食料品の買い出ししか行けず、自粛を求められたからではなく怖いから外出できませんでした。

毎日、家でただTVを見るしかないけれど、そのTVは、不意に流れるCMさえもが、コロナ禍で離れていても繋がろうと絆を強調し、ニュースさえもが、会えなくてもビデオ通話で繋がる家族や恋人達を紹介し、私は見るたびに涙があふれた。
繋がれる家族も恋人も友人も居ない人は、きっと私以外にも居るはず。そんな人達の事は誰も気にしていないのですね。

外出制限が緩和されても、一人ぼっちの私は、どこかに遊びに行くこともできません。会話も無く、笑うこともなく、少しの食事をしてシャワーを浴びて寝るだけの毎日。
仕事をしていた頃から、苦しくて退職したかったから、退職しても年金受給までは自力で生きていけるように、爪に火を点すような節約生活をして、現在、無職ながら衣食住はつつましくもまだ困っていない。
コロナ禍で仕事を失い衣食住にも困っている人達を思えば、それ以上を望むのは贅沢だと思われるかもしれない。
私は学生時代、食べ物を買うお金が無く、やむなく過酷なアルバイトの掛け持ちをして単位を落とし、無保険で病院にも行けなかったから、お金が無い苦労は知っています。
けれど、世界中の誰からも顧みられない孤独は、家族や友人に支えられている人にはきっと分からない。
名前を呼ぶ相手も、呼んでくれる相手も居ない孤独を、誰か分かってくれますか?

私は、たった一人で生きているとは思っていません。要介護5の母がお世話になっているグループホームには本当に感謝しているし、コロナ禍でもスーパーのレジに立ってくれている方々や、電気や水道を管理してくれている方々や、食料を生産・流通してくださっている方々がいなければ、私は生きてはいけない。

ただ、生きていても少しの楽しみも無いのです。若い頃は、将来に夢をもって頑張ることができたけれど、もう、生きることに何の喜びも希望も見いだせないのです。
9か月間、誰も訪ねてこないということは、私が孤独死しても何ヶ月も発見されないということ。私が死んだら、家も家財道具も思い出の品々も全てこの世に必要のない物になってしまうから、生前整理をして、死ぬときには全てを処分しておきたいと願うけれど、それは無理な話で、誰かに託すしかないけれど、「〇君(姉の息子)はやってくれるかなあ」と以前姉に話したら、息子も娘も孫もいる楽観的な姉は、「死んだ後の事は死んだ後にどうにかなるよ」としか答えてくれませんでした。
一人だと心配だよね、大丈夫だよ、〇君はちゃんとやってくれるよと、答えてほしかった。
だから、今は、安心して死ねないから、細々とでも生きるしかない。
世界最高齢の120歳まで元気でいれば、私の死後の始末を誰かが世話してくれて、私も安心して死ねるかもしれない。
  
昨日、母のグループホームに行ってきました。
要介護認定の更新書類に署名捺印する為です。
インフルエンザ予防接種も毎年10月初めにはしていたので、政府からも高齢者は早めの接種を勧められているし、電話で聞いてみたら、まだ分からないとの回答だったけれど、去年の書類しかないけれど同じだと思うからと言われ、そちらにも署名して帰りました。

本当は、面会も条件付きで解除されたので、母に会って抱きしめてあげたかったけれど、身体接触はできないし、私は想いがあふれて涙がぽろぽろ溢れて止められなかったので、面会は断念しました。
認知症の進んだ母は、1年以上前から、私の事が分かりません。だから、電話やビデオ通話も無理だけれど、名前が分からなくても、娘と分からなくても、心の奥底のどこかでは、会えばきっと感じてくれると思うのだけれど。

