ファミリーヒストリー12020/08/15

お盆のお膳
今日はお盆で終戦記念日なので、父の生い立ちについて書こうと思う。

父は、私が子供の頃、昔の話をよくしていた。説教臭い話し方だったので、私はあまり好きはなかったのだが、父自身が幼い頃から苦労したらしいことは、当時小学生だった私にも分かった。

父の口癖は、「定年退職したら自伝を書く」だった。自伝に書いて残したい事がたくさんあるようだった。けれど、53歳で早期退職した後、父は一向に自伝を書く気配はなく、私のお古のワープロを上げたけれど、少し練習しただけだった。
父は、自伝を書くとあれほど言っていたのに、ついに自伝を書くことなく、80歳でこの世を去った。なので、私が代わりに書こうと思う。書付などは全くないので、私の記憶だけが頼りだが、父から聞いた話は、ほぼ覚えている。

私が生まれた頃には、既に母方の祖父母は亡くなっていた。
父方の祖父母は存命だったが、私が5歳の時に祖父は亡くなった。祖父が亡くなる前に2回会った記憶がある。頭は丸刈りで、優しい目をした祖父だった。
葬儀の後、私達家族は住んでいたアパートを引き払い、一人になった祖母と約1年間一緒に住んだ。けれど、父と祖母は折り合いが悪く、孫である私にも、祖母は辛く当たった。たった5歳か6歳の悪気も何もない子供に。

祖母は、次男である父よりも長男を頼りにし、他県に就職した三男と一緒に住みたがった。それで、私が小学校に入学する直前、私達家族は祖母の家を出たのだ。
祖父が亡くなって早朝に起こされた時からの祖母の家での約1年間を、私は詳細に覚えている。それについては、またの機会に書くと思う。

祖母と折り合いが悪いのに、何故父は、実家に戻ったのか。
もちろん、仲が悪くても、息子にとって母親はやはり大事な存在だったのだろう。
それに、父は実家について、あの家はお父さんが建てたのだと、よく話していた。空襲で焼け出された後に、父が自らお金を出し、自ら壁を塗って建てた、兄も弟も何もしていないと。

父の実家は、農家でも商家でもましてや武家でもなく、おそらくは小作だったのだろうと思う。自宅敷地内に小学校低学年用プールくらいの広さの畑があり、他に、1㎞弱離れた所にもテニスコートくらいの広さの畑があった。
玄関わきの6畳ほどの土間で、醤油などを売ったりもしたらしいが、祖父は専売公社に勤めていた。今の日本たばこ産業だ。

祖父の父親、つまり私から言えば曽祖父になるが、実家に子どもが居なかったために、よその土地から養子に入ったという。けれど、昔の事で手続きとかきちんとされなかったようで、養子に入る前の生家の名字をそのまま名乗ったため、元々の実家の名字ではなく、曽祖父の実家の名字が今に受け継がれている。

曽祖父の名前は知らないが、祖父の名前は金〇郎という。名前に金が付くのは、子供が将来経済的に困らないようにと言う親の願いらしいから、曽祖父は、子供を愛する良き父親だったのだろう。
けれど、曽祖父は、1904年に始まる日露戦争に出征してしまう。出征直前に撮ったと思われるセピア色に褪せた写真を、私は幼い頃に祖母の家で見た記憶がある。軍服姿に鉄砲を持った曽祖父と少年の祖父の写真だ。祖父の軍服らしい姿の写真もあったから、もしかしたら、祖父自身も日中戦争に行ったかもしれない。

日露戦争に行った曽祖父は戦死した。その知らせに、祖父は家の中で転げまわって泣いたのだと父から聞いた。
そして、生活は極貧となった。

祖父が年頃となって結婚をしたが、当時は珍しくもなかった結婚式当日に初めて花婿花嫁が顔を合わせるというパターン。結婚式は現代のような式場ではもちろんなくて、実家で行われたのだが、結婚式が終わったとたんに、襖(ふすま)も障子も全部取り外されて無くなったという。襖も障子も、近所や親せきからの借り物だったのだ。それくらい生活に困窮していた。

そんな家に知らずに嫁いできた祖母の驚きや落胆、苦労は計り知れないが、そんな家に生まれた父もまた苦労を強いられた。

父を含めて子供が7人。当時としては子沢山な方ではない(母方は13人と聞いたので)と思うが、祖母は、幼い弟や妹は空腹を我慢できないからと、年長の子供には薄いお粥しか与えなかったらしい。薄いお粥を食べ、習字の練習に使った新聞紙に梅干し1つ入れた握り飯を包んで弁当にした。
けれど、育ち盛りの父には、薄いお粥の朝食では我慢が出来ず、尋常小学校に行くとすぐに、墨で真っ黒になった握り飯を食べてしまったのだという。もう昼ご飯はない。父はよく山学校に行ったそうだ。今でいうサボリだが、腕力に恵まれていた父は、時には他の裕福な家の生徒から弁当をせしめることもあったらしく、ガキ大将的位置にあったのかもしれない。
父は走るのは早かったそうだが、徒競走で走るのが面倒で(空腹だったからかもしれない)他の生徒に「お前、代わりに走れ」と押し付けたりもしたらしい。

父は勉強が良くできて、特に国衙が得意だったらしい。私が小学校低学年の頃、「読み声カード」と言って国語の本を音読して親から丸印をもらう宿題があったのだが、私が読んだ後、よくお手本だと言って父が読むのを聞かされた。きっと、父は向学心があったと思う。
けれど、家が貧しかったから、自分より勉強のできない生徒たちが尋常小学校卒業後に旧制中学校などに進学するのに、父は諦めるしかなかった。

父は、東京芝浦電気に就職した。つまり、今の東芝のことか。
東芝の寮で、父は好男子として有名で、当時の写真は無いが、後の22歳頃の写真を見ると、欲目ではなく石原裕次郎よりずっとハンサムだ。父は高齢になっても端正な容貌だった。時代が違えば、映画俳優やジャニーズのようなアイドル歌手にだってなれたかもしれないが、父はしがない工員で、実家に仕送りをせねばならなかった。

そして、太平洋戦争が勃発する。
父は、1945年3月10日の東京大空襲を生き延びた。焼け野原となった街の中を、黒焦げになった死体や、川べりに折り重なった死体に恐怖しながら逃げ延びたのだという。満16歳だった。
そして、同年6月29日、東京で焼け出されて帰郷した父は、郷里で再び大空襲に遭う。

父は16歳だったが、祖父は人が良くて度々騙される人で、だから次男である父が、家を守らなければと必死になったらしかった。
ただ、哀しいかな、そんな父の想いは家族には伝わらなかったらしく、気難しいと疎まれたようだった。
ただ、父の兄弟の中で、唯一父だけが祖父の名前に似ている。祖父は、父が生まれた時から何か特別な思いを持っていたのではないかという気がする。

そののち、父は自力で夜間高校に行き、今や世界的になっている日本有数のA会社に就職した。
夜間高校と聞いたとき、幼かった私は、お湯を沸かすヤカンしか思いつけず、何のことか分からなかったのだが、父は幼い子供に分かるように噛み砕いて話す人ではなく、私もまた、父の話の途中で口をはさむなんて出来なかった。

ちなみに、父は会社でのポストは平に近いままだった。その理由等々父の話はまだ続きがあるが、ひとまずはここまで。