ジギタリス~暗闇に何が見えますか?2020/12/26

幼い頃から、私には暗闇の中に七色の美しい模様のような物が見えていたことは、以前の記事で書きました。

ずっと気になっていたことを、今年の1月、精神科で発達障害の診断を受けた際、精神科の先生に聞いてみました。
私が暗闇に見ているものは何なのか。

先生は聞いたことが無く分からないと言いました。
「今も見えますか」と聞かれたので、
「幼い頃に見えたものほど綺麗ではないけれど、同じように色とりどりの模様のようなものが見えます」と答えました。
先生は言いました。
「わたし達が物を見ているのは脳の働きによるもので、それは人によって違うから、見えているものも人それぞれ」

精神科の先生ならば答えを知っているのではないかと思っていたので、私はとても落胆しました。
そして、今、思うのです。
「先生は、暗闇に何が見えますか?」と、聞いてみればよかったと。

もう30年くらい前だったでしょうか。
少女向き漫画雑誌を見ていたら、最終頁あたりの広告欄に、イラストカットと「ジギタリス」というタイトル、そして、「目をつむると見えてくる星雲にジギタリスと命名した」という内容の紹介が載っていて、私は、もしかして、私の見ているものと同じもの?と思い、ずっと気になっていました。

ただ、当時の私は、今より30歳以上若かったわけで、今よりずっと忙しく、考えなければならない事、しなければならない事が沢山あり、気にはなっても、そのままになっていました。
今に至るまで、「ジギタリス」を読んでいませんが、
今はネットという便利なものがあるので、ググってすぐに調べられます。

   **********

ぼくも子供の時から裸眼で星はほとんどみえませんがね、
目をつむったら見える星雲はあるんです
眠れない時無理に目をとじていると
どこからともなくわいて出て消滅する不定形の発光体です 
子供の頃ぼくはそれをよく観察しました
すると、ある一定の流れと形をもつものがあるとわかったんです
ぼくは、その一番でかい明るい星雲を“ジギタリス”と命名したんです

   大島弓子「ジギタリス」(1986年)より

   **********

うーむ、どうも私が暗闇に見ているものとは違うっぽい。

私の見ているものは、どこからともなくわいて出て消滅、はしません。
不定形の発光体で、一定の流れもあるけれど、目をつむった暗闇全体にそれは広がっているし、目をつむらなくても、明かりを消した真っ暗の中に、それは広がっているのです。
それの形は様々で、幼い頃によく見て一番綺麗だったのは、丸いおはじきの輪っかを繋げて冠のような形にしたもの。色も七色全部あって、形も様々。
前の記事に書いたように、手でつかまえることができました。
今は、一番たくさん見えるのは、小さいひし形がトランプの12みたいに一面に並んでいるもので、12どころか数え切れないほどに並んでいて、これは幼い頃にも見えていたけれど、ほかには七色の小さい丸い点模様。

ただ、あれに名前を付けるなら、「ジギタリス」というのは、とても合っている気がします。
ジギタリスの花の点々模様に似ているから。
もしかしたら、漫画の作者の大島弓子氏も、私と同じようなものが見えていたのかなあ。

どなたか、自分にも見えるよ、という方はいませんか?
形は同じでなくても。

あなたは、暗闇に何が見えますか?

絶望の淵、諦めの先に2020/12/25

随分大げさなタイトルだと思ったかもしれない。
けれど、決して大げさではないのだ。

私が、生まれた時から既に様々な困難に合い、多くの障害と病気を持っていることは、前の記事で書いた。
ただ、おそらくは、多くの人が?????と思うだろう。
その辛さ、苦しみはほとんど理解されない。
「命に関わるわけでもなし、大した事じゃないやん。もっと大変な人一杯居るよ」って思われそう。
だから、私も、誰にも言えない。

以前の記事にも書いた通り、障害者就業・生活支援センターでも、冷たく扱われた。
市役所の障害福祉課では、ヘルプマークを渡されただけだった。
専門知識があり、支援する立場にある職員でさえそうなのに、隣近所や職場やごく一般的な人達が理解するのは難しいだろう。

実の姉も、大した事とは思っていないらしく、詳しい事を聞こうとはしない。3ヶ月前にヘルプを送った姉からは、もう2ヶ月半連絡がない。仕方がない。姉はコロナ禍で仕事や家族を守るのに精一杯だ。
私は、姉が心に寄り添ってくれることを諦めた。

半年前にヘルプした親友。優しい人だけれど、彼女もあまり理解しない。
「心無い返信をしてしまってゴメンね、過去にも同じ失敗で多くの友人を失った」という彼女に、
私は「大丈夫。貴方は優しい人。一人じゃないよ」と返した。
私は、自分の本心を打ち明けることを諦めた。
差しさわりの無い日常のみの遣り取り。
それでいい。彼女が私の苦しみを理解できなくても、私を気に掛けてくれていることは本当だから。

NHKの発達障害に関する番組やサイトでは、ある発達障害者の
「助けを求める資質も必要」といった内容も紹介されていた。
それは、救いの手が差し伸べられたから言えること。
私は何度も助けを求めたけれど、どこにも届かなかった。
地域包括支援センターも、障害者就業・生活支援センターも、市役所障害福祉課も、助けてはくれない。
自閉症スペクトラム障害と言っても、IQが高いゆえに、自立に問題ないと思われる。
私のHELPの求め方が悪かった?
諦めずにHELPし続けろ?
もう無理。これ以上、傷付きたくはない。

TVでは「おうちで家族と過ごそう」というけれど、一緒に過ごす家族はいない。
「離れていても電話で話そう」と言うけれど、私は親友に電話をして辛い思いをしたから、もう自分の都合で電話はできない。

まだ仕事をしていた頃、別の親友の声が聞きたくなり、何時頃なら忙しくないだろうかと考え、夜8時頃に電話した。
「(月)だけど、今電話大丈夫?」と聞いた。
「なんで、この忙しい時に電話なんかしてくるの!」
親友はいきなり怒鳴った。
「忙しいならいいよ。ごめんね」
私は電話を切って泣いた。
忙しいかもしれないから「大丈夫?」って聞いたのに。
忙しいなら「ごめん、今忙しいから、〇〇時頃に電話してくれる?」って言ってくれればよかったのに。
きっと、親友は、そんな余裕がないほどに、何かに気を取られていたのだろうと自分を慰めた。数日後には、「あの時はごめんね」と電話があるかもしれないと。
とうとう彼女からの電話はなかった。
年賀状は欠かさず送っていたけれど、返信はあったり無かったり。
それくらいの事?と思う人もいるかもしれない。
けれど、異常な記憶力がある私は、様々なことがいつでも脳内でフラッシュバックする。
同じ思いは二度としたくない。

多くの事は、やがて時間が解決すると、よく言われる。
過去の記憶が決して薄れることの無い私の場合は、時間の経過は解決にならない。
相手は忘れていくけれど、私の中では鮮明なまま。
執念深いと勘違いされるかもしれないけれど、私自身も、そうなのかと苦しんだけれど、そうではなかった。

信じられないかもしれないが、私は、被災者でもないのに、東日本大震災の津波の映像がフラッシュバックする。
熊本の豪雨で家を失った方々のニュースを見るたび、辛くなって胸が痛くて涙がにじみ、鼻をかむ。
ちびまる子ちゃんでさえ、私は何度も泣いている。
一人暮らしの私は、TVも一人で見ているから、誰かに涙もろいと思われたくて泣くわけではない。

自らの行動で、心が痛くて苦しくなることを招きたくはない。

見た目には全く分からない障害。
私の障害や病気は、直接的に命の危険に関わらないし、感覚過敏で日常生活にどのような困難があるかなんて、誰も聞こうとはしない。
全ての感覚が超過敏であっても、感覚は目に見えないから、本人の気にし過ぎ、我慢が足りない、そんなの大なり小なり誰だって感じる……と思われるだろう。
私自身が、そう思って我慢してきたのだから。

感覚過敏によってどんなに日常生活が困難となるか、該当者以外は誰も想像だにしないだろう。
ましてや、私は、全ての感覚が過敏なので、そういう人は多くはないかもしれない。

自分でできる対策はする。例えば、TV画面は調整して一番暗くするとか、パソコンは専用眼鏡を使うとか、部屋の明かりは暗くするとか、TV視聴は字幕にするとか、外出時は耳栓をするとか……。
だけど、自分ではどうしようもない事のほうが多い。

食料品の買い出しに近所のスーパーに行っただけで、頭のクラクラと吐き気に襲われる。クリスマスや年末で店内放送も慌ただしく大音量となり、しかも暖房など入っていたら、もう地獄の苦しみ。
極力、車の運転は避ける。右折しようとして、信号無視の直進車にぶつけられそうになった恐怖と、病院からの帰りに事故車の隣を徐行しなければならなかった恐怖。
もう一つ、病院からの帰りのスーパーの駐車場で、私が駐車スペースにバックした途端に右側の車のドアが開き、左側には急に車が入ってきて、体調が悪かった上に前庭覚障害のある私は、目が回って車を真っ直ぐに止められず、少し斜めになったが駐車スペース内には収まっていた。
車から降りた途端、左側の車から降りた中年女性に言われた。
「もっとちゃんと駐車したら!」
その女性は、ピンク色の制服の左胸に「アイコデイサービス」と青い刺繍がしてあった。
以来、私はそのスーパーに車で行けなくなった。

長距離の自動車運転は、信号無視の車にぶつけられそうになった恐怖や事故車の隣を徐行しなければならなかった恐怖で、もう出来ない。
駐車場も怖い。
公共の交通機関も怖い。
長距離の移動ができないし、付き添ってくれる人もいない。
映画にも行けない。
交通手段の問題だけではなく、映画そのもののフラッシュや点滅、急速度のカメラワークなどで頭痛と吐き気がするからだ。
自宅では、TVを消して目を閉じて休めば良いけれど、一人の外出先ではどうしようもない。
だから、引きこもるしかない。

コロナ禍で、ステイホームを呼び掛けられるから、家から出なくても、周囲の目を気にする必要は無いけれど、何処に行くにも何をするにも一人で、障害や病気による日常の困難も理解されず、一人で抱えるしかない孤独。

私は、決して自ら引きこもった訳ではなく、若い頃からボランティアや地域活動を始め、色々な団体に所属して活動したり講習を受けたり資格を取ったりした。
けれど、詳しい話はここでは書かないけれど、朱に交わっても赤くなれない私の孤独は、癒されるどころか、弥《いや》増すばかりだった。

私の障害や病気は、直接命の危機には至らないけれど、孤独こそは死に至る病であるとは、誰も考えないだろう。
私は子供の頃から何度も絶望の淵に立った。
小学4年生の頃、既に友人関係に絶望した。仲が良く、親友と公言する同士が、陰では互いの悪口を言っているのを見聞きして、誰も信用できないと思い、遠くに行ってしまいたかった。
虐められ、仲間外れにされ、担任からさえ耳を傾けてはもらえず、親友と思っていた相手に裏切られ、職場では体調不良をサボリや怠慢と思われてパワハラ被害に合い、恋した人は、自分から超アピールしてきたくせに、私が辛くて弱音を吐くと離れていった。

私は、この世界に絶望しかない。
けれど、死を選んでも解決しない。
だから、私は、自分ではどうすることもできない事を全て諦めることにした。
もう子供を産んで母親になることができないと分かった時の哀しみ。
それを諦める事でしか、前には進めなかった。
公的機関の支援も諦めた。
再就職も諦めた。
異性に理解されることも諦めた。
姉の寄り添いも諦めた。
親友に理解されることも諦めた。