ちなみに、私自身は、母と同居し始めた年の10月に母と一緒にインフルエンザ予防接種を受けたら、副反応で発熱して10日程寝込む羽目になりました。職場でインフルエンザが大流行しても、私自身は一度もインフルエンザに罹ったことはないので、もう二度と予防接種は受けないつもりだし、近い将来にコロナウイルスのワクチンが完成しても、ワクチン接種は受けないつもりです。
私には橋本病や好酸球性副鼻腔炎(喘息併発)などがあり、子供の頃から肺炎や気管支炎に何度も罹っているので、もし新型コロナウイルスに感染したら重症化リスクが高いけれど、多くの医薬品に酷い副反応を起こしてしまう私なので、そのリスクの方が怖いから。

新型コロナウイルスさえ無ければ、世界中が今よりずっと幸せだったはずなのに。
けれど、時間を巻き戻すことはできない。感染が少し落ち着いたとしても、もうコロナ以前には戻れない。少しでも油断すれば、再び感染は広がり、多くの人が苦しみ、多くの人が命を落としてしまうから。

コロナ対応で多忙な姉からは、連絡しても連絡しても何日も返信が無く、私はますます鬱に拍車がかかって、コロナのせいと分かっていても苦しくて、眠くても眠れず、食事もとれず、腹痛も続いていたいたけれど、やっと昨日の夜、短いけれど返信が来たので、それで良しとします。

このブログを読んでくださった方、短くても良いので、どなたかコメントをもらえないでしょうか。
長文の、こんな暗い内容では、誰も読んではくれないでしょうか。

ハート💚ハート2020/08/10

勝手に生えてきたヤマノイモの花~ハート形の葉っぱにハート形の虫食い穴を発見し、可愛いので撮影した
しばらくブログの更新をしなかったのは、気分と体調が良くなかったからで、今日も良くなくて、買い物にも行けませんでした。
食事も最低限しかできていません。
床掃除をしなくては、と思うのですが出来ません。
入浴は、夏で汗をかくので、寝る前になってさっと済ませますが、ブログを書く気力までは無いのです。

それに、一人暮らしで家族が無く他人との交流も全く無いから、ニュースで見たことや過去の随想くらいしか書けないし。

今日ブログを書く気になったのは写真を撮ったから。

台風5号接近で、昨日午後から強風と雨でした。
今朝、雨が止んでいたので、勝手口からちょろっと外に出てみました。このところカンカン照りの猛暑が続いていて、動かない体に鞭打って夕方ホースで水をやっても、翌日にはすぐにからからに乾いて、ミニ畑の里芋の葉っぱもうなだれていたけれど、久しぶりの雨で元気になっていました。
ゴーヤーとオカワカメのツルに、庭の隅に勝手に生えてきたヤマノイモが巻き付いて、しばらく前から白い小さい花がたくさん咲いています。庭の砂利の中なので肥料をやっていないし最近まで雨ばかりで日照不足だし、ひょろひょろして花も弱々しいですが、なかなか綺麗でかわいいので、写真に撮っておこうとしたら、ヤマノイモのハート型の葉っぱにハート型の虫食い穴が見つかったのです。

家族が居たら、「ねえ、見て見て♪」って、たわいもない会話をするのでしょうね。
親しい友人がいたら電話して、「何よ、そんな事で電話してきたの?」って呆れられるのでしょうね?

ハート型の穴と一緒にヤマノイモの丸い小さな花の写真を撮りました。強風に揺られ、雨もザっと降ってきたので、あまりきちんと撮れませんでしたが。

昔の随想を書くと、とてもとても長くなってしまって、多分誰も読まないだろうし、このブログを続けても意味があるかなぁと思ってしまうこの頃なのです。

一面識も無いのに!2020/08/03

月齢13.4 月出18:45 月没03:55 2020/08/03 20:13撮影 雲のせいか異様に赤い月
昨日の日曜日は、朝から晴天で、洗濯をたくさんし、朝食の後には常備用に「鶏肉入りおから」も作り、夕方には、日差しを利用してイースト菌を発酵させ、自家製のバジルとミニトマトを使ったピザも作った。

