故郷の海岸を守りたい2020/08/04

子供の頃に砂浜で拾った貝殻
アカウミガメの産卵地になっている宮崎県日南市の海岸で、市の保護施設でふ化したカメの赤ちゃんが8月4日朝、海に放流された、というニュースを見た。
今シーズンは、これまでにおよそ4800個の卵が保護され、4日朝、このうちの40個がふ化しているのが確認されたという。

私が生まれ育った町の砂浜でも、毎年アカウミガメが産卵し、ふ化したカメの赤ちゃんが海に帰っていくのを見たこともある。
私の両親は、私が生まれた後も何度も引っ越しをしたのだが、ずっと海岸のすぐそばだった。遊泳禁止の海だったから泳ぎはしなかったけれど、砂浜と松林は、幼い頃から高校時代まで、ずっと私の遊び場であり、唯一の居場所でもあったと思う。

波打ち際は砂が濡れて引き締まるので歩きやすいが、松林を出て波打ち際まで、砂丘を2つも超えて歩くのは、けっこう大変だった。草履の下で乾いた熱い砂がずれるので、一足ごとにバランスを保たなければならない。夏の砂浜は火傷しそうなくらい熱かった。歩きやすい波打ち際に早く行きたくて、私は砂浜を草履履きで走った。

私が小学校低学年の短い間だったが、父が犬を飼っていたことがあり、夕方には犬を連れて家族で浜に行った。私は犬と一緒に浜で走り回った。
当時は薪を燃やしてお風呂を沸かしていたので、夕方には毎日のように、浜辺に流れ着いた焚き物を拾いに行っていた。ごく細い枝や木の皮が集まった物は、ガランコと呼んで焚き付けにしていた。大きな焚き物は父や母が運んだが、幼い私はガランコをたくさん集めて運んだ。

私は運動音痴で(今から思うと、たぶん自閉症のせいで脳と体がうまく繋がっておらずに、思うように体を動かせなかったのだと思うが)、ボールを投げてもヒョロヒョロで、走るとビリだったのだが、クラスで一番の俊足の女子に勝ってテープを切ったことが一度だけある。学年末のお別れ遠足は毎年、浜で行われて、宝探しをしたり、ビーチバレーをしたりするのだが、その年は砂浜での徒競走だった。当然のことながら砂に足を取られて上手く走れない。でも、砂浜で毎日のように走り回っていた私の足は慣れていたから、よろめきもせずに一番でゴールしたのだ。その俊足の女子も、私同様に浜育ちだったのだが、友達も多く、スポーツ万能だったから、私のように砂浜で一人走り回ったりはしなかったのだろう。

中学や高校になると、家族で浜に行くことはなかったが、友達の少なかった私は、学校から帰宅して夕方になると、毎日のように松林と砂浜に一人で遊びに行った。日曜日や春休みや夏休み、冬休みさえ、時間があると松林と浜に行った。
松林は、大きく育った松の木の間隔が広く、苗木が植林されずにいたので、木漏れ日のさす下には黒松以外の様々な木や草花が育っていて、私はそれらを発見するのが楽しくて、松林の中をずっと遠くまで散策した。獣道のような細い道も全て把握し、どこに何の木が生え、どんな花が咲いているか、自分の庭のように把握していた。
波打ち際では、歌を歌って貝殻を拾いながら、南は潮汲み場といわれる施設がある所まで、北は干潮時には砂浜で陸続きとなることもある河口まで、歩いた。

今の時代では信じられないかもしれないが、女の子が一人で松林や砂浜に行っても、危険だとは思われていなかった。

小学校4年生の夏休み直前、水泳大会のあった日の夜、私は40度の高熱を出し、受け入れてくれる病院が一つもなく、唯一受け入れてくれたN医院という小さい医院に入院した。肺炎と言われたが、今のような良い薬はなく、点滴をした覚えもない。病室の窓から見える向かいの家の屋上に、柱サボテンが植えられていて、黄色い花が咲いていたのを覚えている。
2週間の入院中に2つの台風が直撃した。台風後、肺炎はあまり改善せず微熱が続いていたが、学校は夏休み中なので自宅療養することになり、退院した。