絶望の淵の、諦めの先に、ただ一つあるのが、こうして書くこと。

幸いなことに、コロナ禍にあっても、私には住む家があり、質素に暮らしてきたから仕事をしていた頃の貯えにより買い物もできる。

小説投稿サイトへの投稿は、世間で主流のライトノベルとは逆行した小説なので、PVは増えないけれど、読んでくれる読者がいれば、それで心の支えとなる。

絶望の淵から、全てを諦め、ただ一つ残った、現実ではない世界を描くこと。
収入にはならないけれど、今できることは、ただそれだけ。
だから、私は全力を傾ける。

長文を読んでくださって、ありがとうございます。m(_ _)m

不運多過ぎ人生2020/12/25

幸運な人、不運な人っているのだろうか。
幸運も不運も本人の捉え方次第と言う人もいるようだ。
幸運と捉えれば未来が開けるし、不運と捉えればそこまでと。
「人生万事西欧が馬」ってことわざもある。

でも、やっぱり私は、ちょっと不運多過ぎじゃないかって思ってしまう。

生まれた時、仮死状態だった。お腹の中に2週間も長くいて、臍帯つまりへその緒が首にグルグルと2回巻き付いていて、足をもって逆さにして背中をバンバン叩いて、初めて産声を上げたのだと、幼い頃、笑い話のようにして聞かされた。

私が生まれて1週間後くらいに、4歳半ほど年上の姉が父に連れられて初めて面会に来たそうだが、父がふと気付くと、生後間もない赤ちゃんの私が、口をモグモグさせていたという。なんと、姉が、自分が持っていた飴玉を、生後間もない私の口に入れたのだと分かり、慌てて取り出したという。姉は可愛い妹に美味しい飴玉を食べさせようとしただけで、目を離した大人達が悪い。
私は生まれた時も仮死状態だったのに、生後1週間で再び死ぬ目にあった。

私がこんな風に昔のことを語れるのは、成長してから聞かされたからではなく、2,3歳頃からの鮮明な記憶を持っているからで、出生時の事は幼児期に親から聞いて知っていたが、親は笑い話のように語っていたので、私も「へぇーそうだったんだ」くらいの認識しかなかった。
それが実はとても危険な事だったと知ったのは、大学で「小児保健」という授業を受けてからだ。死亡に至らなかったとしても、小児まひや知的障害など、心身に影響を及ぼす危険が高かったのだと初めて知った。

私は、幼いころ、暗がりに不思議なものを見ていた。とても綺麗で、虹色の様々な形のものがたくさんたくさん流れるように浮かんでいて、私はそれを掌で包んで捕まえることもできた。布団にもぐって、一番綺麗なそれを捕まえて、握った手の隙間から覗くと、捕まえたその綺麗なものが手の中にちゃんと見えた。
今は幼い頃ほどは綺麗ではないけれど、やはり暗闇は闇ではなくて、カラフルな虹色の模様で溢れている。
小学校の低学年で気付いたのは、明るい所では透明なシャボン玉のような〇が空中を動き回っていることだ。参観日で授業は早く終わり、母親は懇談会に出ていて、一人で南向きの和室でぼうっと宙を見ていて気付いた。空気が見えるのかな、と思った。
大人になって分かったのだが、私には五感全てに強い感覚過敏があり、目に見える世界が普通ではなかったらしいのも、感覚過敏によるものだった。匂いにも敏感だったし、他人に触れられるのも苦手だった。

中学生になって自転車に乗れるようになって気付いたのは、目の中に細い線路のようなものが見えることだった。視線を動かすと付いてきて、それが何なのかは分からなかった。
成人して家庭の医学を読んでいて、胎児期に網膜内の血管が消えずに残ることがあると知った。それのようだった。数年後に眼科を受診したが、やはり飛蚊症などの異常ではなかった。
なぜ読んでいたかと言うと、最初のページから最後のページまで読んだからで、小学校の頃から、教科書なども配布されたその日に全部読んでいた。
その家庭の医学を読んでいて、「卵巣嚢腫」という病気が目に留まった。胎児期に卵巣の中に表皮細胞が入り込み、成長とともに毛髪や脂肪や爪になって肥大し、重みで卵管を引っ張り、撚れることで激痛を起こすと書かれていて、これはもう30年も昔の記述だから、最新の医学書では違うかもしれない。

えーっ、卵巣の中に髪の毛や脂肪や爪が詰まっていたら気持ち悪いなあ……と思っていたら、その1年後くらいに、まさに私自身がそれであることが分かり、左側の卵巣を摘出した。
最近再放送されたグッド・ドクター第7回に出てきた伊代ちゃんが、たぶん同じ病気だったと思う。私の場合、摘出後に検査に回されたが、幸いにも悪性ではなかったようだった。
(この記事は、ブログを中断していた7月半ばに書き、投稿していなかったものです)

20代の若さで卵巣を片方だけとはいえ失ってしまう哀しみ。しかし、誰も分かってはくれなかった。特に年配の女性職員は「手術といったって子宮口から出来るから簡単でしょ」と冷たく、「お腹を切ります」と答えても無神経な態度や言葉は変わらず、入院や手術のための仕事の調整を泣く泣く自分でやっていたら、ようやく一人の人が「それはあなたのやることじゃなくて私達のやること」と言って代わってくれた。
最初に受診した近所の婦人科では「子宮筋腫」と診断されていて、治療などだんだん信用できなくなり、遠くの婦人科で「子宮筋腫じゃないよ」と言われて初めて発覚した。
私はその数年前から度々ひどい腹痛を起こし、救急搬送され、胃カメラまで飲まされて、「異常なし」で帰されたこともあり、やっと腹痛の原因が分かったのだった。
手術当日のこともよく覚えている。手術室で自ら全裸になって手術台(分娩台)に横たわらねばならず、音楽は掛かっているし、胸部麻酔ですぐに意識は朦朧となったけれど、冗談を言い合ったりしているのも聞こえて嫌だった。「卵管は温存」と言われたのは強く印象に残っている。
手術後、両親の顔を見ると、張り詰めていた気持ちが切れ、私はワアワア泣いてしまった。そして、麻酔が切れると、地獄のような痛みが待っていた。
回復し、自宅療養中に一時実家に戻っていたが、手ぶらで顔を出した義理の兄は、見舞いを言うでなく「へえ、痩せたね。やっぱ大変じゃったっちゃね」と言っただけだった。

回復してからも、私はとても疲れやすく、たびたび倒れて、職場でもベッドで休ませてもらったりした。浮遊感のあるめまいにも悩まされ、緊張をほぐす漢方薬など処方された。

子供の頃から呼吸器系が弱く、たびたび肺炎や気管支炎、胸膜炎になった。

職場のレクリエーションでバレーボール大会に参加したところ、膝をひねって半月板損傷となったが、担当者が保険に加入するのを忘れていて、保険金が貰えなかった。
町内唯一の総合病院に行ったが、炎症により溜まった水を抜くだけという10年遅れの治療をされ、何年経っても痛みが無くならず、歩いていると突然膝がガクンとなった。別の病院で、スポーツをするなら手術しなければならないと言われた。

病気ではないのだが、祖母が亡くなった際も厚生担当者が忘れていて「弔電」を貰えなかったことがある。私の祖母が亡くなって2週間ほど後に別の職員が朝礼時に「この度は祖母の葬儀で弔電を頂き、有難うございました」と挨拶したのを聞き、「えっ、弔電なんて私もらってないけど?」と思っていたら、厚生担当者が跳んできて「ゴメ~ン。あなたの時は忘れてたぁ」と言われた。
ゴメンで済む? 私は職場の皆に、弔電を貰っても挨拶もできないダメ人間と思われたに違いないのだ。
どうも私は運が悪いらしく、数えたらきりがない。多過ぎて、とても書ききれない。

若い頃からの無理(生活のため肉体労働など)がたたってか、悪い左膝をかばってしまうせいか、右足は進行性膝関節症になり、一時期は歩くのも困難だった。体重は軽いのに。

体質に合わない薬が多くて副作用が出やすく、高熱で点滴を打った際には、何かの薬が薬を点滴に足された途端にひどい吐き気で苦しみ、その足した薬を抜いたら治まった。吐き気止めの薬だと言われた。吐き気止めで吐き気が強くなったのだ。
他にも、「きんぴらごぼう」にはまり、唐辛子は1本だけでそれほど辛くしなかったのに初期の痔になり、専門医に処方された薬で治るはずだったのに、薬を塗ったらヒリヒリして、翌日にはひどく悪化して手術する羽目になり、2週間分の薬は体質に合わなかったのに返品できず、さらには、当時の私は歯科の麻酔さえ炎症を起こしていたために局部麻酔は使えないと言われて全身麻酔での手術となった。

飲み薬にも合わない物が多いし、初めはよくても、使っているうちに副作用が出てきて使えなくなる。副作用が殆んどないという薬でも副作用が出てしまう。薬だけでなく、化粧品も、塗った瞬間からヒリヒリするものが多く、今は通販で無添加の肌に合うものが見つかって助かっている。どうも私は、体の中も外も過敏すぎるようだ。

甲状腺の病気である橋本病であることも分かった。橋本病とは、自己免疫疾患の1つで、甲状腺機能が低下することにより全身の代謝が低下し、身体活動と精神活動が全般的に活動的でなくなり、疲れやすく、鬱になったりもするらしい。

母の介護をするようになって数年して、体中の痛みや起床後の手足のこわばりなどの症状が出るようになった。動き回っていると痛みやこわばりもなくなるし、母の介護のために自分のことは全部後回しだったので、母の状態が悪化して入院し数か月してから、漸く自分の症状について調べて間接リウマチを疑い、リウマチを見てくれる整形外科を受診し、神経障害性疼痛と診断された。
ところが薬が体に合わず、2回目に処方された薬の激しい副反応で救急搬送されることとなり、複数の病院に拒否されて最後に県立病院に受け入れられたが、病室に空きがなかったらしく、二日目は何の説明もなく運ばれた病室が、会話の内容から察するに重症癌患者の病室で、肩身の狭い辛い夜を過ごし、しかも、救急外来との間で申し送りが無かったらしく、当直の看護師に訴えても「聞いていない」の一点張りで入眠剤ももらえず、明け方まで一睡もできない苦しい夜を過ごさねばならなかった。

母は入院中から徘徊などの症状が悪化し、同じ敷地内の介護老人保健施設への入所を勧められたが、体調は良くなったものの認知症は進行し、それなのに、一年も経つと、状態が良いから今のうちに在宅へ戻れと面会の度に言われるようになった。
その秋、地域包括支援センターに相談の電話をしたが、「インターネットで見られる情報以上に提供できる情報はない。結局は家族が自分で見学して決めることだから」と、相談を拒否された。そのショックで、私は数か月間体調を崩し、外出もままならなくなった。

翌年の7月、40度近い高熱で、動けなくなった。お独り様のために自分でどうにかするしかなく、買い置きの経口補水液ゼリーや薄めたスポーツ飲料を飲みながら、2日後に熱は微熱にまで下がったが、頭痛や倦怠感、咳は治らなかった。
また肺炎か気管支炎かと思い、行きつけの内科を受診したら、好酸球性副鼻腔炎と診断され、さらに数日後には激しい喘息の発作を併発して夜も眠れなくなった。

その数か月後、要介護5となった母を、ようやくグループホームに入れることが出来て安心したのも束の間、突然左耳が聞こえなくなり、突発性難聴になった。

そして、NHKの発達障害に関する番組を見てまさに自分だと思い、自分は自閉症スペクトラム障害に違いないと思っていたのだが、受診の結果、高機能自閉症と診断された。
私には五感全てに強度の感覚過敏があり、記憶をたどると幼児期にすでにあったが、自分も周囲も気付いていなかっただけだったと分かった。五感全ての感覚過敏だけにとどまらず前庭覚過敏もあるし、聴覚情報処理障害もある。詳細はとても書ききれないので、別の記事で。
つまり、私が無口でノロマダだったり、運動音痴だったり、疲れやすいのを我儘や怠惰に思われたり、ゴーイング・マイウエイと言われたり、生き辛い日々を送らねばならなかったのは、自閉症スペクトラム障害や感覚過敏によるものだった。
その上、IQが高く、脳の情報処理速度が速い為に、周囲の人達とのずれが生じる。まさか自分のIQが高いなんて知らなかったし、どうせなら、IQ150とか180とかなら超越できたかもしれないけれど、130程度では中途半端すぎる。

高校を卒業して自炊するようになってから、健康や食生活には人一倍気を付け、高校卒業時の体重をほぼ維持しているし、たまに貧血や過呼吸を起こす以外は健康体だと自負していたのに、いくら何でも病気や障害の数が多すぎないか?