けれど、その後から、とても体調が悪くなってしまった。前日の土曜日はパソコンを一度も開かずにメールチェックさえしなかったので、2日ぶりにパソコンを開いてメールチェックをし、ブログだけは書いたのだが、エアコンを27度設定にして涼しくし、薄いスポーツドリンクを飲んで体を休めても全然改善しなかった。
諦めて、サッとシャワーを浴びて、設定温度27度のまま肌布団を着て寝て、熟睡はできたと思うのだが、今朝目が覚めてからも倦怠感が強かった。
座敷の窓を開けてから仏壇にお茶と水と線香を上げ、米麹甘酒と炭酸水を飲んだ後、TVでニュースを見ながらソファーに座っていたが、倦怠感に我慢が出来ず、座敷の窓を閉めてから再びベッドに横になった。
エアコンは冷えすぎていたので28度設定にしたのだが、しばらくしても室温は上がるどころか下がってしまった。
「お部屋の温度26度、外の温度30度です」
仕方なく、エアコンは止めた。自動的に内部クリーン運転になり、その音を聞きながら、いつの間にかまた寝入ってしまい、目が覚めると昼を過ぎていた。
防犯のために窓はほぼ締め切っていたので、室温は31度になっていた。

どうしてこんなにも倦怠感があって気力が無いのか。
日曜日の暑さも関係あるかもしれないが、一番の原因と思われることがある。
8月1日の土曜日のcoopでの出来事だ。

土曜日は朝から晴れてはいたが、薄い雲が全体に広がって日差しが弱めで、定期受診の歯医者の後、日傘をさして歩いてcoopに買い物に行った。片道10分もかからない。買いたいものは決まっていたので、すぐに帰宅するつもりだった。
coopに入ると、店員さんが待ち構えていて手やカート、カゴを消毒してくれた。
店内は、普段はチラシ配布などしないのにタウンプラスの葉書で日替わり特売品の案内があったためか、とてもとても混雑していた。生後間もない赤ちゃんをベビーカーに載せた家族連れもいて、シングルマザーなら仕方ないけれど、新型コロナウイルス感染者が地域でも激増しているのに、感染を心配しないのだろうかと思った。

目的の物を買ったらすぐに帰るつもりでいたのだが、お茶サービスのコーナーで、紙コップの取り出し方が分からずに困っている年配の女性が居たので、つい「白いボタンを押すと紙コップ出ますよ」と声を掛けてしまった。
その女性は、私の声を聞いて白いボタンを押して紙コップを手にしたかと思うと、少し離れた場所にいた私に手を伸ばし、いきなり腕を思い切りバチンと叩いたのだ。

えっ! 
私は一瞬何が起きたか分からないくらいに驚いた。
叩かれた腕がヒリヒリしていた。
相手は一面識も無い全くの見知らぬ女性だ。
困っている様子を見かねてとっさに声を掛けただけで、その結果その女性は紙コップを取り出せたのに、なぜ私が叩かれなければならないのか。
私は感覚過敏で、知り合いからさえも体に触れられるのは不快に感じる。ポンと叩いたのではなく、思いっきり叩かれ、かなり痛かった。しかも、コロナ感染激増で、他人との接触は避けなければならない時だ。私は、今のような感染拡大以前から銀行の待ち時間に椅子に座ることさえせずに立っている。知り合いならともかく、全くの一面識も無い相手を、なぜ思いっきり叩くのだ。
怒りが込み上げてきた。
「教えてあげただけですよ。なぜ叩くんですか。叩かないでくださいよ」

相手の女性は、「ごめんなさい」も言わず、近くの椅子に腰かけて悠々とお茶を飲み始めた。
まるで聞こえていないかのように、どこ吹く風だ。
私は、もう一度言おうかと思った。コロナがあるのに、いきなり叩くなんてどういうつもりですかと。

でも、言っても無駄だと思い直し、その場を離れて帰宅することにした。
怒りは収まらない。コロナのことが無ければ水に流してもいい。けれど、今は新型コロナウイルス激増で、他人との接触は避けねばならない時なのだ。あなたがもし無症状の感染者で、私が感染してしまったら、どうしてくれる。
おそらくは、簡単な事に気付けなかった照れ隠しだろうとは思う。それで、考え無しに教えた私を叩いたのだろう。けれど、コロナがなくても、一面識も無い相手を思いっきり叩くなんて有り得ない。悪気が無いとしても、思慮が無さすぎる。
悪気が無ければ何でも許されるわけではない。もし許されるなら、思慮の足りない人は、何をしても許されることになってしまう。