そして、数日後に浜に行き、愕然とした。2つの台風の直撃を受けたせいなのか、松林の縁から波打ち際がすぐそこに見渡せるほどに狭くなっていたのだ。
まるで鳥取砂丘のように広がっていた砂浜、砂の丘をいくつも超えないと波打ち際に辿り着けなかった砂浜、潮が引くと、砂丘と砂丘の間に潮だまりの川が2つも出来るほどの広さで、浪打ち際までの距離が遥か遠くだったのに、三分の一以下に短くなっていた。

その後、松林と砂浜の間に防波堤が築かれ、波消しのテトラポットが並べられ、私が高校生の頃には、以前通りとは言えなくても、少しは砂浜が復活し、高齢者達がゲートボールをしたり、若者達がサーフィンをしたりしていた。

大学生になった私は自宅を離れ、その後両親も、結婚した姉の家がある里山近くに引っ越したので、私が再び故郷の海岸を訪れる機会は無くなった。

昨年、父の墓参りをした際、ちょっとだけ浜に行ってみることにした。何十年も離れ、その町の住人ではなくなった私は、松林に足を踏み入れる事さえも、何か悪いことをしているような気持ちになってしまったのだが、松林を抜けた途端、私は愕然とした。松林の端にある防波堤のすぐ下が、荒波打ち寄せる海だったのだ。
砂浜は全く無かった。

昔は、松林を抜けると、枕の実にするハマゴウ(両親はボウレンと呼んでいた)が群生していた。そこを抜けると一段高い砂浜で、アカウミガメの卵の保護のため、波打ち際から卵を移して囲いを作っていたのもそこだった。そこから緩やかに下って広い砂浜が広がっていたのだ。
ふ化したカメの赤ちゃんが海に帰っていくのを見たあの砂浜。
サクラガイやヒオウギや綺麗な貝殻を拾って歩いたあの砂浜。
それらは、もうどこにもなかった。
幻のように消え去っていた。

私は強いショックを受けた。ダムが幾つも出来たせいで、河口に砂が流れ込まず、海岸に砂が堆積しなくなったのか。そうだとしたら、治水のために止むを得ない事なのか。

けれど、今年になって、そうではないことを知った。
事業者が毎年多量の土砂採取をし、それによって県は利益を得ているという。
県によると、土砂採取の申請があれば、法的に問題が無ければ許可せざるを得ない、のだという。
昨年10月の台風では、高波が松林の中に30mも侵入したらしい。

松林を含む海岸は、住民にとって大切なもののはずだ。昔から普通にそこに在った松林や砂浜と一緒に生活し、成長してきたのだ。アカウミガメも昔から保護されてきた。
地域の住民にとっての浜は、熊本県民にとっての熊本城、沖縄県民にとっての首里城にも等しいほどの大切なもの。
精神的に大切なだけではない。台風や津波から命や財産を守ってくれるものでもある。

そんな大切な存在を、なぜ県はないがしろにするのか。
法的に問題がなければ許可するって、法的に問題がないはずは無い。地域住民の安全を脅かしているのだから。
それに、山からの土砂採取なら山の持ち主が許可すれば仕方ない面もあるかもしれないが、砂浜は県の持ち物ではない。それを勝手に売って収入を得ているなんて、信じられない。自分の住む県が、そんなことをする県だったなんて。
「海岸の浸食と土砂採取の因果関係が明確でない」などと寝言を言う県だったなんて。

私の故郷の海岸は、危機に直面している。長く離れている私でさえ大きなショックを受けたあの痛ましい海岸。
実は日本全国で同じようなことが起きているらしい。

コロナは大変だけれど、きっといつかは終息するに違いない。有効な治療法が確立され、ワクチンや新薬が開発されるはず。世界中が必死になっているから。
失われた命は戻らないけれど、数年か十数年か先には、きっと、今の大変な状況よりは改善しているに違いない。

けれど、日々浸食されて削り取られて無くなっていく海岸線は、大多数の人が気にも留めないままだ。
そして今日も国土は狭くなり、地域住民の生活は脅かされ、海の生態系をも脅かしている。
県には、土砂採掘を許可するなんて止めて欲しい。
私が子供の頃にあった豊かな海岸環境を、どうか取り戻してほしい。

郷愁の為ではなく、人為的に破壊された自然は、そのままで良いはずはないのだから。