不運多過ぎ人生2020/12/25

幸運な人、不運な人っているのだろうか。
幸運も不運も本人の捉え方次第と言う人もいるようだ。
幸運と捉えれば未来が開けるし、不運と捉えればそこまでと。
「人生万事西欧が馬」ってことわざもある。

でも、やっぱり私は、ちょっと不運多過ぎじゃないかって思ってしまう。

生まれた時、仮死状態だった。お腹の中に2週間も長くいて、臍帯つまりへその緒が首にグルグルと2回巻き付いていて、足をもって逆さにして背中をバンバン叩いて、初めて産声を上げたのだと、幼い頃、笑い話のようにして聞かされた。

私が生まれて1週間後くらいに、4歳半ほど年上の姉が父に連れられて初めて面会に来たそうだが、父がふと気付くと、生後間もない赤ちゃんの私が、口をモグモグさせていたという。なんと、姉が、自分が持っていた飴玉を、生後間もない私の口に入れたのだと分かり、慌てて取り出したという。姉は可愛い妹に美味しい飴玉を食べさせようとしただけで、目を離した大人達が悪い。
私は生まれた時も仮死状態だったのに、生後1週間で再び死ぬ目にあった。

私がこんな風に昔のことを語れるのは、成長してから聞かされたからではなく、2,3歳頃からの鮮明な記憶を持っているからで、出生時の事は幼児期に親から聞いて知っていたが、親は笑い話のように語っていたので、私も「へぇーそうだったんだ」くらいの認識しかなかった。
それが実はとても危険な事だったと知ったのは、大学で「小児保健」という授業を受けてからだ。死亡に至らなかったとしても、小児まひや知的障害など、心身に影響を及ぼす危険が高かったのだと初めて知った。

私は、幼いころ、暗がりに不思議なものを見ていた。とても綺麗で、虹色の様々な形のものがたくさんたくさん流れるように浮かんでいて、私はそれを掌で包んで捕まえることもできた。布団にもぐって、一番綺麗なそれを捕まえて、握った手の隙間から覗くと、捕まえたその綺麗なものが手の中にちゃんと見えた。
今は幼い頃ほどは綺麗ではないけれど、やはり暗闇は闇ではなくて、カラフルな虹色の模様で溢れている。
小学校の低学年で気付いたのは、明るい所では透明なシャボン玉のような〇が空中を動き回っていることだ。参観日で授業は早く終わり、母親は懇談会に出ていて、一人で南向きの和室でぼうっと宙を見ていて気付いた。空気が見えるのかな、と思った。
大人になって分かったのだが、私には五感全てに強い感覚過敏があり、目に見える世界が普通ではなかったらしいのも、感覚過敏によるものだった。匂いにも敏感だったし、他人に触れられるのも苦手だった。

中学生になって自転車に乗れるようになって気付いたのは、目の中に細い線路のようなものが見えることだった。視線を動かすと付いてきて、それが何なのかは分からなかった。
成人して家庭の医学を読んでいて、胎児期に網膜内の血管が消えずに残ることがあると知った。それのようだった。数年後に眼科を受診したが、やはり飛蚊症などの異常ではなかった。
なぜ読んでいたかと言うと、最初のページから最後のページまで読んだからで、小学校の頃から、教科書なども配布されたその日に全部読んでいた。
その家庭の医学を読んでいて、「卵巣嚢腫」という病気が目に留まった。胎児期に卵巣の中に表皮細胞が入り込み、成長とともに毛髪や脂肪や爪になって肥大し、重みで卵管を引っ張り、撚れることで激痛を起こすと書かれていて、これはもう30年も昔の記述だから、最新の医学書では違うかもしれない。

えーっ、卵巣の中に髪の毛や脂肪や爪が詰まっていたら気持ち悪いなあ……と思っていたら、その1年後くらいに、まさに私自身がそれであることが分かり、左側の卵巣を摘出した。
最近再放送されたグッド・ドクター第7回に出てきた伊代ちゃんが、たぶん同じ病気だったと思う。私の場合、摘出後に検査に回されたが、幸いにも悪性ではなかったようだった。
(この記事は、ブログを中断していた7月半ばに書き、投稿していなかったものです)