見知らぬ人に対していつまでも怒りを抱いていても不毛なので、私は急いで帰宅した。叩かれた腕を触らぬように気を付けながら。
そして、もう決して、見知らぬ人が困っていても、声を掛けないと思った。
別に親切心から声を掛けたわけではない。困っている様子を見かねて、つい無意識に声を掛けてしまったのだ。けれども、今後は、絶対に見知らぬ人には声を掛けない。少なくともコロナが終息するまでは、絶対に!!!

帰宅して、すぐに全ての衣服を脱いで洗濯機に入れ、腕から下と顔を石鹸で洗ってうがいをした。それでも、叩かれた感触が腕に残っていた。もう買い物に行くのも怖いと思った。
午後からも全く気分は晴れず、パソコンを開く気にもなれず、ブログも書けなかった。

たぶん、土曜日のそのショックが、2日経った今日も尾を引いているのだろう。
こんなにも引きずってしまうのは、やはり自閉症のせいなのだろうか?

昼過ぎに目覚めた後で窓を開けると、晴れではあるが、前日のような青空ではなく全体に薄い雲が広がって、日差しは少し弱めなのだが、気温は32度まで上がった。それでも、海風はエアコンの風より心地よかった。
前日の残りのピザを電子レンジで温めて食事したが、全く気力が沸かない。
この1週間で急速にコロナが拡大し、市長より「できうる限りの外出自粛」が呼び掛けられている。
「三密を避けながらも、家族とは密に連絡を取ろう!」とTVが呼び掛ける。
私には、連絡を取る家族は居ない。家族が居ない人のことなんて考えていないよね?
もう何ヶ月笑っていないだろう?

好調不調繰り返し2020/08/01

月齢9.4 月出15:01 月没00:23 2020/07/30 20:03
30日木曜日の朝は、やっとプラスチックごみ出しに行けた。

梅雨明けして、猛暑日に近い真夏日が続く。
私は昔から冬より夏が苦手だ。

実は、29日朝に目が覚めた時、「鬱」な感じだった。ああ、もうこのまま何もせずにじっとしていたい。
前夜、深夜12時頃に居間のエアコンをつけて、元々は母の為に居間に置いたベッドで寝ていたから、このまま日中もエアコンを入れたままで過ごそうかなと思った。
「お部屋の温度27度、外の温度33度です」とエアコンが教えてくれる。
手元のデジタル温度計を見ると、室温は28度以上ある。

食欲はなかったけれど、食べないわけにいかないから、ちゃんとご飯を炊いて、仏壇にも線香を上げて、遅い朝食を食べながらニュース番組をTVで見た。
高温注意情報。エアコンを使って熱中症にならないように気を付けましょうとのこと。
でも、感覚過敏のせいか、エアコンの音がうるさくて耐えられなくなった。2年前くらいに買い替えたばかりのまだ新しいエアコンで、夜の間はうるさく感じなかったのだが、外気温が上がるにつれて、設定温度を28度に上げてもフル活動しているらしく、私にとっては耐えられない音。

暑いのを耐えるほうがマシだなと思い、正午丁度にエアコンを切って、家中の窓を開けると、最初は熱風だったけれど、海風が涼しくなった。やはり自然の風に限る。

窓の外は太陽がギラギラしていて、一歩も外には出られそうもなかったけれど、夕方には思ったよりも早く日差しが弱くなり、久しぶりに庭仕事ができた。
蚊に刺されないように重装備で、まずコンポスト周りに超大株に茂ってしまったレモンバームを思い切ってバッサリと刈り取ってコンポストへ。
雨水に差しておいたパッションフルーツ(無事に沢山発根していた)と紫陽花の剪定枝(まだ発根無し)と剪定薔薇(同じく発根無し)を、新しい小さい植木鉢に挿し木用土を入れて挿し木。
ヤマアジサイとローズゼラニウムと白の日日草の植え付け。
フェンスからはみ出しているイチジクとイヌマキとアボカドの枝の剪定。

