小説家の才能2020/07/16

パソコンによる自作カバーイラスト(左)と、出版会社のデザイナーの名前によるカバー(右)
昨夜、芥川賞と直木賞のニュースを見た。
きっと、多くの方が、受賞作を読みたいと、関心を持ってニュースを見たことと思う。

私には、一方的にだが、苦い(と言うのも変だが)記憶がある。

2003年下半期の発表の後、新聞の見開き全面の「小説は、1にも2にも才能で、努力なんて関係ない」という見出しが私の目に飛び込んできた。それは、瀬戸内寂聴先生と、最年少記録で芥川賞を受賞された方(名前はあえて書かない)との対談だった。
瀬戸内寂聴先生の言葉はこうだった。
「小説は1にも2にも才能で、努力なんて関係ない。あなたが非常に若くして賞を取ったのも、あなたに才能があったから」

たぶん、誰もが、「そんなの当たり前」と思って、気にも留めないだろう。
けれど、私は打ちのめされた。
ああ、そうなんだ。凡人がどんなに頑張っても無駄なんだ。だって、瀬戸内寂聴先生がおっしゃるのだから。

私は、中学生の頃からノートに小説を書いていた。村岡花子先生訳「赤毛のアン」シリーズを全部読み、いつかモンゴメリのように小説家となり、ギルバートのような人(モンゴメリ自身の結婚相手は牧師だったと思うけれど)と結婚し、たくさんの子供たちと幸せに暮らすのが夢だった。どうすれば小説家になれるか当時は情報も無く、ただひたすらノートに書いていた。
しばらく後に、ノートではダメで、練習であっても原稿用紙でなければならないと知り、原稿用紙を多量に買った。立原えりか先生の童話の後書に書かれていたと思う。

読み返すたびに書き直す私は、原稿用紙は書き直しだらけで読めなくなり、何度も1から書き直さなければならず、漸く家庭用のワープロが使える程度になった時、ボーナスをはたいて買った。なにしろ、それ以前のワープロは、ディスプレイが3行程度しか表示できなかった。

仕事が休みの日、ひたすらワープロに向かった。
けれど、ワープロで1文書に保存できる容量は限られており、いくつにも分けて保存しなければならなかった。ようやく家庭用カラーノートパソコンが発売されたが、100万円以上して、仕方なく最新のワープロに買い替えた。それでも、十分ではなかった。
ようやくパソコンに買い替え、ワープロ原稿も投稿が認められるようになり、短編や長編を投稿したが、全て没だった。

それでも、努力はいつか実るかもしれないと思っていた。
そんな前向きな気持ちが、打ち砕かれた瞬間だった。
しばらくは何も書けなくなった。

たとえ才能が無くても、何倍もの努力で頑張る!
私は再び書き始めた。
賞を取るだけが道ではないと、私はあらゆる可能性を模索した。
共同出版という形で、出版できることになった。
編集者は、私の文章が難解だと指摘した。その指摘を受けることは分かっていたが、万人向けではないと分かっていても、平易な文体にして作品世界のイメージを崩したくなかった。

大変な苦労の末、出版はされたが、私には大きな不満が残った。

1. カバー表紙は私がパソコンで作ってデータ送信したものを元にしたにも関わらず、出版会社のデザイナーの作になっていたこと。

2. 何の相談もなく、帯に「スペースオペラ」と書かれてしまったこと。読めば分かるがスペースオペラではない。おそらく、宇宙が舞台となるファンタジーだからと、安易にスペースオペラと書いたのだろうが、そもそもスペースオペラとは、昼ドラを、石鹸会社がスポンサーであることが多かった為にソープオペラ、西部劇をホースオペラと呼び、馬が宇宙船に変わっただけとの揶揄を込めて呼んだものだ。出版界にいて、そんなことも知らないとは。

3. 契約や打ち合わせにあたっては、会社が旅費を出して会社にて行うと文書には書かれていたが、初めて電話があった時、震える声でその事を尋ねると、「自分は契約担当だから、編集担当者からまた話がある」との答え。しかし、ついに一度も誰とも顔を合わせることは無かった。私が地方に住む為に、軽んじられたのだ。

4. 初めての出版であるというのに、校正に対する厳しい要求があり、校正の記入の仕方が悪い、見にくい、遅いと散々に言われ、「〇日までに郵送して下さい」とあるのでその通りにすると、「〇日までというのは〇日必着と言う意味だ。後のスケジュールが押して困るのはあなた自身だ」とのメール。向こうが郵送して私に届くまででも2日程かかるのに、それでは私は、300頁もの原稿の校正に3日もかけられないことになる。そもそも、後から校正でいくらでも直せるからとせかされ、不本意な原稿のままゲラ刷りに出したのに。

5. 最終的に製本されたものには、結局4か所の重大な校正ミスがあった。所詮は素人相手で、それなりにしか仕事をしてもらえなかったのかと思う。

私は悔しかったが、どうしようもなかった。せめて次の為にと、文部科学省認定社会通信教育「公正実務講座」を受講した。二度と屈辱的な扱いを受けることのないように。

教材が届いた数日後、父が急死した。
一人になった母を助ける為、私は実家に戻り、通夜や葬儀などを終えてから、アパートを引き払って実家に引っ越した。
私は鬱になった。中学生の頃から父に疎まれることの多かった私は、死に目に会えなかったことで、胸に大きなしこりが残った。既定の半年では講座を終えられる見込みがなく、3ヶ月の延長を申請し、死に物狂いで講座を終えた。

中学時代の同級生が、私の才能(有るか無いかは別として)を役立てたいというので、同窓会ホームページに、元同級生達を主人公や敵役脇役にしたライトノベルを連載した。ギャグ満載のライトノベルは初めてだったが、あふれ出る言葉を驚異的スピードで紡ぎだし、好評だった。
連載終了後は、別の元同級生に頼まれ、別の筆名で、ライトノベルではない不思議物語を連載した。ランキングではいつも上位になっていると元同級生には言われた。

母の認知症を見過ごせなくなってきた頃、東日本大震災が起きた。
私はニュース映像でしか見ていない。それでも、書けなくなった。書きたいと強く願う内容はいくつもあり、気持ちもあった。けれど書こうとしても、真実に程遠い絵空事に思えて、書き綴ることが出来なかった。
そして、母の認知症が重くなり、壮絶な介護生活が始まった。
家族介護者の中には、介護の実態をブログや書籍で公開している例も多いようだ。私にはそんな余裕は無かった。介護だけで精一杯だった。月に一度もパソコンを開けなかった。

今もTVで震災の映像が流れると、私は涙がこぼれ、正視できない。自分が体験したわけでもないのに。

全て言い訳にしかならない。

実際に候補となりながら落選した方々の悔しさは、私には推し量ることもできない。
皆きっと、命を削って書いているから。
報われるのは、一握りの才能の持ち主だけ。

それでも、この受賞者発表の時期になると、私には苦い記憶が蘇る。
多くの人は時間と共に記憶が薄れゆくのだろうと思うが、自閉症ゆえに、私の記憶は少しも薄れない。記憶と共に、その時の想いも全て。