出生時に仮死状態だったこと
幼児期から感覚全てに強い感覚過敏があること
網膜に血管が残っていること
卵巣嚢腫(皮様性嚢腫・奇形腫)による20代の若さでの卵巣摘出
聴覚情報処理障害
橋本病 → 経過観察中
神経障害性疼痛 → 2つ目の薬の副反応で救急搬送。治療断念。
好酸球性副鼻腔炎(喘息併発) → 薬の副反応で治療休止
突発性難聴 → 一応の回復はしたが、聴覚過敏増強
自閉症スペクトラム障害(高機能自閉症)
金属アレルギー(鉄、プラチナ)
体の中も外も過敏すぎるのか薬の副作用が異常に強く、使えない薬が多いこと

これ全部、自分自身ではどうしようもないものばかり。

いくら何でも、一人の人間に多すぎるような気がするのだが?

産休代替講師の立場2020/10/17

非正規雇用について何かと話題となっている。
私も色々な非正規雇用を経験しているが、今日は主に産休代替講師について書きたい。

私は、20代の若い頃に1回と、健康上の理由から早期退職をした後の40代の中堅の頃に1回の、合わせて2回産休代替講師をした。
職場では、私自身の頑張りが認められたこともあってか人間関係はとても良く、期間が終わる時には皆で惜しんでくれ、盛大な送別会をしてくれたり、全職員からのサプライズプレゼントを貰ったりと、何も不満は無い。

けれど、産休代替講師の立場が制度上どのように位置づけられているかについて、不公平さを感じたことも事実だった。

私が産休代替講師をすることになったいきさつは、2回とも、教育委員会からの電話だった。
正規の教諭が妊娠して産前産後休暇と育児休暇を取りたいと思ったら、代替講師が必要になる。
代替講師を見つけることは、実は全く簡単ではない。

教諭が産休・育休を取る時や、長期出張、病気などで代替講師が必要になると、本来は管理職が探すのだが、実際に探す作業は主任に任されることも多い。私は私立高等学校で教諭の経験もあったことなどから、県の採用試験に合格してから6年目には主任を命じられた。学校の立地条件や担当する教科・科目によっては、代替講師が見つからないことも多く、いつも大変苦心した。
管理職によっては、講師探しが難航していると聞いて状況を聞いただけで、余計な心配はしなくてよいと言われ、知らないうちに話が進んでいたこともあった。

山間部の高等学校で探した際には、結局見つからなかったらしく、授業のみの時間講師で本来は支給されない交通手当を支給するなどの条件で、地元の退職した高齢の方に時間講師が依頼された。授業以外のテスト問題作成と採点及び成績処理は誰がしたのかと言うと、一番キャリアのあった私。担任に加えて学科主任も教科主任も任されていた私の業務は大幅に増えたけれど、私の給料はもちろん1円も増えない。

そんなふうに、講師を見つけることの大変さを知っていたから、もう二度と教員はすまいと思って退職をした後も、困っている事情を慮(おもんぱか)り、快く引き受けたのだ。

まず、産休代替は学期途中の何でもない時に赴任するので、朝の職員朝礼での短い紹介のみで、全校生徒への紹介はないようだ。これは産休代替だけでなく、出張や病休に伴う代替講師の場合も同じ。つまり、授業を担当する全クラスで、最初の授業で初めて顔を合わせる。
それに、授業を引き継ぎ、代替期間が終わったらまた元の先生が返ってくるので、自分の好きなようにはできない。赴任前に簡単な説明は受けるけれど、準備期間は殆ど無い。

欠員補充の講師の場合は、正式採用の教諭と同様に4月最初に赴任して3月末の更新もしくは退職となるので、始業式での職員紹介や離任式での紹介などあり、全校生徒の前で挨拶をする場もあるけれど、産休代替、出張代替、病休代替ではそれがなく、ひっそりと赴任してひっそりと居なくなる、という事になる。

給与明細が手渡される順番も、私は最後だった。以前は職員室の各個人用の手箱(配布物や連絡事項を入れる棚や引き出し)に配布されていたこともあったけれど、誰でも見られるので、おそらくは個人情報保護の観点から直接手渡すことになったのだろう。
年功序列の順に校長室前の廊下に並び、順番に名前を呼ばれて手渡されるのだが、採用試験に向けて準備中の年若い欠員補充講師よりも更に後の、私は最後。給与明細をもらう順番なんて最初だろうが最後だろうがどうでもいいことだけれど、教頭以下年功序列の順番に並ぶ最後尾に並ぶことは、私の立場の不安定さをそのまま物語るものだった。

立場の不安定さ。

定められた期間が過ぎれば居なくなる私は、出過ぎた真似はできないし、会議に出席しても堂々と意見が言える立場ではない。期間終了後には元の先生が戻ってくるわけなので、休業中の先生のやり方を踏襲するのは当然であり、自分のやり方に変えるわけにもいかない。
単なる場繋ぎだから。
そして、私が引き受けた産休代替の2回とも、直前になって1か月短縮された。

或る日、管理職に呼ばれ、何の用事だろうと思っていたら、変更された辞令を当たり前のように渡された時の、驚きと失望。
職員室に戻り
「何の用だった?」と同僚の先輩教諭に訊かれ、
「新しい辞令を渡されて、1か月短くなってたんですよ」
私の顔には、不満の色が現れていたかもしれない。
「文句は言えないよ。生活があるからね」と同僚の先輩女性教諭は言った。
私は、自分の気持ちを飲み込むしかなかった。

教諭は、産前産後休暇だけでなく育児休暇中も給与の3分の2程度が支給される。
そして、一方的に1か月短縮された私は、収入ゼロになる。私にも生活はあるし、大好きな職場からも、1か月早く去らなければならない。

限られた期間であることは承知で受けた仕事ではあるけれど、せめて最初の辞令に示された期間は厳守して欲しいと思うのは、私の間違いなのだろうか。

正規の教諭が安心して産前産後休暇や育児休暇を取ったり、長期出張に行ったり、病気の時に長期療養できるのも、代替講師の存在があればこそ。
それなのに、辞令までもが途中で変更され、短縮される。
ある程度のスキルがなければ、いきなりの初めての職場環境や多様な生徒に対応して業務をこなすなんて、そうそう出来る事ではないのに、制度上では、講師は全く立場が無い。
どこにも不満をぶつけられず、戻ってくる先生に笑顔で引継ぎの説明をするしかないのだ。

例えば逆の立場で、講師の側が途中で「辞めます」なんて言ったら、激しく非難されるだろう。辞令期間中は職務を遂行する責任があると。
けれど、育児休暇中の教諭からは、「夏休みに入れば業務も楽なので1か月早いけど戻ります」が許される。

代替講師なんて、結局は、都合よく便利に使いまわされるだけ。

その上、全校生徒の前で挨拶をする機会もない。
学年集会でさえ、あらかじめ決められた集会の内容に、一度も退任者挨拶の場が設けられたことはなかった。
代替講師が何時何時までで去るなんて、集会進行役の頭には全く無いのだろう。

なので、私は自ら申し出た。
「学年集会の最後で良いので、挨拶をする時間を下さい」と。
クラスによっては、あらかじめ、お別れの言葉を寄せ書きした色紙を用意していて手渡されたこともあるし、
「もうすぐ〇〇先生が戻ってくるので、私の授業は□月△日で最後になります」と各クラスでの授業の際に話すので、個人的に手紙をくれたり、定期テストの回答用紙の裏にメッセージを書いてくれたりする生徒もいた。
「今までは授業内容に興味が持てなかったけれど、(月)先生になって、すごく興味が沸きました」
「(月)先生の授業を受けるようになって、授業がとても面白くて分かりやすくて、成績が上がったので嬉しいです」
そんなメッセージもたくさんもらった。

私は、たとえ3ヶ月間でも、決して手抜きはしなかった。
苦手意識のある生徒や興味を持たない生徒にも、授業内容をちゃんと理解して、学業を離れても自ら学ぶ態度に繋げてほしいと思っていたから、教科書をなぞる授業はしなかった。
生徒たちには、ちゃんと私の思いは通じていたと思う。
一年も過ぎる頃には、忘れられてしまったかもしれないけれど。

講師をしていて、職場にも生徒にも不満は無かった。
けれど、あらゆる場面で、虚しさを感じた。
講師が居なければ、長期出張や産休育休や病気療養などの制度そのものが成り立たないのに。
講師は経験豊かであろうと、同年齢の教諭には遠く及ばない給与しか支払われず、年齢が上がるほどにその差は広がり、それでも一生懸命に業務に励んでいる。
講師経験のない教諭には、講師の思いは分からないかもしれない。
せめて、制度の運用上は、講師の立場をもう少し尊重しても良いのではないか。
それが、私が講師をしていた頃に思った事。

今は、もう少し改善されただろうか。
改善されていることを望む。

非正規雇用の格差是正を!2020/10/13

非正規社員に対する退職金やボーナスの支給が最高裁判決で認められず、逆転敗訴した二つの訴訟。
私も怒りを禁じえない。
というか、はらわたが煮えくり返る思いだ。

落胆「不公平感募る」=「最低裁だ」憤る原告―非正規訴訟で逆転敗訴
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E8%90%BD%E8%83%86-%E4%B8%8D%E5%85%AC%E5%B9%B3%E6%84%9F%E5%8B%9F%E3%82%8B-%E6%9C%80%E4%BD%8E%E8%A3%81%E3%81%A0-%E6%86%A4%E3%82%8B%E5%8E%9F%E5%91%8A-%E9%9D%9E%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E3%81%A7%E9%80%86%E8%BB%A2%E6%95%97%E8%A8%B4/ar-BB19YmKC?ocid=msedgntp

大阪医科大学の研究室で秘書のアルバイトをしていた50代の女性の訴えに対して、
判決で、最高裁判所第三小法廷の宮崎裕子裁判長は、
「大学では、正規の職員は業務内容の難易度が高く、人材の育成や活用のために人事異動も行われ、正職員としての職務を遂行できる人材を確保する目的でボーナスが支給されている。一方、アルバイトの業務内容は易しいとうかがわれる」と指摘し、
「(アルバイトに)ボーナスが支給されないことは不合理な格差とまではいえない」と判断したという。