仕事をやり始めると、思っていたよりも体が動き、どんどん作業が進んで、作業が終わるともう7時前だった。汗でビショビショの服を着替えて顔を洗うと、サラサラして気持ちよくなり、気温は高いのに涼しかった。

さすがに疲れて入浴は遅くなってしまったが、夜寝る時もエアコンは付けずに熟睡できた。久しぶりにたっぷりと体を動かして多量の汗をかいたのが良かったのだろう。

それで、30日は朝も早く起きてゴミ出しに行けたし、洗濯もして、物凄く強い日差しで目が眩みそうだったけれど、日傘をさして買い物に行った。片道5分程度だし、スーパーの中は涼しいし。帰宅すると汗びっしょりだったけれど、水分補給して、布団も干した。

そしたら、頑張り過ぎてしまったようで、ひどい頭痛と倦怠感。
熱中症かなあと思い、エアコンを入れ、薄めのスポーツドリンクを飲んで体を休めたけれど、全然良くならない。パソコンを開いても、20分ほどで挫折した。
29日に頑張り過ぎた影響なのか、猛暑の中で買い物に行ったのが悪かったのか。

頭痛はあっても月の写真は撮った。その日の月はその日にしか撮れないから。
夜中になっても頭痛は治まらず、仕方ないから、シャワーではなく湯船にお湯を張って体を沈めた。昔から、頭痛が治らない時、お風呂に浸かると楽になった。
入浴後は、少し楽になった。

空気読めない?2020/07/29

月齢8.4 月出13:53 月没00:00 2020/07/29 17:55撮影
私がASDであることは、「このブログについて」の欄に高機能自閉症と記載している通りなのだが、ASDの人は、よく周囲から「空気が読めない」と思われているらしい。

しばらく前になるが、TVで「空気が読める人と読めない人の差」というのをやっていた。
空気が読めないって何なのだろう。私自身は読めているつもりだし、ASDではなさそうな人が全然空気読もうとしない場面にもよく出会う。空気読めるも読めないも、個人差じゃないの?
気になるので番組を見たら、空気が読めないっていうことは次の4点だと言っていた。

① タイミングが読めない……帰ろうとしているのに質問する、ラインで終わりの合図を出しているのに止めない、など
② 人との距離が読めない……親しくもないのにお土産を欲しがる、親しくもないのに話に入ってくる、など
③ 相手の気持ちが読めない……自分の興味ある話しかしない、自分より年上が居るのに自分なんてオバサンなどと言うなど
④ 場の流れが読めない……場を盛り上げるより自分優先、結婚式で花嫁より派手、など

私の思っていた「空気が読めない」とは少し違っていた。TVでやっていた例は、「空気が読めない」というよりも「自己中心的」なだけのように私には思えたけれど、どうなんだろう。

私は空気を読める。読み過ぎる。
新米教員だった頃、先輩教員に助言を求めたくて、先輩職員の姿を目で追って声を掛けるタイミングを探すのだが、いつも忙しそうにしていたから声を掛けることが出来なかった。空気読めなかったら、構わずに声を掛けたはず。
トラブルにより夜遅くまで大人数で居残りしなければならない時、たまに管理職が差し入れをしてくれることがあったが、率先してお茶の準備をしたりしていた。空気読めなかったら、自分から手伝ったりしなかったはず。
以前の記事にも書いたけれど、大学生の頃、コンパで場を盛り上げなければと、何も芸が無かったので、飲めない焼酎の一気飲みで場を盛り上げた。
空気読んだのに、対処を間違って失敗したこともあるけれど、ものすごく空気は読んでいた、読む努力はしていた、と思う。

でも、ある時、そんな自分に疲れてしまった。
空気読み過ぎて声が掛けられなかったのに、「遅すぎる相談ならしないほうがマシ」とまで言われてしまった。先輩先生が「忙しいから声掛けるな的空気」をまとっていたから声を掛けられなかったのに。「いつでも相談してくれていいよ空気」をまとってくれてなきゃ相談したくても出来ないよ。