20代の若さで卵巣を片方だけとはいえ失ってしまう哀しみ。しかし、誰も分かってはくれなかった。特に年配の女性職員は「手術といったって子宮口から出来るから簡単でしょ」と冷たく、「お腹を切ります」と答えても無神経な態度や言葉は変わらず、入院や手術のための仕事の調整を泣く泣く自分でやっていたら、ようやく一人の人が「それはあなたのやることじゃなくて私達のやること」と言って代わってくれた。
最初に受診した近所の婦人科では「子宮筋腫」と診断されていて、治療などだんだん信用できなくなり、遠くの婦人科で「子宮筋腫じゃないよ」と言われて初めて発覚した。
私はその数年前から度々ひどい腹痛を起こし、救急搬送され、胃カメラまで飲まされて、「異常なし」で帰されたこともあり、やっと腹痛の原因が分かったのだった。
手術当日のこともよく覚えている。手術室で自ら全裸になって手術台(分娩台)に横たわらねばならず、音楽は掛かっているし、胸部麻酔ですぐに意識は朦朧となったけれど、冗談を言い合ったりしているのも聞こえて嫌だった。「卵管は温存」と言われたのは強く印象に残っている。
手術後、両親の顔を見ると、張り詰めていた気持ちが切れ、私はワアワア泣いてしまった。そして、麻酔が切れると、地獄のような痛みが待っていた。
回復し、自宅療養中に一時実家に戻っていたが、手ぶらで顔を出した義理の兄は、見舞いを言うでなく「へえ、痩せたね。やっぱ大変じゃったっちゃね」と言っただけだった。

回復してからも、私はとても疲れやすく、たびたび倒れて、職場でもベッドで休ませてもらったりした。浮遊感のあるめまいにも悩まされ、緊張をほぐす漢方薬など処方された。

子供の頃から呼吸器系が弱く、たびたび肺炎や気管支炎、胸膜炎になった。

職場のレクリエーションでバレーボール大会に参加したところ、膝をひねって半月板損傷となったが、担当者が保険に加入するのを忘れていて、保険金が貰えなかった。
町内唯一の総合病院に行ったが、炎症により溜まった水を抜くだけという10年遅れの治療をされ、何年経っても痛みが無くならず、歩いていると突然膝がガクンとなった。別の病院で、スポーツをするなら手術しなければならないと言われた。

病気ではないのだが、祖母が亡くなった際も厚生担当者が忘れていて「弔電」を貰えなかったことがある。私の祖母が亡くなって2週間ほど後に別の職員が朝礼時に「この度は祖母の葬儀で弔電を頂き、有難うございました」と挨拶したのを聞き、「えっ、弔電なんて私もらってないけど?」と思っていたら、厚生担当者が跳んできて「ゴメ~ン。あなたの時は忘れてたぁ」と言われた。
ゴメンで済む? 私は職場の皆に、弔電を貰っても挨拶もできないダメ人間と思われたに違いないのだ。
どうも私は運が悪いらしく、数えたらきりがない。多過ぎて、とても書ききれない。

若い頃からの無理(生活のため肉体労働など)がたたってか、悪い左膝をかばってしまうせいか、右足は進行性膝関節症になり、一時期は歩くのも困難だった。体重は軽いのに。

体質に合わない薬が多くて副作用が出やすく、高熱で点滴を打った際には、何かの薬が薬を点滴に足された途端にひどい吐き気で苦しみ、その足した薬を抜いたら治まった。吐き気止めの薬だと言われた。吐き気止めで吐き気が強くなったのだ。
他にも、「きんぴらごぼう」にはまり、唐辛子は1本だけでそれほど辛くしなかったのに初期の痔になり、専門医に処方された薬で治るはずだったのに、薬を塗ったらヒリヒリして、翌日にはひどく悪化して手術する羽目になり、2週間分の薬は体質に合わなかったのに返品できず、さらには、当時の私は歯科の麻酔さえ炎症を起こしていたために局部麻酔は使えないと言われて全身麻酔での手術となった。

飲み薬にも合わない物が多いし、初めはよくても、使っているうちに副作用が出てきて使えなくなる。副作用が殆んどないという薬でも副作用が出てしまう。薬だけでなく、化粧品も、塗った瞬間からヒリヒリするものが多く、今は通販で無添加の肌に合うものが見つかって助かっている。どうも私は、体の中も外も過敏すぎるようだ。

甲状腺の病気である橋本病であることも分かった。橋本病とは、自己免疫疾患の1つで、甲状腺機能が低下することにより全身の代謝が低下し、身体活動と精神活動が全般的に活動的でなくなり、疲れやすく、鬱になったりもするらしい。