また、東京メトロの子会社「メトロコマース」の契約社員らの訴えに対しては、
最高裁判所第三小法廷の林景一裁判長は、
「退職金は労務の対価の後払いや、続けて勤務したことに対する功労の性質もある。正社員は複数の売店を統括し、サポートやトラブル処理などに従事することがあるが、契約社員は売店業務に専従し、一定の違いがあったことは否定できず、配置転換も命じられない」と指摘し、
退職金を支給しないことは不合理な格差に当たらないとする判断を示したという。

今回の裁判では、裁判長があまりにもアルバイトや契約社員を見下しているし、アルバイトや契約社員の仕事は簡単な仕事と決めつけているし、アルバイトや契約社員の業務は功労に値しないと言っているも同然だ。
不愉快極まりない。

アルバイトも契約社員も、生活がかかっているから必死に頑張っている。正社員に比べて、いつ解雇されるか分からない不安定な立場だから、手抜きなんか出来ない。納得できない事があっても、契約を更新して貰えなくなるかもしれないと思えば、我慢しなければならない。
それに、現場に出ればアルバイトも契約社員も関係なくなってしまうし、立場が弱い方が多くの仕事を振られてしまうのは世の常だ。
売店などでは、正社員とか契約社員とかお客さんはいちいち考えない。
「私は契約社員だから分かりません、できません」などと言うわけにはいかない。
私は教員以外にも様々な仕事を経験し、嫌な思いも沢山しているから身に染みて分かる。

それに、何より重要なのは、正規の採用枠が少ない為に、仕方なくアルバイトや契約社員として勤めざるを得ないという事実を全く無視している点だと私は思う。
能力が低いからアルバイトや契約社員に甘んじているわけではないのだ。正社員のほうが年齢が若く経験も少なくて仕事ができないという場合だってある。今回の場合だって、両ケースともに、アルバイトや契約社員とは言え経験が長かった。
給与が安い事やボーナスや手当てが無い事に納得してアルバイトや契約社員を自ら選択したわけではなく、多くの非正規労働者は、他に道が無かったから、仕方なく非正規労働者となったのだ。

なぜ現在のように非正規雇用が拡大したかと言うと、私の記憶では、小泉純一郎元総理の規制緩和改革から始まっている。
当時は小泉元総理は大変な人気で写真集まで出され、私の同僚も購入していた。
私は、非正規雇用を拡大させる小泉元総理の改革に当初から大反対だったので、なぜ世間の小母様方が写真集まで買って熱狂するのか不思議でならなかった。
規制緩和と言うと聞こえは良いが、要するに、企業が安い労働力を手軽に使い捨てられるようにしたのだ。国際競争力を高めて日本の企業が勝ち抜くために、良質で安価な労働力が必要だったのだ。
物は言いようで、正社員に採用されない人が非正規であれば雇用されやすくなるとも言えるだろうけれど、雇用条件に格差があり過ぎるのだから、残念ながら、労働者の為の改革とは言えない。
そして今や労働者の4分の1は非正規といわれ、格差は広がるばかりだ。
かつては1億総中流社会と言われた日本だが、もう何処にもその面影はないように思える。

「同一労働、同一賃金」などと言われても、哀しいかな、そう簡単に労働者が平等に扱われることはない。
年功序列だし、上司に部下は物が言えないし、今や正社員でも昔ほど安泰とは言えない時代ではあるが、それでも、非正規労働者は圧倒的に立場が弱いのだ。
コロナ禍でも、多くの非正規労働者が派遣切りされているというし。

政治家や高学歴の学者や大企業の取締役や、そんな著名人たちだけが社会に貢献しているのではない。
高名な建築家による構造物も、多くの現場労働者たちが居なければ作ることが出来ない。
政治家は、政策を作って社会を動かしているのは自分たちだと思っているかもしれないが、実際に社会を支えているのは、名も知れず低賃金で働いている人達なのだ。
ある意味では、低賃金で地味な仕事をしている非正規労働者こそが、最も社会に貢献しているとも言えると思う。

司法は、弱い立場の非正規労働者の味方であって欲しい。

私は、日本から非正規雇用を無くしてほしいと思う。正規も非正規も無く、労働者として同等の権利を享受できる社会になって欲しい。



以下、蛇足ながら私の体験。

※ 私が大学1年の頃、山〇海苔のメーカーからデパートのお歳暮コーナーでのアルバイトを依頼された。山〇海苔については、メーカーさんより説明と指示があり、私は一生懸命に接客したのだが、昼直前、突然つかつかと現れた黒い背広姿でフロア部長のバッジを胸に付けた男性店員が、私に〇本〇海苔コーナーに関して文句を言うので、「私は山〇海苔のメーカーのアルバイトなので、〇本〇海苔のコーナーに関しては分かりません」と答えると、
「たとえそうでも、同じ売り場に立つ以上、違うメーカーの事は関係無いで通ると思うのか!!」
怒りに任せて怒鳴られた。
私は悪くない。学生アルバイトの身で、立場以上の、他のメーカーの売り場に首を突っ込む方が間違っている。〇本〇海苔の売り場に気に入らない事があるなら、〇本〇海苔の担当者に言えばいいのだ。隣の売り場に居ただけで責任を押し付けられるなんて、あまりにもひど過ぎる。事情を知らないお客さんに言われたなら、仕方ないと我慢も出来るが、相手は事情も知るはずのフロア部長。
周りにいたデパート店員も、私を気の毒そうに見るだけで誰も助けてはくれなかった。フロア部長は、私に怒鳴ると、さっさと立ち去った。
私は、あまりの理不尽さに、昼食時間、従業員用のトイレで一人わあわあ泣いた。泣くしか出来なかった。泣いていると、山〇海苔のメーカーさんが、ドアの外から「大丈夫? 話は聞いたよ。泣きたいだけ泣いていいよ」と声を掛けてくれた。
「大丈夫です」と答えるしかない。
あの時のフロア部長は、もしかしたら、私がアルバイトだと知っていて怒りをぶつけたのかもしれない。デパートの制服ではないエプロン姿で、一番年若く、一番が弱い立場であることは、一目で分かったはずなのだから。
後から、他の店員に聞いた。災難だったね、あのフロア部長は、日頃からああいう態度なのだと。

※ 私が大学4年時の採用試験は超狭き門でクラスから誰も合格できず、私は某有名私立大学付属高等学校で週にわずか12時間の非常勤講師をしたのだが、交通手当も住居手当も無く、行事や祝日で授業が無くなればその分の時給は支給されず、夏休み中は給与ゼロで、会議や行事は給与は出なくても勉強のために出席せよと言われるし、採用試験当日の課外授業を命じられるし、新年度の契約更新については2月になっても3月になっても何も言われず、どれだけ理不尽な思いをしたか分からない。

※ 他県で別の私立高等学校に採用されるも、理事長の横暴やその言いなりになった管理職、明らかにおかしい事がシステム化され、異議を唱えると、管理職に洗脳されたかのような同僚に窘められ、生徒が問題を起こせば夜中でも電話でたたき起こされ、ノイローゼ寸前に。

※ 県の採用試験に合格し、初任者とはみなされずに最初から担任を命じられるも、私よりも年齢も経験年数も上な同僚が、量的にも質的にも仕事をしておらず、暇にしていることに不公平感を抱かずにいられなかった。

※ 職員会議で決定したことが、校長によって覆されることがどの学校でも度々あり、皆で異議を唱えると、校長曰く
「学校における最高(終)決定機関は、職員会議ではなく校長である」
一番民主的であるはずの学校は、実に封建的な縦社会だった。

※ 私が校長と共に他県で行われる研究会に出席する際、校長は旅行命令書から何から全ての手配を私に任せた。任せたというと聞こえが良いが、自分は何もせずに私にさせたという事。そして私は、事務部で記入された出張手当の金額を見て、理不尽で不愉快な事実を知った。実際に研究発表をするのは私であり、同じ交通機関で同じ会場に行き、そこで準備される同じ弁当を食べ、同じホテルに宿泊し、自己負担額は同じなのに、管理職というだけで、日当どころか交通手当も宿泊手当ても昼食手当ても2倍近く高い金額が記入されていた。校長が自分の出張手続きくらい自分ですれば、私は理不尽な事実を知って不愉快になることもなかったのに。

※ 当時はパワハラやモラハラという言葉は無かったが、私は当時の校長にパワハラやモラハラを受け、過重労働で心身ともに限界となって、年末の希望届けで退職を願い出たが、翌年に私に頼む予定の仕事を頼む人が居ないからと聞き入れられず、翌年は死に物狂いで一人七役ほどの仕事をこなし、今年こそはと退職を申し出るも、再び慰留され、「あと1年と言う約束でした」と伝えて退職したのだが、それほどの仕事ぶりであったのに、暇を持て余したような定時帰宅の年上教諭でも、給与は年功序列だったことは、本当に割に合わないと感じた。

※ パワハラ、モラハラ、過重労働で一度は半年間の休職をしたほどに心身ともに限界であったのだが、退職前の私の年収は800万円ほどあった。ところが、その後に別の高等学校に請われて講師をすると、講師の立場ゆえ運営委員会に出席できない以外は全て他の正規教諭と同じかそれ以上の仕事をしても、年収は150万円以下に。これから採用試験を目指す若い年齢なら、経験も知識も不十分で仕方ないと思うが、一度退職したというだけで、それまでのキャリアも雀の涙ほどしか考慮されず、発言権も何もない虚しさ。

私は、母の介護のために、慰留された欠員補充の講師の仕事も断って、それ以降、現在も無職だ。講師の仕事を引き受けなかった第1の理由は母の介護だが、講師という立場では長いキャリアも高いスキルも少ししか生かせず、給与は全く労働に見合わず、会議に参加できないために決められた事に黙って従うしかなかったことも、かなり関係している。
運営委員会に出席できない以外は同じ仕事をしているのに、講師だというだけで年収は教諭の5分の1以下にしかならないことを知っていたから、本当に虚しくなった。月々の給与も半分程だったが、やはり大きかったのは期末手当(ボーナス)の差だった。

日本社会では、最初にレールに乗り遅れると、その後に遅れてレールに乗ることは難しい。そして、一度でもレールから離れると、もう二度と元には戻れないようだ。

大人はいつも頭ごなしだった2020/09/28

私には物心ついた頃からの詳細な記憶が、映像と音声でビデオのように鮮明にある。
宴会や会議での会話や日常の会話も、音声付き映像で脳内で再現できるし、TVや映画も、暫くの間は脳内でほぼ再現出来て、その事を特別だとは思っていなかったけれど、十年くらい前、もしかして私の記憶力は普通ではないのかもしれないと気付いた。

膨大な記憶というのは、全く役には立たない。フラッシュバックに苦しむだけだ。
眠れない夜は特に困る。
多くの人が時間と共に忘れていく気まずい記憶も、私は記憶が薄れることがないので、目の前の相手がすっかり忘れていても、私の胸にはその人に辛い思いをさせられたことが刻まれている。相手に合わせて忘れた振りでもしなければ、社会生活も難しい。

大人は、幼児の頃は物が分かっていないし、記憶はすぐに薄れて忘れてしまうと思っているようだけど、私には、2,3歳頃からの記憶がある。幼児は、ただ表現して伝える術を持っていないか、その術が拙いために、幼児がまるで何も考えていないかのように大人は誤解するのだ。