それに、女子は、気遣いが出来て当然だと思われる。
さっとお茶を出す。黙ってさっと茶碗を洗って片付ける。毎日花瓶の水を替える。テーブルを拭く。宴会ではお酌に立つ。皆の分まで料理を取り分ける。ビールが足りなくなる前に補充に立つ……どうして女子だけにそれが当然のように求められるのか。
私もやっていたよ。そうしなきゃいけないと察して。
ちゃんと察すること出来ていたよ。
でも、すごく気を使って疲れてしまう。ああ、もう「よく気が付く女子」だと思われなくていいや、と思った。
もちろん、目の前に料理の大皿があれば、欲しいかどうか訊いた上で取り分けるし、テーブルが汚れていればサッと拭く。でも、必要以上には気を使わないことにした。

どうして他の女子は、さも当たり前のように、宴会が始まるとサッと上司や男性職員のお酌に立つのか。どうして頼まれもしないのに、全員の分の料理を取り分けるのか。どうして、ビール瓶が空く前にどんどん入れ替えるのか。どうして、コップが空く前にどんどんお酌しなくてはいけないのか。

そういえば、家庭でもそうだよね。お客さんが来ると、お父さんとお客さんにお酒や料理を作ったり運んだりで、お母さんは座る暇もない。片づけるのもお母さんだけ。お父さんもお客さんも、当のお母さんも、それが当たり前だと思っていたようだ。外国では違うらしいよね。一緒に準備して一緒にもてなして、一緒に片づける。

日本の女子は大変だよね。男子なら、若い新人でも座っていて何も言われないのに、女子は座っていると気が利かないと思われる。
みんな、そんなに気を使って疲れるでしょう? 嫌じゃないの?
ずっと、そう思っていた。

最近になって気が付いた。
ああ、そうか、他の人達は、そんなに気負わなくても、一生懸命に周りに目を配らなくても、自然にそれができるのか。
頑張って周囲の状況を一生懸命に情報収集して、こういう時にはああするんだったな、言われてからするんじゃ遅くて、言われる前に……そんな風に考えて行動していた私とは、全然違うのだなって。

女は3人寄ると姦(かしま)しい、というらしい。
世間話や噂話、恋バナ、芸能人の話、おしゃべりが大好きならしい。
私は、小学生の頃から、下級生には慕われたし上級生には可愛がられたけれど、同級生とは難しかった。それはASDに有りがちな特徴だと最近知った。
そう、みんなは自然に出来るのね、世間話や噂話や女子が好きな話を。
私が一生懸命に話の流れや相手の表情を読んで、考えて考えてすることが、考えなくてもすんなり出来るのね。

私は子供の頃から、外出するとすごく疲れていた。まだそういう意識はなかったけれど、大人になっては、人に会うだけですごく疲れるのだと気が付いた。
私が通院した精神科の主治医は、「外出に慣れれば疲れなくなるでしょう」と言うので、「いえ、現役で働いていた頃からなので」と答えた。発達障害の専門医ではなくて認知症の専門医だったからね。慣れて普通になれるなら、大人のASDは居ないよね。

ASDの人を、「空気が読めない」と安易に責めないで欲しい。
ASDの人は、本当は人一倍の努力をしている。努力が的外れに終わってしまうこともあるけれど、決して自己中心的なわけではない。

もともと、人はみんなそれぞれ違って当たり前。他人も自分と同じように感じたり考えたりして当然と思い、そうでない人を「空気が読めない」と排斥するのは正しくない。
違いを認め合えば、健常者と障害者なんて区別する必要も無いのにと思う。

最悪な4日間2020/07/27

ゴーヤー生るも料理できず
23日から26日までの4日間。
何故こんな事になってしまったのか。
22日に頑張り過ぎてしまったせいなのかもしれない。

7月22日は、最近にしては元気で、ブログを書いた後の隙間時間に掃除までしてしまった。
私は本来綺麗好き。スリッパだって数日おきに洗濯するし、接触冷感ソファーカバーもつい先日洗濯した。天気が良ければ布団も干す。
けれど、小さくはない家なので、掃除にはちょっと時間がかかり、なかなか毎日は掃除までできない。なのに、22日は色々と頑張り過ぎてしまったのだ。