母の介護をするようになって数年して、体中の痛みや起床後の手足のこわばりなどの症状が出るようになった。動き回っていると痛みやこわばりもなくなるし、母の介護のために自分のことは全部後回しだったので、母の状態が悪化して入院し数か月してから、漸く自分の症状について調べて間接リウマチを疑い、リウマチを見てくれる整形外科を受診し、神経障害性疼痛と診断された。
ところが薬が体に合わず、2回目に処方された薬の激しい副反応で救急搬送されることとなり、複数の病院に拒否されて最後に県立病院に受け入れられたが、病室に空きがなかったらしく、二日目は何の説明もなく運ばれた病室が、会話の内容から察するに重症癌患者の病室で、肩身の狭い辛い夜を過ごし、しかも、救急外来との間で申し送りが無かったらしく、当直の看護師に訴えても「聞いていない」の一点張りで入眠剤ももらえず、明け方まで一睡もできない苦しい夜を過ごさねばならなかった。

母は入院中から徘徊などの症状が悪化し、同じ敷地内の介護老人保健施設への入所を勧められたが、体調は良くなったものの認知症は進行し、それなのに、一年も経つと、状態が良いから今のうちに在宅へ戻れと面会の度に言われるようになった。
その秋、地域包括支援センターに相談の電話をしたが、「インターネットで見られる情報以上に提供できる情報はない。結局は家族が自分で見学して決めることだから」と、相談を拒否された。そのショックで、私は数か月間体調を崩し、外出もままならなくなった。

翌年の7月、40度近い高熱で、動けなくなった。お独り様のために自分でどうにかするしかなく、買い置きの経口補水液ゼリーや薄めたスポーツ飲料を飲みながら、2日後に熱は微熱にまで下がったが、頭痛や倦怠感、咳は治らなかった。
また肺炎か気管支炎かと思い、行きつけの内科を受診したら、好酸球性副鼻腔炎と診断され、さらに数日後には激しい喘息の発作を併発して夜も眠れなくなった。

その数か月後、要介護5となった母を、ようやくグループホームに入れることが出来て安心したのも束の間、突然左耳が聞こえなくなり、突発性難聴になった。

そして、NHKの発達障害に関する番組を見てまさに自分だと思い、自分は自閉症スペクトラム障害に違いないと思っていたのだが、受診の結果、高機能自閉症と診断された。
私には五感全てに強度の感覚過敏があり、記憶をたどると幼児期にすでにあったが、自分も周囲も気付いていなかっただけだったと分かった。五感全ての感覚過敏だけにとどまらず前庭覚過敏もあるし、聴覚情報処理障害もある。詳細はとても書ききれないので、別の記事で。
つまり、私が無口でノロマダだったり、運動音痴だったり、疲れやすいのを我儘や怠惰に思われたり、ゴーイング・マイウエイと言われたり、生き辛い日々を送らねばならなかったのは、自閉症スペクトラム障害や感覚過敏によるものだった。
その上、IQが高く、脳の情報処理速度が速い為に、周囲の人達とのずれが生じる。まさか自分のIQが高いなんて知らなかったし、どうせなら、IQ150とか180とかなら超越できたかもしれないけれど、130程度では中途半端すぎる。

高校を卒業して自炊するようになってから、健康や食生活には人一倍気を付け、高校卒業時の体重をほぼ維持しているし、たまに貧血や過呼吸を起こす以外は健康体だと自負していたのに、いくら何でも病気や障害の数が多すぎないか?

出生時に仮死状態だったこと
幼児期から感覚全てに強い感覚過敏があること
網膜に血管が残っていること
卵巣嚢腫(皮様性嚢腫・奇形腫)による20代の若さでの卵巣摘出
聴覚情報処理障害
橋本病 → 経過観察中
神経障害性疼痛 → 2つ目の薬の副反応で救急搬送。治療断念。
好酸球性副鼻腔炎(喘息併発) → 薬の副反応で治療休止
突発性難聴 → 一応の回復はしたが、聴覚過敏増強
自閉症スペクトラム障害(高機能自閉症)
金属アレルギー(鉄、プラチナ)
体の中も外も過敏すぎるのか薬の副作用が異常に強く、使えない薬が多いこと

これ全部、自分自身ではどうしようもないものばかり。

いくら何でも、一人の人間に多すぎるような気がするのだが?