私が初めて知った哀しみは、3歳くらいの事だった。
当時の私は、父の勤める会社の社宅アパート南8棟の西端2階に住んでいて、アパートとアパートの間には広い緑地があり、小さい子達はその片隅でママゴトなどして遊んでいた。他の子達は、赤や青や綺麗な色で塗装されたブリキの台所セットなどを持っていたりした。私は今もそれを鮮明に覚えている。
その中の一人が、同じアパートの最上階に住んでいることが分かって、私は翌日に一緒にママゴトして遊ぶ約束をした。私のママゴト道具は、姉のお下がりのオレンジ色のプラスチック片手鍋の折れた持ち手を絆創膏でつないだものや、母の資生堂化粧品の空きビンなどしかなかったけれど、それらを古いビニルのテーブル掛けに包んで抱え、コンクリートの階段を最上階まで登った。けれど、約束したのに、その子は遊びに行って居なかった。私は、次第にほどけていく包みを引きずって階段を下りたけれど、途中で、黒い蓋の白い資生堂の瓶が一つ、また一つ、包みから零れて落ちて、コンクリートの階段で粉々に割れた。
私は泣きながら自宅に帰りつき、「約束したのに居なかった」と訴えたのだが、母は「そんなことで泣かんでいいが」と言っただけだった。私の哀しみは分かって貰えなかった。初めて裏切りに会った哀しみ、みすぼらしくても私にとっては大事なママゴト道具が割れてしまった悲しさ、気持ちを母親に分かって貰えないもどかしさ。私が母親だったら、「辛かったね」と抱きしめてあげるのに。

5歳の頃、深夜過ぎに母に起こされ、「じいちゃんが死んで、ばあちゃんが、おーい、って呼んだからばあちゃん所に行くよ」と言われて、父の運転する軽自動車で祖父母の家に行き、それから後の約1年間は父の実家で暮らしたのだが、幼稚園に入る直前、説明会に行った母が、近所で同じ幼稚園に通う女の子の名前を教えてくれた。
「ア○○○ミ○○ちゃん、ア○○○ミ○○ちゃん」
私は、その名前を何度も声に出して覚えた。今も覚えている。その子の顔も覚えている。

母がその子の家に連れて行ってくれて、私はすぐに場所を覚え、翌日に一緒に遊ぶことになった。母は、迷惑をかけるから家には上がらずに外で遊ぶことと、夕方4時には絶対に帰ることを約束させた。
私は、母に言われた通りに、ミ○○ちゃんと庭で遊んだけれど、時間が気になって仕方なかった。外では時間が分からない。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
けれども、暫くするとまた気になった。
「小母ちゃん、4時になった?」
「まだなってないよ」
どれくらいで4時になるのか分からない私は、気になって気になって、また訊いた。
「小母ちゃん、4時になった?」
「なってないて何回言えば分かるとね!!!」
私は小母ちゃんに怒鳴られ、怖くてすぐに帰宅した。

幼稚園に通い始めて、ミ○○ちゃんとはクラスも別で、その後一度も一緒に遊んだことはない。あの時に小母ちゃんに怒鳴られた声と表情、心に刻まれた恐怖は今も忘れることがない。

5歳の私は時計は読めたけれど、庭では時計は見えない。小学校2年生くらいになっていれば、「小母ちゃん、4時になったら教えてね」と言えただろうけれど、まだ幼稚園に通う前の5歳児の私には、そこまで気は回らなかった。
母も悪い。「4時になったら帰りなさい」って、5歳児がどうやったらそれができるというのか。ミ○○ちゃんの小母ちゃんだって、「そんなに気にせんでも、4時になったら教えてあげるよ」と言ってくれれば良かったのだ。

幼稚園は、スクールバスなどは無く市内バスで通わなければならなかった。定期券もしくは片道10円往復で20円の運賃を幼稚園カバンのポケットに入れて、一人で歩いてバス停に行き、他の園児と一緒にバスに乗って幼稚園に行き、帰りもまた市内バスに乗って、バス停からはまた一人で歩いて帰る。
母はしつけに厳しくて、小さな子供がよく座席に後ろ向きに乗って外の景色を見ているのを指して、座席を靴で汚すから絶対にしてはいけないと言った。だから、私は絶対にしなかった。けれど、当時の降車ボタンは大人に合わせた位置にあり、幼稚園児の私には、座席に膝をついて手を伸ばして押すしかなかった。ある日、そうやって降車ボタンを押そうと手を伸ばした途端、隣に座っていた見知らぬおじいさんに、いきなり無言でふくらはぎを強くつねられた。とても痛かったけれど、私は声も上げられずに、降車ボタンを押して慌ててバスを降りた。
見知らぬおじいさんに無言でふくらはぎをつねられたことは、帰宅しても母に言うことができなかった。きっと、母がしてはいけないと言っていたのに座席に後ろ向きに膝をついたから、おじいさんは罰として私をつねったのだと思った。でも、あまりにも理不尽。そうしなければ降車ボタンを押せなかったのに。

幼稚園の同じクラスに、家は少し離れていたけれど同じ町内の活発な女の子がいた。
実を言うと、私は可愛かったらしくて、男の子達が私を隣に居させたがったけれど、私にはその自覚もなく、大人しくて口数も少なかった。その活発な女の子は、登園すると貼ることになっている出席帳のシールを、翌日の分まで貼るように私に迫った。
「明日の分まで貼らないと、もう遊んであげない」
いつもは出席帳を見せろと言わない母が、その日に限って見せるように言った。翌日の分までシールが貼ってあるのを見て、母は火のように怒った。
「だって、そうしないともう遊ばないって言われたんだもん」
泣きじゃくりながら答える私に、母は火のように怒ったまま言った。
「そんな子とは遊ばんでいいと!!」
私は、母の事がとてもとても怖かった。
翌日の分までシールを貼ったのは良くない事だけれど、烈火のごとく叱りつけるほどの事ではない。大人になって、そう思った。相手は6歳の幼児。穏やかに言い聞かせれば済むことだったのにと。

母はその後もちょっとした事で頭ごなしに怒った。
小学2年生の頃、学校の先生から、いらなくなった色々な色のチョークをもらった。私は、父からもらった板切れにそのチョークで絵を描いて遊んだけれど、黒板消しが無かった。押し入れの中に、大きさも厚みも丁度良さそうな物があるのを知っていたので、それを一つ持って、台所で夕飯の支度をしている母に訊きに行った。
「これ、黒板消しに使っていい?」
母は、いきなり烈火のごとく怒った。
「あんた、何言よるとね!!!」
何年も後に知ったのだが、私が手にしていたのは生理用ナプキンだった。けれど、幼い私はそれを知らなかったのから、頭ごなしに怒鳴ることは無かったのにと思う。
母は、私が大人になっても、自分の意に沿わないと途端に声を荒らげた。

私は、祖母からも頭ごなしに怒られた。
幼稚園の頃、父方の祖母と住んでいた。祖母は手間仕事に赤ちゃんの子守を請け負っていた。可愛いクミちゃんという赤ちゃんが、ベビーパウダーの缶のふたの絵にそっくりだった。
「婆ちゃん、見て見て、クミちゃんにそっくりだよ」
祖母は返事さえしてくれず、私は、可愛いクミちゃんがベビーパウダーの絵にそっくりだと祖母に伝えたくて、ベビーパウダーをクミちゃんの顔に近づけた。けれど、私も5歳だったので力加減がくるい、缶がクミちゃんのほっぺに軽く触れてしまって、クミちゃんは火が付いたように泣き、祖母は私を怒鳴りつけた。
けれど、今思うに、私は何も悪くは無かったと思う。祖母が最初から私の声に耳を傾けて「あら、本当じゃね。そっくりじゃね」と言ってくれていたら、一緒に幸せに笑えるはずだった。

祖母は、実の孫なのに私に厳しかった。
ある日、母が彼岸の団子を作った。昔の事で、ご飯や団子は、ショウケという手提げの柄と蓋のある大きな竹籠に入れていたのだが、「はい、祖母ちゃん」と私が一つ祖母に渡して几帳面に蓋をしめた事が祖母の逆鱗に触れた。
「なんと意地の悪い子じゃ。1つしかくれんで蓋を閉めた」

小学生の頃までは一緒にバドミントンをして遊んでくれていた父も、ちょっとしたことで不機嫌になったから、いつ機嫌を悪くするか分からなくて、私はいつもビクビクした。

ある日、シャックリが全然止まらなくて、近くに居た父に「お父さん、シャックリが止まらないから、驚かせて」と頼んだ。
その途端に、父は「こらあ!!」と大声を上げた。
私は、自分が変な事を言ったので父が機嫌を悪くして本当に怒ったのだと思い、恐怖に縮み上がった。
「どうや。止まったじゃろが」
父は怒った振りをしただけだと分かって安堵し、シャックリも止まっていた。
学校が休みのある日、父と母は、浜に流れ着く薪を拾いに行っていた。風呂を沸かすのに薪を使っていたからだ。私は姉が買ってもらったステレオを聞こうとしたら、音が出なかった。
浜から帰ってきた父に「お父さん、ステレオの音が出ない」と言ったら、いきなり怒鳴られた。
「お父さんは疲れて帰ってきたばかりじゃろが!!!」

夕飯の時は、機嫌が悪くて一言の会話もない重苦しい夕飯が珍しくなかった。
学校の図書室で借りたお菓子作りの本を見て「バナナのパイ包み焼き」を作り、会社から帰宅して食卓に着いた父に出した。甘い物が好きな父は喜んでくれると思っていた。
「へねよな物は作らんでいい!!」
テーブルの上のお皿の上で、父に見向きもされず、ただ冷めていく「バナナのパイ包み焼き」。
父は、ただの一口も食べてはくれなかった。

私は大学を選ぶとき、父がお金にうるさいので、教育特別奨学金があって学費も安い国立大学教育学部を選ぶしかなかった。家からは遠く、アパートを借りる人もいたけれど、私は、古くて二人部屋で食事も自炊の、月6千円の安い女子寮に入るしかなかった。

私は幼い頃から洋服もスクール水着も中学の制服も姉のお下がりで、私服は殆ど持っていなかったし、授業で使う教科書やノート、食器や鍋、肌着から通学用の私服や靴、米や味噌や牛乳や肉や野菜や全ての食料品も自分で買いそろえなければならなかったのに、ひと月に4万円以上を通帳から引き出すと、父から頭ごなしに怒られた。4万円のうち3万7千円は奨学金なのに、帰省したりするたびに、父は、私がお金を使いすぎるとうるさく言った。
「荷物は風呂敷ひと包みあればいいと!!!」

両親が寮に電話してくることは殆ど無かったし、寮に来たのも数回だけだったけれど、私が帰省するたびに父から怒られるので、私は帰省したくなくなって、アルバイトばかりしていた。自宅通学の級友たちが遊んでいるのを見かけることもあり、アルバイトに明け暮れるしかなくて辛かったけれど、そうしなければ食費も十分にはなかった。
大学生協には安い定食もあったけれど、私にとっては高額だったので、殆ど利用しなかった。昼は寮に帰ってインスタント袋ラーメンを食べたし、夕ご飯も刻みキャベツにフイッシュバーグを1㎝幅くらいに切って3枚をフライパンで焼いてマヨネーズとケチャップを塗ったものをよく食べた。お金が無くなった時には、残っていた小麦粉と砂糖と卵で得意のホーットケーキを焼いて翌月までの1週間を食いつないだ。