23日は朝から体調が良くなくて、木曜日のプラスチックごみの日だったのに、ちゃんと前日に準備していたのに、ゴミ出しに行けなかった。それでも、雨が止んで晴れ間もあったので洗濯をし、疲れてしまって、本当は外出なんてしたくなかった。
けれど、1週間も前に卵を切らしていたので、無理して近所に買い物に行き、往復30分ほどで帰宅したのに、へとへとに疲れ切ってしまった。卵なんて無くても困りはしなかったのに。
帰宅後、室温が29度なのに全く暑いと感じず、体温は36.4度で平熱。薄めたスポーツ飲料を飲んでソファーに横になってTVでニュースを見ていたらそのまま寝てしまい、食事も少ししか食べられず、エアコンを26度設定にして温度計で27度に下がったけれど、体温は変わらずに36.4度なのに体が熱くて動けず、水分補給をしてフローリングの床に腹ばいになったら冷たくて少し楽だったが、やはりフローリングの上で横になるのは体が痛い。

気を取り直して椅子に腰かけ、パソコンを開いた。地域包括支援センターも障害者就業・生活支援センターも事実上の相談拒否で、もう信頼することが出来ず、地元に当事者会がないか調べることにした。検索の結果、県内に1つ見つけたのだが、「居場所」を中心とした自助グループではなくてコミュニケーションに関するワークショップを夜の定例会で行う会らしく、しかも、ブログ更新が2年前で止まっていて、現在は活動しているのかどうかも分からない。たとえ活動していても、夜に片道2時間以上かけて一人で出かけるなんて無理。落胆しながら、漸く夜中になって入浴することができた。

その翌日の24日は、朝7時半に雷鳴で目が覚め、前日に燃えるゴミ出しの準備はしていたけれど、起きる力が無く、数時間後に一応は起きて、食欲は無いながら米麹甘酒と炭酸水を飲み、仏壇にお茶とお水を上げて、ご飯と味噌汁の朝食も摂ったけれど、美味しいとも思えず。
2階の部屋で、録画して見ていない映画でも見ようと思ったのだが、再生しても見る気になれず、体が重くて動けず、TVを消してそのまま目を閉じて、とは言え眠れもしなかったので、居間に降りてパソコンを立ち上げたが、頭が働かずにメールチェック程度しか出来ず、すぐにシャットダウンした。
昼には、久しぶりに野菜サラダが食べたくなって、ハムと自分で育てたミニトマトを添えた野菜サラダを作り、フルーツゼリーとコーヒーと高カカオチョコレートで昼食も摂ったけれど、体調や気分は改善せず、横になっても眠れず、体温はやはり36.4度。
たまには車を動かさないと、またバッテリーが上がると困るので、もう外は暗かったが、エンジンだけ掛けておくことにした。午後9時までの10分間。誰とも話さない代わりに、昔歌った合唱曲を超ソプラノの大声で車の中で歌った。密室の車の中なら外には聞こえないだろうから。エンジンは10分で大丈夫かどうか分からないけれど、気休めにはなる。

25日は、朝目覚めるも、ほぼ起き上がれなかった。変な夢を見た。家に水がどんどん押し寄せてきて、畳の上まで水が上がってきて、それは透明な綺麗な水で、家は壊れずに水に浮かんで、何処かに無事流れ着いた。外から、流された自転車や何故かヘルメット等を家の中に運び込んだ。亡くなった父や、家に居ない母や姉も一緒に住んでいて、家の間取りは今も覚えているけれど全く知らない家。

朝の習慣の米麹甘酒を飲んで仏壇にお茶とお水を上げ、簡単な味噌汁と卵掛け御飯の朝食は食べたけれど、何もする気になれず、パソコンも立ち上げないまま。
体温は36.2度。食欲は無く、夕食にはももハムを多量に入れたサラダをボール一杯食べ、味は分かるけれど美味しいと思えない。