絶望の淵、諦めの先に2020/12/25

随分大げさなタイトルだと思ったかもしれない。
けれど、決して大げさではないのだ。

私が、生まれた時から既に様々な困難に合い、多くの障害と病気を持っていることは、前の記事で書いた。
ただ、おそらくは、多くの人が?????と思うだろう。
その辛さ、苦しみはほとんど理解されない。
「命に関わるわけでもなし、大した事じゃないやん。もっと大変な人一杯居るよ」って思われそう。
だから、私も、誰にも言えない。

以前の記事にも書いた通り、障害者就業・生活支援センターでも、冷たく扱われた。
市役所の障害福祉課では、ヘルプマークを渡されただけだった。
専門知識があり、支援する立場にある職員でさえそうなのに、隣近所や職場やごく一般的な人達が理解するのは難しいだろう。

実の姉も、大した事とは思っていないらしく、詳しい事を聞こうとはしない。3ヶ月前にヘルプを送った姉からは、もう2ヶ月半連絡がない。仕方がない。姉はコロナ禍で仕事や家族を守るのに精一杯だ。
私は、姉が心に寄り添ってくれることを諦めた。

半年前にヘルプした親友。優しい人だけれど、彼女もあまり理解しない。
「心無い返信をしてしまってゴメンね、過去にも同じ失敗で多くの友人を失った」という彼女に、
私は「大丈夫。貴方は優しい人。一人じゃないよ」と返した。
私は、自分の本心を打ち明けることを諦めた。
差しさわりの無い日常のみの遣り取り。
それでいい。彼女が私の苦しみを理解できなくても、私を気に掛けてくれていることは本当だから。

NHKの発達障害に関する番組やサイトでは、ある発達障害者の
「助けを求める資質も必要」といった内容も紹介されていた。
それは、救いの手が差し伸べられたから言えること。
私は何度も助けを求めたけれど、どこにも届かなかった。
地域包括支援センターも、障害者就業・生活支援センターも、市役所障害福祉課も、助けてはくれない。
自閉症スペクトラム障害と言っても、IQが高いゆえに、自立に問題ないと思われる。
私のHELPの求め方が悪かった?
諦めずにHELPし続けろ?
もう無理。これ以上、傷付きたくはない。

TVでは「おうちで家族と過ごそう」というけれど、一緒に過ごす家族はいない。
「離れていても電話で話そう」と言うけれど、私は親友に電話をして辛い思いをしたから、もう自分の都合で電話はできない。

まだ仕事をしていた頃、別の親友の声が聞きたくなり、何時頃なら忙しくないだろうかと考え、夜8時頃に電話した。
「(月)だけど、今電話大丈夫?」と聞いた。
「なんで、この忙しい時に電話なんかしてくるの!」
親友はいきなり怒鳴った。
「忙しいならいいよ。ごめんね」
私は電話を切って泣いた。
忙しいかもしれないから「大丈夫?」って聞いたのに。
忙しいなら「ごめん、今忙しいから、〇〇時頃に電話してくれる?」って言ってくれればよかったのに。
きっと、親友は、そんな余裕がないほどに、何かに気を取られていたのだろうと自分を慰めた。数日後には、「あの時はごめんね」と電話があるかもしれないと。
とうとう彼女からの電話はなかった。
年賀状は欠かさず送っていたけれど、返信はあったり無かったり。
それくらいの事?と思う人もいるかもしれない。
けれど、異常な記憶力がある私は、様々なことがいつでも脳内でフラッシュバックする。
同じ思いは二度としたくない。

多くの事は、やがて時間が解決すると、よく言われる。
過去の記憶が決して薄れることの無い私の場合は、時間の経過は解決にならない。
相手は忘れていくけれど、私の中では鮮明なまま。
執念深いと勘違いされるかもしれないけれど、私自身も、そうなのかと苦しんだけれど、そうではなかった。

信じられないかもしれないが、私は、被災者でもないのに、東日本大震災の津波の映像がフラッシュバックする。
熊本の豪雨で家を失った方々のニュースを見るたび、辛くなって胸が痛くて涙がにじみ、鼻をかむ。
ちびまる子ちゃんでさえ、私は何度も泣いている。
一人暮らしの私は、TVも一人で見ているから、誰かに涙もろいと思われたくて泣くわけではない。

自らの行動で、心が痛くて苦しくなることを招きたくはない。

見た目には全く分からない障害。
私の障害や病気は、直接的に命の危険に関わらないし、感覚過敏で日常生活にどのような困難があるかなんて、誰も聞こうとはしない。
全ての感覚が超過敏であっても、感覚は目に見えないから、本人の気にし過ぎ、我慢が足りない、そんなの大なり小なり誰だって感じる……と思われるだろう。
私自身が、そう思って我慢してきたのだから。