「お金が無かったら、お父さんにそう言いよ。親に甘えるのも親孝行ってものよ」
寮の同室の先輩に、そう言われたけれど、それは叶わぬ夢だった。

父親というものは、娘を目に入れても痛くない程可愛がると、よく耳にする。けれど、少なくとも、父は私にそんな愛情は示してくれなかった。父にも母にも、私は甘やかされたことが無い。
私は勉強は出来たし、大人しくて従順で反抗期も無かったし、一体何が不満で両親は私に厳しかったのだろう。

私は、慣れない寮生活を始めて数か月で48㎏から43㎏にまで痩せたけれど、子供の頃から小食で標準より痩せていた為か、誰からも心配されなかった。その後は、ストレスからか、甘いものを我慢できなくなった。お徳用チョコレートや袋菓子など、途中で気持ち悪くなっても、目の前にあるものを全て食べてしまうまで、止めることが出来なかった。
無意識に左手で髪を引っ張って抜いてしまった。すぐにゴミ箱一杯抜いてしまったが、元から髪の量が多かったので、傍目には気付かれなかった。

女子寮ではアルバイト苦学生は私だけではなかったし、高額なアルバイト料が貰える家庭教師は英語と数学が苦手な私には無理だったし、女子寮や学生課にたくさんのアルバイト案内があったから、私は、日教組大会の書記、食品の店頭宣伝販売、蚤の市の販売員、デパートの食品フェアー販売員、食堂や喫茶店のウエイトレス、書店の雑用など、様々なアルバイトをした。真面目な仕事ぶりで手際も良かったので、アルバイト先には毎回気に入られ、一度アルバイトを受けると、二度目からは直接名指しで依頼があった。連休も夏休みも冬休みも春休みも、帰省せずに幾つものアルバイトを掛け持ちした。
女子寮に居たので、都合が悪くなった他の寮生のアルバイトの助っ人を頼まれることも多く、ビジネスホテルの客室清掃、公文式教室、日本料理店の皿洗いなどもした。毎晩書店で雑用のアルバイトをしていた時には、名指しで土日のデパートでの試食販売を頼まれ、仕方なく、試食販売のバイトを終えてパンをかじりながら自転車で書店に移動した。アルバイトのし過ぎで勉強できず、2回生に進級するときに3つ単位を落とした。

ある日、学生課に小学生の姉弟の住み込み家庭教師の募集があった。夢見がちな私は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に憧れて面接に行った。ご両親が不動産業と夜の仕事をしているために、夜に子供たちと一緒に居て勉強を見てくれる住み込み家庭教師が必要なようだった。
私は、父にお金の事を言われるのが嫌だった。朝夕二食付きでアルバイト料も貰える住み込み家庭教師なら、寮費も食費も助かるし、掛け持ちでアルバイトをする必要も無くなるし、父に文句を言われなくて済む。

けれど、3日目に朝起きて台所に行くと、子供たちのパンと飲み物はあったけれど、私の分は無く、私を見た奥さんは何も言わなかった。私の朝食はもう準備されないのだと知った。私は子供たちの勉強を見るのに色々工夫もしたし、お風呂にも入れたし、ある日夕食後に奥さんが忙しそうだったので食器洗いを申し出たら、それ以降、全員分の食器洗いを一人でするのが私の仕事になってしまったけれど、黙って頑張った。
夕食の準備も手伝ったし、「今日は私がグラタンを作ります」と言って、全員分のグラタンを作ったこともあったし、クリスマスにはケーキも手作りした。私は土日も自由にはならず、頼まれて子供たちを映画に連れて行ったこともある。
ある日、食事の準備が出来たのに、何かで忙しいらしく、1時間経っても夕飯にならなかった。私は試験前で時間が惜しかった。
「試験勉強があるので、先に夕飯を頂いては駄目ですか?」と訊きに行った。
「ここに住んじょる以上あんたも家族と同じじゃろが!! 一人だけ先に食べるとか、そんな勝手が許されると思うのか!! 勉強があるなら勉強しときなさい。後で呼びに行く」
私は頭ごなしに怒られて、涙が出そうになった。
けれど、ある日、風邪を引いたらしく熱で起き上がれず、夕飯の時間に階下に降りられずに布団で寝ていたら、奥さんが部屋の前に来て「何故降りてこんの?!」と言うので、「すみません、熱で食欲が無いから夕飯はいりません」と言ったら、「それならそうと先に言わんと分からんでしょう!!」とまたも頭ごなしに怒られ、少しの心配さえしてもらえなかった。

私は家庭教師として子供たちが意欲をもって勉強するよう色々工夫し、子供達は懐いてくれたけれど、本来仕事には含まれていない家事も担い、土日もほぼ外出できず、気を遣うばかりで、まるで明治大正時代の奉公人のようだった。
映画やドラマでは、他人であっても本当の家族のように思いやり、互いに深い絆が生まれていくけれど、所詮はフィクションなのだと私には思える。

女子寮でもちゃんと自分で朝ご飯を作って食べていたのに、朝食抜きが毎日当たり前となってしまい、大学の健康診断で私は初めて貧血と診断された。精神的にも追い込まれ、再び髪を引っ張って抜くようになっていた。ラジオで、それが自傷行為と呼ばれるものだと知った。無意識に引っ張って抜くので、自分では止めることが出来なかった。

心身ともに限界となり、半年ほどで住み込み家庭教師は止める決心をして、「自宅から電車で通うので来月一杯で止めたいと思います」と伝えた。
「もっと怖い大人の家庭教師を雇わないかんね」と言われた。
引っ越しの日、義理の兄がトラックで荷物を運んでくれたけれど、家庭教師先のご夫婦は起きて来ず、手伝いどころか挨拶も見送りも無く、最後の月のアルバイト料も貰えないままだった。

女子寮に居る頃はどんなバイト先でも雇い主からは気に入られたのに、なぜそんな扱いを受けなければならなかったのか、全く分からない。小銭が落ちていたって盗んだりしなかったし、朝ご飯が無くても文句も言わずに、最初の条件に無いことまで快く引き受けて、どんなことも一生懸命にやったのに、病気で寝込んでいる時さえも、その事を頭ごなしに叱られるような、そんな理由が全く分からない。

他人は仕方がないとしても、ただ一人の祖母(母型の祖父母は私が生まれた頃には亡くなっていて、父方の祖父も私が5歳の時に亡くなった)にも、冷たくされ、謂われ無く頭ごなしに叱られていた私。
私には背中と左手首の甲に傷跡があり、アイロンの火傷痕と教えられた手首の半月型の変色は、成人しても濃くくっきりと人目を引いて、同僚や生徒に、それは何?と訊かれることもあった。もしかしたら幼い頃に虐待があったのではないかと思う。
今でも思う。無邪気に両親や祖母に甘えて、抱きしめてもらいたかったと。

大学の卒業式を前にして、私は「来なくてもいいよ」と電話した。父は血圧が高く、女子寮に両親が訪れた帰りに父が倒れた事もあり、私は父の健康を気遣って遠慮したのだ。
来て欲しくなかったわけではない。けれど、両親は本当に私の大学卒業式に来なかった。

私は晴れ着も無く、自分で縫ったチャコールグレイのテーラードスーツを着たけれど、他の学生達は、振袖や袴の晴れ着で着飾り、両親と一緒に記念写真を撮ったりしていた。私にとって、卒業式は晴れの日でも何でもなかった。

今思えば、若い大学時代にはもっと青春を謳歌すべきだったと思う。けれど、私に出来たのは、毎日を必死に藻掻きながら、どうにか生きていくことだけだった。
いつも、どこか遠い所に行ってしまいたかった。死を夢想して詩を書き綴り、風のように自由になることを夢見た。
詩を書くことをしなかったら、心は行き場を失い、本当に死んでしまったかもしれなかった。

ファミリーヒストリー12020/08/15

お盆のお膳
今日はお盆で終戦記念日なので、父の生い立ちについて書こうと思う。

父は、私が子供の頃、昔の話をよくしていた。説教臭い話し方だったので、私はあまり好きはなかったのだが、父自身が幼い頃から苦労したらしいことは、当時小学生だった私にも分かった。

父の口癖は、「定年退職したら自伝を書く」だった。自伝に書いて残したい事がたくさんあるようだった。けれど、53歳で早期退職した後、父は一向に自伝を書く気配はなく、私のお古のワープロを上げたけれど、少し練習しただけだった。
父は、自伝を書くとあれほど言っていたのに、ついに自伝を書くことなく、80歳でこの世を去った。なので、私が代わりに書こうと思う。書付などは全くないので、私の記憶だけが頼りだが、父から聞いた話は、ほぼ覚えている。

私が生まれた頃には、既に母方の祖父母は亡くなっていた。
父方の祖父母は存命だったが、私が5歳の時に祖父は亡くなった。祖父が亡くなる前に2回会った記憶がある。頭は丸刈りで、優しい目をした祖父だった。
葬儀の後、私達家族は住んでいたアパートを引き払い、一人になった祖母と約1年間一緒に住んだ。けれど、父と祖母は折り合いが悪く、孫である私にも、祖母は辛く当たった。たった5歳か6歳の悪気も何もない子供に。

祖母は、次男である父よりも長男を頼りにし、他県に就職した三男と一緒に住みたがった。それで、私が小学校に入学する直前、私達家族は祖母の家を出たのだ。
祖父が亡くなって早朝に起こされた時からの祖母の家での約1年間を、私は詳細に覚えている。それについては、またの機会に書くと思う。

祖母と折り合いが悪いのに、何故父は、実家に戻ったのか。
もちろん、仲が悪くても、息子にとって母親はやはり大事な存在だったのだろう。
それに、父は実家について、あの家はお父さんが建てたのだと、よく話していた。空襲で焼け出された後に、父が自らお金を出し、自ら壁を塗って建てた、兄も弟も何もしていないと。

父の実家は、農家でも商家でもましてや武家でもなく、おそらくは小作だったのだろうと思う。自宅敷地内に小学校低学年用プールくらいの広さの畑があり、他に、1㎞弱離れた所にもテニスコートくらいの広さの畑があった。
玄関わきの6畳ほどの土間で、醤油などを売ったりもしたらしいが、祖父は専売公社に勤めていた。今の日本たばこ産業だ。

祖父の父親、つまり私から言えば曽祖父になるが、実家に子どもが居なかったために、よその土地から養子に入ったという。けれど、昔の事で手続きとかきちんとされなかったようで、養子に入る前の生家の名字をそのまま名乗ったため、元々の実家の名字ではなく、曽祖父の実家の名字が今に受け継がれている。

曽祖父の名前は知らないが、祖父の名前は金〇郎という。名前に金が付くのは、子供が将来経済的に困らないようにと言う親の願いらしいから、曽祖父は、子供を愛する良き父親だったのだろう。
けれど、曽祖父は、1904年に始まる日露戦争に出征してしまう。出征直前に撮ったと思われるセピア色に褪せた写真を、私は幼い頃に祖母の家で見た記憶がある。軍服姿に鉄砲を持った曽祖父と少年の祖父の写真だ。祖父の軍服らしい姿の写真もあったから、もしかしたら、祖父自身も日中戦争に行ったかもしれない。

日露戦争に行った曽祖父は戦死した。その知らせに、祖父は家の中で転げまわって泣いたのだと父から聞いた。
そして、生活は極貧となった。

祖父が年頃となって結婚をしたが、当時は珍しくもなかった結婚式当日に初めて花婿花嫁が顔を合わせるというパターン。結婚式は現代のような式場ではもちろんなくて、実家で行われたのだが、結婚式が終わったとたんに、襖(ふすま)も障子も全部取り外されて無くなったという。襖も障子も、近所や親せきからの借り物だったのだ。それくらい生活に困窮していた。