支援は受けられず、訪問者は無く、誰からも電話もメールも無い。当事者会の活動実態も分からず、どこに助けを求めたらいいのかも分からない。世界中に忘れ去られている孤独、もう生きている必要も無いなあとしか思えず、TVを見ても楽しめず、仕方ないので、数か月ぶりに抗うつ薬のリーゼ錠5㎎を半分に切った物を飲んで早めに寝た。翌日の副作用は気にはなったが、食事を摂れなくてもいいから、少し気分を何とかしなければと思った。

26日は、薬のおかげで熟睡はできたが、目が覚めても起き上がれず、7時間は寝ていたのに、そのまま横になっていたら、すぐにまた眠ってしまった。2時間ほどして目が覚め、何処かに買い物に行く夢を見たような気がするが、記憶が混濁して、自宅に寝ていることは分かっていたが、地理的な自宅の場所が思い出せなかった。
「うちって、場所はどこだった? 近くにあるのはマックスバリュだったよね」
考えて考えて、ちゃんと思い出すのに10分くらいかかってしまった。
これも薬の副作用なのかな。

午前9時45分。起きてお湯を沸かし、米麹甘酒と炭酸水を飲み、仏壇にお茶と水を上げ、鮭切り身とマイタケとオカワカメと白菜とお茶の出涸らしとトマトケチャップと合わせ味噌で味噌汁を作り、解凍した御飯には昨年自分で漬けた梅干しを添えて、一応朝食は食べたけれど、すぐに眠くなってしまい、食後すぐに寝てはいけないと思って頑張って起きていたけれど、限界となってベッドに行くとすぐに寝入ってしまった。
昼に目が覚めて、眠気覚ましにコーヒーと素炒りナッツと高カカオチョコレートとクッキーとフルーツゼリーで簡単に昼食を済ませ、TVでニュースをチェックしたが、再び睡魔に襲われて、また寝てしまった。
幸いなことに、以前一番つらかった胃もたれの副作用は無かったけれど、睡魔が覚めない。コーヒーを飲んでも、階段を上り下りしても、全く覚めない。

夕方、目が覚めて再びコーヒーを飲み、最近はちゃんとした料理を食べていなくて貧血気味な感じがするので、夜はちゃんと作って食べようと思ったけれど作る気になれず、豚もも肉とピーマンと人参と白菜の残りをオリーブオイルで炒め、インスタントラーメンの粉末スープで味付けし、少量のお湯を入れてレンジでチンした汁無しインスタントラーメンを混ぜて焼きそば風にして食べた。栄養的には問題ないはず。

食べたらまた睡魔に襲われたけれど、すぐに眠るわけにもいかないし、久しぶりにブログを書こうかとパソコンを立ち上げたら、「重要なお知らせ」の通知。
ところが、通知をクリックしても消えてしまって内容が表示されない。しばらくすると、また「重要なお知らせ」の通知。クリックしても消えるだけで内容が表示されない。5回くらい繰り返してやっと「パソコンのバッテリーとACアダプターの発熱・発火の恐れあり。回収・無料交換のお知らせ」と表示されたが、それ以外の詳細事項無し。

ブログを書くようになって以降、パソコン本体やACアダプターが熱くなるのが気になっていたので、ネットで検索すると、回収・無料交換対象製品の製品番号等が、バッテリーとアダプター、別々に列記されていた。眠気を我慢して照合するしかなかった。早めに寝るつもりだったのに。
どうやら回収・無料交換の対象ではなく、面倒な手続きはせずに済むようなのでひと安心だが、夜中を過ぎてしまった。

23日以降、本当に最悪な4日間だった。
明日は……もう今日になってしまったけれど、ちゃんと過ごせるだろうか。
コロナ感染が我が県でも急速に拡大し、不安は大きくなるばかり。
理髪店での小さいクラスター発生しているし、美容院にも行けそうにない。
コロナさえなければ、私ももう少し社会と繋がれるのに。