感覚過敏によってどんなに日常生活が困難となるか、該当者以外は誰も想像だにしないだろう。
ましてや、私は、全ての感覚が過敏なので、そういう人は多くはないかもしれない。

自分でできる対策はする。例えば、TV画面は調整して一番暗くするとか、パソコンは専用眼鏡を使うとか、部屋の明かりは暗くするとか、TV視聴は字幕にするとか、外出時は耳栓をするとか……。
だけど、自分ではどうしようもない事のほうが多い。

食料品の買い出しに近所のスーパーに行っただけで、頭のクラクラと吐き気に襲われる。クリスマスや年末で店内放送も慌ただしく大音量となり、しかも暖房など入っていたら、もう地獄の苦しみ。
極力、車の運転は避ける。右折しようとして、信号無視の直進車にぶつけられそうになった恐怖と、病院からの帰りに事故車の隣を徐行しなければならなかった恐怖。
もう一つ、病院からの帰りのスーパーの駐車場で、私が駐車スペースにバックした途端に右側の車のドアが開き、左側には急に車が入ってきて、体調が悪かった上に前庭覚障害のある私は、目が回って車を真っ直ぐに止められず、少し斜めになったが駐車スペース内には収まっていた。
車から降りた途端、左側の車から降りた中年女性に言われた。
「もっとちゃんと駐車したら!」
その女性は、ピンク色の制服の左胸に「アイコデイサービス」と青い刺繍がしてあった。
以来、私はそのスーパーに車で行けなくなった。

長距離の自動車運転は、信号無視の車にぶつけられそうになった恐怖や事故車の隣を徐行しなければならなかった恐怖で、もう出来ない。
駐車場も怖い。
公共の交通機関も怖い。
長距離の移動ができないし、付き添ってくれる人もいない。
映画にも行けない。
交通手段の問題だけではなく、映画そのもののフラッシュや点滅、急速度のカメラワークなどで頭痛と吐き気がするからだ。
自宅では、TVを消して目を閉じて休めば良いけれど、一人の外出先ではどうしようもない。
だから、引きこもるしかない。

コロナ禍で、ステイホームを呼び掛けられるから、家から出なくても、周囲の目を気にする必要は無いけれど、何処に行くにも何をするにも一人で、障害や病気による日常の困難も理解されず、一人で抱えるしかない孤独。

私は、決して自ら引きこもった訳ではなく、若い頃からボランティアや地域活動を始め、色々な団体に所属して活動したり講習を受けたり資格を取ったりした。
けれど、詳しい話はここでは書かないけれど、朱に交わっても赤くなれない私の孤独は、癒されるどころか、弥《いや》増すばかりだった。

私の障害や病気は、直接命の危機には至らないけれど、孤独こそは死に至る病であるとは、誰も考えないだろう。
私は子供の頃から何度も絶望の淵に立った。
小学4年生の頃、既に友人関係に絶望した。仲が良く、親友と公言する同士が、陰では互いの悪口を言っているのを見聞きして、誰も信用できないと思い、遠くに行ってしまいたかった。
虐められ、仲間外れにされ、担任からさえ耳を傾けてはもらえず、親友と思っていた相手に裏切られ、職場では体調不良をサボリや怠慢と思われてパワハラ被害に合い、恋した人は、自分から超アピールしてきたくせに、私が辛くて弱音を吐くと離れていった。

私は、この世界に絶望しかない。
けれど、死を選んでも解決しない。
だから、私は、自分ではどうすることもできない事を全て諦めることにした。
もう子供を産んで母親になることができないと分かった時の哀しみ。
それを諦める事でしか、前には進めなかった。
公的機関の支援も諦めた。
再就職も諦めた。
異性に理解されることも諦めた。
姉の寄り添いも諦めた。
親友に理解されることも諦めた。

絶望の淵の、諦めの先に、ただ一つあるのが、こうして書くこと。

幸いなことに、コロナ禍にあっても、私には住む家があり、質素に暮らしてきたから仕事をしていた頃の貯えにより買い物もできる。

小説投稿サイトへの投稿は、世間で主流のライトノベルとは逆行した小説なので、PVは増えないけれど、読んでくれる読者がいれば、それで心の支えとなる。

絶望の淵から、全てを諦め、ただ一つ残った、現実ではない世界を描くこと。
収入にはならないけれど、今できることは、ただそれだけ。
だから、私は全力を傾ける。

長文を読んでくださって、ありがとうございます。m(_ _)m