そんな家に知らずに嫁いできた祖母の驚きや落胆、苦労は計り知れないが、そんな家に生まれた父もまた苦労を強いられた。

父を含めて子供が7人。当時としては子沢山な方ではない(母方は13人と聞いたので)と思うが、祖母は、幼い弟や妹は空腹を我慢できないからと、年長の子供には薄いお粥しか与えなかったらしい。薄いお粥を食べ、習字の練習に使った新聞紙に梅干し1つ入れた握り飯を包んで弁当にした。
けれど、育ち盛りの父には、薄いお粥の朝食では我慢が出来ず、尋常小学校に行くとすぐに、墨で真っ黒になった握り飯を食べてしまったのだという。もう昼ご飯はない。父はよく山学校に行ったそうだ。今でいうサボリだが、腕力に恵まれていた父は、時には他の裕福な家の生徒から弁当をせしめることもあったらしく、ガキ大将的位置にあったのかもしれない。
父は走るのは早かったそうだが、徒競走で走るのが面倒で(空腹だったからかもしれない)他の生徒に「お前、代わりに走れ」と押し付けたりもしたらしい。

父は勉強が良くできて、特に国衙が得意だったらしい。私が小学校低学年の頃、「読み声カード」と言って国語の本を音読して親から丸印をもらう宿題があったのだが、私が読んだ後、よくお手本だと言って父が読むのを聞かされた。きっと、父は向学心があったと思う。
けれど、家が貧しかったから、自分より勉強のできない生徒たちが尋常小学校卒業後に旧制中学校などに進学するのに、父は諦めるしかなかった。

父は、東京芝浦電気に就職した。つまり、今の東芝のことか。
東芝の寮で、父は好男子として有名で、当時の写真は無いが、後の22歳頃の写真を見ると、欲目ではなく石原裕次郎よりずっとハンサムだ。父は高齢になっても端正な容貌だった。時代が違えば、映画俳優やジャニーズのようなアイドル歌手にだってなれたかもしれないが、父はしがない工員で、実家に仕送りをせねばならなかった。

そして、太平洋戦争が勃発する。
父は、1945年3月10日の東京大空襲を生き延びた。焼け野原となった街の中を、黒焦げになった死体や、川べりに折り重なった死体に恐怖しながら逃げ延びたのだという。満16歳だった。
そして、同年6月29日、東京で焼け出されて帰郷した父は、郷里で再び大空襲に遭う。

父は16歳だったが、祖父は人が良くて度々騙される人で、だから次男である父が、家を守らなければと必死になったらしかった。
ただ、哀しいかな、そんな父の想いは家族には伝わらなかったらしく、気難しいと疎まれたようだった。
ただ、父の兄弟の中で、唯一父だけが祖父の名前に似ている。祖父は、父が生まれた時から何か特別な思いを持っていたのではないかという気がする。

そののち、父は自力で夜間高校に行き、今や世界的になっている日本有数のA会社に就職した。
夜間高校と聞いたとき、幼かった私は、お湯を沸かすヤカンしか思いつけず、何のことか分からなかったのだが、父は幼い子供に分かるように噛み砕いて話す人ではなく、私もまた、父の話の途中で口をはさむなんて出来なかった。

ちなみに、父は会社でのポストは平に近いままだった。その理由等々父の話はまだ続きがあるが、ひとまずはここまで。

故郷の海岸を守りたい2020/08/04

子供の頃に砂浜で拾った貝殻
アカウミガメの産卵地になっている宮崎県日南市の海岸で、市の保護施設でふ化したカメの赤ちゃんが8月4日朝、海に放流された、というニュースを見た。
今シーズンは、これまでにおよそ4800個の卵が保護され、4日朝、このうちの40個がふ化しているのが確認されたという。

私が生まれ育った町の砂浜でも、毎年アカウミガメが産卵し、ふ化したカメの赤ちゃんが海に帰っていくのを見たこともある。
私の両親は、私が生まれた後も何度も引っ越しをしたのだが、ずっと海岸のすぐそばだった。遊泳禁止の海だったから泳ぎはしなかったけれど、砂浜と松林は、幼い頃から高校時代まで、ずっと私の遊び場であり、唯一の居場所でもあったと思う。

波打ち際は砂が濡れて引き締まるので歩きやすいが、松林を出て波打ち際まで、砂丘を2つも超えて歩くのは、けっこう大変だった。草履の下で乾いた熱い砂がずれるので、一足ごとにバランスを保たなければならない。夏の砂浜は火傷しそうなくらい熱かった。歩きやすい波打ち際に早く行きたくて、私は砂浜を草履履きで走った。

私が小学校低学年の短い間だったが、父が犬を飼っていたことがあり、夕方には犬を連れて家族で浜に行った。私は犬と一緒に浜で走り回った。
当時は薪を燃やしてお風呂を沸かしていたので、夕方には毎日のように、浜辺に流れ着いた焚き物を拾いに行っていた。ごく細い枝や木の皮が集まった物は、ガランコと呼んで焚き付けにしていた。大きな焚き物は父や母が運んだが、幼い私はガランコをたくさん集めて運んだ。

私は運動音痴で(今から思うと、たぶん自閉症のせいで脳と体がうまく繋がっておらずに、思うように体を動かせなかったのだと思うが)、ボールを投げてもヒョロヒョロで、走るとビリだったのだが、クラスで一番の俊足の女子に勝ってテープを切ったことが一度だけある。学年末のお別れ遠足は毎年、浜で行われて、宝探しをしたり、ビーチバレーをしたりするのだが、その年は砂浜での徒競走だった。当然のことながら砂に足を取られて上手く走れない。でも、砂浜で毎日のように走り回っていた私の足は慣れていたから、よろめきもせずに一番でゴールしたのだ。その俊足の女子も、私同様に浜育ちだったのだが、友達も多く、スポーツ万能だったから、私のように砂浜で一人走り回ったりはしなかったのだろう。

中学や高校になると、家族で浜に行くことはなかったが、友達の少なかった私は、学校から帰宅して夕方になると、毎日のように松林と砂浜に一人で遊びに行った。日曜日や春休みや夏休み、冬休みさえ、時間があると松林と浜に行った。
松林は、大きく育った松の木の間隔が広く、苗木が植林されずにいたので、木漏れ日のさす下には黒松以外の様々な木や草花が育っていて、私はそれらを発見するのが楽しくて、松林の中をずっと遠くまで散策した。獣道のような細い道も全て把握し、どこに何の木が生え、どんな花が咲いているか、自分の庭のように把握していた。
波打ち際では、歌を歌って貝殻を拾いながら、南は潮汲み場といわれる施設がある所まで、北は干潮時には砂浜で陸続きとなることもある河口まで、歩いた。

今の時代では信じられないかもしれないが、女の子が一人で松林や砂浜に行っても、危険だとは思われていなかった。

小学校4年生の夏休み直前、水泳大会のあった日の夜、私は40度の高熱を出し、受け入れてくれる病院が一つもなく、唯一受け入れてくれたN医院という小さい医院に入院した。肺炎と言われたが、今のような良い薬はなく、点滴をした覚えもない。病室の窓から見える向かいの家の屋上に、柱サボテンが植えられていて、黄色い花が咲いていたのを覚えている。
2週間の入院中に2つの台風が直撃した。台風後、肺炎はあまり改善せず微熱が続いていたが、学校は夏休み中なので自宅療養することになり、退院した。

そして、数日後に浜に行き、愕然とした。2つの台風の直撃を受けたせいなのか、松林の縁から波打ち際がすぐそこに見渡せるほどに狭くなっていたのだ。
まるで鳥取砂丘のように広がっていた砂浜、砂の丘をいくつも超えないと波打ち際に辿り着けなかった砂浜、潮が引くと、砂丘と砂丘の間に潮だまりの川が2つも出来るほどの広さで、浪打ち際までの距離が遥か遠くだったのに、三分の一以下に短くなっていた。

その後、松林と砂浜の間に防波堤が築かれ、波消しのテトラポットが並べられ、私が高校生の頃には、以前通りとは言えなくても、少しは砂浜が復活し、高齢者達がゲートボールをしたり、若者達がサーフィンをしたりしていた。

大学生になった私は自宅を離れ、その後両親も、結婚した姉の家がある里山近くに引っ越したので、私が再び故郷の海岸を訪れる機会は無くなった。

昨年、父の墓参りをした際、ちょっとだけ浜に行ってみることにした。何十年も離れ、その町の住人ではなくなった私は、松林に足を踏み入れる事さえも、何か悪いことをしているような気持ちになってしまったのだが、松林を抜けた途端、私は愕然とした。松林の端にある防波堤のすぐ下が、荒波打ち寄せる海だったのだ。
砂浜は全く無かった。

昔は、松林を抜けると、枕の実にするハマゴウ(両親はボウレンと呼んでいた)が群生していた。そこを抜けると一段高い砂浜で、アカウミガメの卵の保護のため、波打ち際から卵を移して囲いを作っていたのもそこだった。そこから緩やかに下って広い砂浜が広がっていたのだ。
ふ化したカメの赤ちゃんが海に帰っていくのを見たあの砂浜。
サクラガイやヒオウギや綺麗な貝殻を拾って歩いたあの砂浜。
それらは、もうどこにもなかった。
幻のように消え去っていた。

私は強いショックを受けた。ダムが幾つも出来たせいで、河口に砂が流れ込まず、海岸に砂が堆積しなくなったのか。そうだとしたら、治水のために止むを得ない事なのか。

けれど、今年になって、そうではないことを知った。
事業者が毎年多量の土砂採取をし、それによって県は利益を得ているという。
県によると、土砂採取の申請があれば、法的に問題が無ければ許可せざるを得ない、のだという。
昨年10月の台風では、高波が松林の中に30mも侵入したらしい。

松林を含む海岸は、住民にとって大切なもののはずだ。昔から普通にそこに在った松林や砂浜と一緒に生活し、成長してきたのだ。アカウミガメも昔から保護されてきた。
地域の住民にとっての浜は、熊本県民にとっての熊本城、沖縄県民にとっての首里城にも等しいほどの大切なもの。
精神的に大切なだけではない。台風や津波から命や財産を守ってくれるものでもある。

そんな大切な存在を、なぜ県はないがしろにするのか。
法的に問題がなければ許可するって、法的に問題がないはずは無い。地域住民の安全を脅かしているのだから。
それに、山からの土砂採取なら山の持ち主が許可すれば仕方ない面もあるかもしれないが、砂浜は県の持ち物ではない。それを勝手に売って収入を得ているなんて、信じられない。自分の住む県が、そんなことをする県だったなんて。
「海岸の浸食と土砂採取の因果関係が明確でない」などと寝言を言う県だったなんて。

私の故郷の海岸は、危機に直面している。長く離れている私でさえ大きなショックを受けたあの痛ましい海岸。
実は日本全国で同じようなことが起きているらしい。

コロナは大変だけれど、きっといつかは終息するに違いない。有効な治療法が確立され、ワクチンや新薬が開発されるはず。世界中が必死になっているから。
失われた命は戻らないけれど、数年か十数年か先には、きっと、今の大変な状況よりは改善しているに違いない。

けれど、日々浸食されて削り取られて無くなっていく海岸線は、大多数の人が気にも留めないままだ。
そして今日も国土は狭くなり、地域住民の生活は脅かされ、海の生態系をも脅かしている。
県には、土砂採掘を許可するなんて止めて欲しい。
私が子供の頃にあった豊かな海岸環境を、どうか取り戻してほしい。

郷愁の為ではなく、人為的に破壊された自然は、そのままで良いはずはないのだから。

そして父は竜になった2020/07/22

竜神様のジグソーパズル
最近、急に猛暑日が増え、昨日も今日も、農作業中の高齢者が熱中症で亡くなったニュースを見た。とても悲しく辛くなる。
昨日まで元気にしていた高齢者が、突然に熱中症で亡くなる。防ぎようは無かったのかと。

高齢者は、暑さ寒さを感じにくくなり、たとえ暑いと感じても、取るべき行動の判断が出来なかったりする。エアコンがあってもつけずに熱中症で亡くなるのは、暑いことが分からなかったり、暑いと思ってもエアコンを付けるという考えに至らなかったりする場合もある。高温の農業用ハウスや日中の畑で亡くなるのは、暑いと思わないか、思ったとしても「これくらいは大丈夫」と思ってしまうのかもしれない。
どうか、高齢者の家族や近所に住む方は、見守り、助けてあげて欲しい。
高齢者本人が、たとえ「大丈夫だ」と言ったとしても。

私の父も、熱中症で倒れたことがある。
たまたま実家に帰っていた日で、父はいつも夕食前の夕方に入浴していたのだが、浴室で声がして、駆け付けてみると、父は浴室と脱衣所の間で倒れていた。
その時、直ちには熱中症とは判断できなかった。頭を打っているかもしれないし、父は狭心症で手術して通院もしていたし、祖父は私が5歳の頃に脳出血により69歳で他界している。すぐに動かすのは危険だった。
裸の父にバスタオルを掛け、呼びかけると、返事はできた。頭は打っていないと答え、呂律が回らない等の症状はなく、強い頭痛や胸の痛みなども無いようだった。
父はかなりの長風呂だった。熱中症だと思った。
氷水を作り、飲ませた。頭の下にバスタオルを重ねて枕にし、脇の下と足の裏も冷たいタオルで冷やすと、父は気持ちがいいと言った。うちわで風を送りながら、しばらくはその場所で様子を見た。
居間に冷房を付け、父が自分で体を動かせるようになって、肩を貸して居間で休ませた。
父は大丈夫だった。たまたま私が居る時で本当に良かったと思った。

私は中学生以降、父から様々な仕打ちを受けた。実の娘であるのに、敵であるかのように。
私が教員になって15年程経った頃、精神的に追い込まれて心療内科に通って休職することになり、さらに、当時住んでいたアパートの前の住人にストーカー行為をしていた男が、住人が変わったのに私にストーカー行為をし、仕方なくアパートを引き払って一時的に実家に身を寄せることになった時でさえ、父は、私に容赦がなかった。
けれど、私は父を許した。
子供の頃からの辛く悲しかった記憶は1ミリも薄れはしなかったが、高齢の父を恨み続けても、気持ちが楽になるわけではない。

父は、初めてではないかと思うが、私にありがとうと言った。
「あんたが居てくれて良かった」と。

父は、その後、私に対して急に態度を軟化させる、ということは無かったが、何かしてあげると、「ありがとう」を繰り返すようになった。
母には、次は私がいつ実家に帰ってくるかと、しきりに聞いていたという。私は2週おきくらいには帰っていた。

そして、父は、その1年後くらいに狭心症で亡くなった。
私は死に目に会えなかった。
もし、あの時、父が熱中症で倒れた時のように実家に居たら、心肺蘇生法をやれたのに。近所の歯科医に、すぐにAED(自動体外式除細動器)を持ってきて、と叫ぶことができたのに。(私は何度も研修を受け、生徒にも教えていた)
病院で、もう動かない冷たくなった父に一人再会した時、私はベッドにすがって泣いた。
家族皆で「百歳まで生きるよね」と言うほどに元気そうで、急に死ぬなんて、心の準備が全くできていなかったから。

父は、内心はきっと私を愛さないわけではなかったと思う。ただ素直に表現できなかったのだろう。姉に対しては出来たことを、なぜ私に対しては出来なかったのか、それは永遠に分からない。
けれど、辰年生まれの父は、きっと竜神様になって、私を守ってくれている。

写真の竜神様のジグソーパズルは、家を新築した数年後に量販店で見つけ、父のために買ったものだ。
私は、両親の認知症予防に役立つだろうと、両親が60代の頃からジグソーパズルをプレゼントしていた。始めは小さくて比較的簡単なものから、次第に大きな物へ。両親が好きそうな、富士山や桜の風景など。
両親はすっかり夢中になって、寸暇を惜しんで二人で、あっという間に完成させるようになったが、竜神様のジグソーパズルを完成させた後、父は、パズルをするのに疲れるようになったから、もう買ってこなくていいと言った。

父が亡くなって母と二人で毎朝毎夕仏壇に線香を上げる時、毎日色々と父に話しかけた。
「お父さん、明日、野外研修で○○に行くんだけど、天気予報は雨でね、お父さん、何とか雨降らないようにお願いします」
当日、天気予報は変わらずに雨だったのだが、雨は全く降らなかった。
その後も、雨が降ると都合が悪い時に仏壇で父に話すと、天気予報が雨でも、必ず天気に恵まれた。
「お父さん、台風がこっちに向かってきてるから、蹴飛ばして守ってね」
私の住む地域は、毎年台風が直撃し、竜巻で大きな被害を受けたこともあるのだが、父が亡くなって以来、一度も直撃が無い。まっすぐこちらに向かっていた台風が、直前で急にコースを曲げて直撃を免れたことが何度もある。10年間、本当に一度も直撃を受けていない。

だから、私は信じているのだ。父は竜神様になったと。
竜神様と言うのが言い過ぎなら、そのお使い?

父が亡くなったこの家に、一人きりで住んでいても、きっと父が見守ってくれていると思うから、怖くはない。

お父さん、お母さんのことも見守ってね。
私はコロナで会いに行けないけれど、お父さんなら会いに行けるよね。

亡き父に線香を上げ認知症の母を想う2020/07/22

父への献花(造花)
今朝、仏壇に線香を上げていて、ふと思い出したことがある。

季節は今より少し前の、5月か6月の、父の月命日の頃だったと思う。

母には軽い認知症の症状は見られたが、認知症に対してやや知識のある私でなければ気付かない程度のものだった。

私はその頃、市の教育委員会からの依頼で、産休代替で高等学校の講師をしていた。父の月命日が近かったから、私の休日に車で墓参りに行く話をしていた。
父の墓は、車でも10分以上、自転車で20分ほどの場所だった。

仕事を終えて帰宅すると、疲れ果てた母が居た。
押し車を押して歩いて墓参りに行ったのだと言う。
母は、まだ腰は曲がっていなかったし、ちょうど一年前に手術した膝も痛がってはいなかった。
70歳直前まで愛用していた自転車は、引っ越しを機に、もう怖いからと処分していた。
「えー、車で一緒に行こうって言ってたのに」
「うん、そうだけど、影って暑くなかったし」
たぶん母は、休日の私の時間を潰したくないと思ったのだろう。高齢者らしい余計な遠慮をしたのだ。
「でも、歩いたら1時間以上かかったでしょう?」
「うん、かかった」
「押し車を押してあの距離を歩くなんて、疲れて当たり前よ。もう絶対に一人で行ったらだめよぉ」
「うん、もう行かん」
母は、さすがに堪えたらしかった。

普通の判断力があれば、山育ちや農家で日頃から足腰を鍛えているならともかく、散歩や週に2度のスイミング程度の運動しかしていない高齢者が、夏に押し車を押して歩ける距離ではないと分かるはずだった。それだけ、判断力が衰えていたのだ。
けれど、途中で倒れることもなく、往復3時間以上を、よくも自力で行って帰ってこられたものだと思った。
途中で苦しくなり、後悔したに違いない。けれど、ここまで来たら後少し、そう思って、引き返さずに墓地まで行ったのだろう。帰りのことまで考えられずに。行けば、同じ距離を帰らねばならないのだ。しかも、行きの行程と墓の掃除で疲れ果てた状態で。それを為し終えた母の精神力は脅威に値すると思う。
あるいは、初期とは言え認知症により後先が予見できないために、ただ夢中で歩くことができたのだろうか。

父が亡くなった当初は、母はしっかりしていたと思う。けれど、私が実家に引っ越してふた月ほどは、夜に一人で寝るのを怖がり、2階の和室で母と枕を並べて寝た。
私がまだ幼い頃、父が出張で数日家を空けると、母は決まって夜に金縛りになったと昔聞いた。母は、一人暮らしの経験が全く無く、口では父を嫌っていたが、精神的には父に依存していたと思う。

私が母の認知症の兆候に気付いたのは、引っ越しで持ち帰った自分の台所用品を、新築後5年ほどの実家の収納庫に片づけていた時の事だ。調味料や乾物や台所用品など、同じ物があちこちにあった。使用半ばで忘れられたままの物もあった。認知症が始まりかけていると思った。

決定的になった出来事は、ある日、私が近所のドラッグストアに買い物に行ってくると言ったときの事だった。ヘアクリームを買ってきて欲しいと母が言う。
しばらく前にも買っていたので、そんなに早く無くなるはずはないと思い、浴室脱衣場の洗面台を確認してみた。私自身は、2階にある洗面台を使っていたので、浴室脱衣場の洗面台は殆ど使わず、その物入れを開けてみることはあまりなかった。
ヘアクリームは、確かにもう量が少なくなっていたが、ピンク色のヘアスプレーがあった。女性用の、髪形を柔らかいカールに整えるヘアスプレーだ。
てっきり、母が自分のために購入して忘れているのだと思った。
「お母さん、このヘアスプレーは?」
「それは、お父さんに買うてきたとよ」
「これ、女性用だよ?」
「でも、お父さん、毎朝使いよったよ」
私はそれ以上聞き返すことが出来なかった。
ピンクのヘアスプレーを元の場所に仕舞いながら、私は涙をこらえることが出来なかった。

母も以前は、ちゃんと男性用のヘアスプレーを父に買っていた。

父には、亡くなる5,6年年前から既に軽い認知症の症状があった。以前の家では柑橘系の果樹を何本も栽培して沢山の実を成らせていたのに、新築した家の裏庭の砂利の中に甘夏の苗木を植え、肥料も腐葉土も施さず、そのままだった。右と左が分からなくなり、車の運転中に、右よ、と言っても左に曲がったという。死ぬまで、お金には細かかったが。

母も、周囲も本人も自覚しなくても、既に父が居た頃から認知症が始まっていたのだ。だから、父に、若い女性用のピンク色のヘアスプレーを買ってきた。
そして、父は、それが若い女性用とも分からずに、毎朝ピンク色の女性用ヘアスプレーを使ってシルバーグレイの髪を整えていたのだ。女性用だと気付いたなら、短気な父が、「こんな物が使えるか!」と母を叱責しないわけは無かったから。
父は、若い頃からハンサムでオシャレで、高齢になってもダンディだった。毎朝、鏡の前に長い時間立ち、足腰が弱ってからは椅子に腰かけて、身だしなみを整えるのに余念がなかった。

そんな父と母の様子が目に浮かび、涙を堪えきれなかった。

父に疎まれていたとは言え、私がもっと早く気付いてあげたかった。
そうすれば、ちゃんと男性用化粧品を買ってあげられたのに。

私は、涙を拭き、それ以上は母に何も言わずに、新しいヘアクリームを買った。
もう9年も前の事だ。

今月の父の月命日は過ぎたが、もうしばらくするとお盆が来る。
コロナ感染再拡大で、一時期解除されたグループホームの面会も、再び禁止になった。